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義兄

「簡単に言ってしまえば、記憶喪失でしょう」


 白色を基調とした一室、カーテンに細かく刺繍された金糸とバルコニーに繋がる扉のノブが夕陽に照らされ宝石のように輝いている。透明度が高く歪みのないガラス窓から覗く太陽は、ベッドの上、沢山のクッションに凭れかかる少女──リリアンの黄金色の髪によく似ていた。


「会話も動作も支障がなさそうですので、恐らくこれまで経験したことの記憶を失ってしまったのでしょうが、それ以上はなんとも」


 あれこれと小難しい説明を続けた壮齢の医者はそっと息を吐きそう告げた。その顔は深刻そうに歪み、悩まし気に白髭を撫でつけている。

 それとは対照的に、その症状を持つ当の本人であるリリアンは、ぼんやりと首を傾げるばかり。事の重大さに気が付いているようには全くもって思えまい。寧ろ、上等な椅子に腰を掛けた医者の後ろ、壁際で二人の話に耳を澄ませる青年の方がリリアンよりもよほど驚きに満ちたように思える。


「記憶喪失、ですか」


 ぽつり、呟いた言葉はやけに腑に落ちた。

 これまでに生きてきた過去があった筈なのに、手を伸ばしたところで霞のひとつも掴めないこの感覚を、きっとそう呼ぶのだろう。記憶喪失、記憶喪失となんとなく小さな声で反芻するリリアンを痛ましげに医者と青年は見遣るけれど、不思議と恐怖心、不安感、焦燥感という類の感情はなかった。いや、どちらかと言えばその感情を抱く状況であるのか判断が付かないというべきだろうか。

 鬱蒼と漂う空気にどうしたものかと首を捻ると、青年の黒い目がじっとこちらを向いた。


「彼女の記憶は」


 壁に付けていた背を離し、青年は一歩ずつリリアンに近付いていく。その間、逸らされぬ瞳は、見つめ返す硝子玉の奥にカノン所すら気付かぬ感情の欠片を見付けたようで、ゆるゆると首を振った。


「いや、ここで聞くことではなかったね」


 柔らかな銀糸が揺れる。


「詳しい話は追ってまた。執務室で待っていてくれ」

「仰せの通りに」


 医者、恐らく主治医と思わしき男の後ろに控えていたものだから、てっきり彼の従者か助手なのかと思いきやどうやらそうではないらしい。恭しく頭を下げ、部屋を出て行く男に代わり、青年が椅子に腰を掛ける。


「気分は悪くない?」

「あ、はい」


 黒色だと思っていた瞳は、近くで見ると深い宵闇。心配げに覗き込むそれは、じっと心の底まで見透かすように交錯する。八秒。不調は隠していないと納得したのか、青年は視線を落とし口を開く。


「どうして記憶を失くしたかも覚えていないのかい」

「あ、はい」

「過去の事、ひとつも……?」

「……はい」


 伏せた瞳に睫毛の影がかかる。髪の毛とよく似た銀色の、光。

 肌は白く艶やかで、垂れた瞳は柔らかな印象を与える。女性と見紛いそうな顔立ちながらも、ラフなシャツから覗く腕は筋肉質で騎士のよう。

 美しい人だと場違いながらも思う。


「そうか。……何も分からない中沢山の話をされ疲れただろう。少し休みなさい。また、ゆっくりと全て説明しよう」


 慣れたように青年の手がリリアンの髪を撫でる。その仕草がくすぐったい。


「これからしばらくは少し苦労するかもしれない。周りも煩くなるだろうが、お前は何も気にすることはないよ」


 独り言のように呟く。それはまるで彼が自分自身に言い聞かせているように聞こえて、リリアンはなんと答えるべきか考えあぐねた。


「大丈夫、何も心配しなくていい」


 視線の在処を失い目を彷徨わせたリリアンが現状に不安感を抱いていると勘違いしたのか、青年は髪からゆっくりと手を下ろしていき、柔らかな頬に触れた。その手の冷たさに少し驚いたものの、なんでかそれが正しいように思えて瞬きを繰り返した。


「……あの」


 小さく発した声は掠れ、優し気に笑いかける青年が「なにかな」と首を傾げる。


「あなた様の、お名前は……?」


 窓の隙間、吹き抜ける風がヒュウと音楽を奏でる。カーテンが揺れ、影が生き物みたいに動いた。


「…………え」


 大きく見開かれた瞳には夕陽が映り、夜明けによく似ている。


「ああ……、すまない。そうだったね」


 くつくつ、と笑う声は乾いていて、まるで自嘲しているように聞こえた。冷たかった手が離れ、行き場を失くした迷子のようだ。


「そう、だね」


 改まったように伸ばされた背は虚勢。青年はリリアンを真っ直ぐ見据え、口を開いた。


「ぼくはルイス・ヴィリエ。お前の義兄で、……恋人だよ」


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