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黄蝶

作者: のんきや

サイトカラーに合わないかもしれませんが・・・

 遠くからはその島は海に浮かぶ小さなしみのようだった。珊瑚礁が取り巻く小さな島。最も長いところでも4キロほどの長さしかない。端から大砲を撃てばもう一端に届く、などという冗談がささやかれた、本当に小さな島である。

 やがてエンジンのうなりがやや大きくなり、機体は下降し始めた。シートベルト着用のサインが点灯する。しみのような島はみるみるうちに大きくなって行った。白い砂浜、緑の木々の群、茶色い民家・・・

 これが同じ場所だとはとても信じられなかった。あの死の島と同じ島だとは。

 軽い衝撃が機内に走った。ごうっという大きな音が中まで響いてくる。飛行機はしばし滑走し、そしてゆるりと止まった。

 小さな島の小さな空港。白い建物にハイビスカスが描かれ、明るい雰囲気を醸し出している。彼は小さな手荷物一つ持ってゆるゆると飛行機を降りた。やっと帰ってきた。この場所へ。木蘭色の衣をわずかに直す。もう何十年と時が経っているというのに、身体が震えるのを止めることはできなかった。

 タラップを降りる。のどやかな光が辺りを照らしていた。向こうに椰子の木が並び、その先にグラデーションになった海が見える。木々を揺らす優しい風に彼はつと目を上げた。何の木だろう?鮮やかな桃色の細かい花をつけている。

 人々の笑いさざめき。何十年の時を経て、島は多くの観光客の訪れるリゾート地となった。明るい光につつまれ花咲き乱れる常春の島----美しい珊瑚礁に恵まれたこの島を皆が愛さないわけがない。

 しかしながら。

 彼の心はむしろ沈み込んでいた。彼にとってあの海は血の色をしており、島を覆って響くのは今も人々の悲鳴と怒声、そして銃声だった。薄い薄い表皮の下に隠れた赤い色がぴりぴりと感じられ、どうしても落ち着かない心持ちがしてしまう。

 この島には、かつて本国から四、五百人ばかりが移り住んでいた。押し込んできた、というべきかもしれない。先住者たちがいたのだから。いずれにせよ、新しい土地が必要だったのである。いや、理由などもう良い。彼らはほぼ全滅した。この地が戦場となった時に。投降することを軍司令部は許さなかった。投降するなら自決せよと。彼らは兵士ではなかったのだけれど。

 小さな島だったのである。あまりに小さな。逃げる場所などない・・・

 相手と自分たちとの力量の差は圧倒的だった。決して勝てるはずのない戦い。追いつめられて、人々は海へと飛び込んだ。明るい珊瑚の海は血の色で真っ赤に染まった----

 崖の上から海をのぞき込む。静かな珊瑚の海。澄んだ青色。命を生み出した海。全てを受け止めて穏やかに揺れている。

 恐らくこんな風にして全てはやがて消えて行くのだろう。古い爪痕も風水の浸食にいつかは惑星の「思い出」となり、惑星自身へとまた帰って行くのだろう。何千、何万の時をかけて。

「あまり端へ行くと危ないよ」

少しなまった英語でタクシードライバー兼自主ガイドが言った。少し浅黒い肌のこの男は客慣れした愛想のいい笑いで手招きした。

「そら、食べるかい?」

小さな小さなバナナを差し出す。

「モンキー・バナナって言うんだ」

 どこか酸味を含んだバナナである。覚えのある味。彼は小さく息をついた。もっと食べろというのを丁寧に辞して海に向かって鎮めの経を唱え始める。

 ----あの日。

 忘れもしない。彼の手の中には銃があった。全てが混乱の極みにあり、意識はとうに思考することをやめていた。目を閉じ意識を閉じることでしか、誰も正気を保てはしなかったのである。いや、既に全てが狂っていたのか----

 命が重いというのは虚構に過ぎない。海に落ちて消えるひとひらの雪片ほどの重みもない。でなくてはどうしてあれほども命を奪えよう?どんなに言おうと、つまるところそれは百万人、二百万人、そんな冷ややかな数字にまとめてくくられる程度のものでしかない。今もどこかで続く殺戮の応酬ははっきりとそのことを示している。人の命は軽い。あまりにも。

 先住の者たちさえもを巻き込みほとんど全滅したこの島で、けれども彼は生き残った----出てこい----たどたどしく言っていた敵兵の声が今も耳に残っている。出てこい、投降せよ、と。

 その言葉に乗ったのは時の分隊長の判断だった。分隊長は、部下に投降を命じ引き渡した後、「自決」した。責を負うために。

 かくして、彼自身は生き残った。

 タルブ山と呼ばれる小高い丘の麓、そこが最終戦闘地である。敵味方一体どのくらいの人間がここで命を落としたのか・・・

 彼は枯野の中に一人膝を落とた。山を見上げた風景は変わらない。それを取り巻く世界は変わっても。

 この小さな島での戦いがより大きな戦局の転機であったとも言える。というのも、この島が陥落した後、本国への空襲が本格化したからである。小さな島は、敵軍にとって、軍事戦略上、非常に大きな存在だった。戦闘機の給油基地としてどうしても必要だったのである。

 まるで何事もなかったかのように天地は広がっていた。のどやかな光の中に。

 広がる枯野。光を照り返す。彼はおもむろに経を唱え始めた。鎮めの経。一人静かに。次第次第に頭が白くなる。経の中に意識が沈み込んで行く----

 ざあっと不意に大きな音がした。驚いて目を開く。蝶。黄色い。黄色い蝶が一斉に地面からわき上がりぐるぐると彼の周りを飛び回り始めた。

 彼は再び目を閉じた。経を唱える。狂ったように飛び回る黄色い蝶たちをなだめるように。荒れ狂う流れを静めるように。

 ぐるぐる、ぐるぐる、蝶が飛び回る。ぐるぐる、ぐるぐると・・・

 どのくらい経っただろう。蝶たちは螺旋を描きながら天へと昇り始めた。一匹、また一匹と。ざあっと風を起こして蝶たちが舞い上がる。そうして、空へとけ込むように消えて行った。

 静やかに日の光が降り注ぐ。まるで何事もなかったかのように。全て音の絶えた中で、読経の声だけが辺り一帯に響いていた。



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