軋み
忘却と云う名の永劫の薄暗がりの彼方から、何時の間にか気付かれぬ内に、嵐が近付きつつあった。それは全宇宙の不注意と不用心とを呪い罵り、そして嘲笑うかの様にひっそりと現れ、しかし確実に、この広大な暗黒の一隅を侵蝕し始めていた。それはひとつではなく一群のものとして現れ、恰もそれ自らの秘めたる生命を裡に匿し持っているかの様に、一定の律動を以て拍を搏ち、その静止と衝迫の繰り返しから生まれる余剰の推進力を以て活性化の不活発なより低エネルギーの領域へと這い込み、夢魔の如くにその手の届く限りの領域の理を犯し、蹂躙し、好きな様に書き換えて行った。その動きにつれて地獄の瘴気めいた凄まじい溜息が余力を駆って周囲の領域へと流れ出し、忌わしい隠微な音響を谺させ乍ら、何か取り返しの付かない異変が起こりつつあることを底意地悪く告げ知らせた。最初はその間隔も短いもので、まだ遙かに静寂の方が優勢を占めていたが、二度、三度と同じ様なことがそこで繰り返されるに及んで、それが完全に乱数的な偶然の事象ではなく、既にひとつの秩序と規則、形態と境界とを持ち始めているものであることが、否定し様も無く明らかなものとなって行った。初めは極く単純で重く押し殺した様な微かな乱れだったものが、その規則的な脈動を繰り返す内に幾つかのより上位の纏まりを形成し、そしてその息詰まる展開が暫く続いてみると、それは更に大きな纏まりを成すものであることが判って来た。それは完全にフラクタルな対称性を成す訳ではないらしく、同じ様ではあるが完全に同一ではないパターンが繰り返されるに従って非対称性が大きくなり、厳格で情け容赦無い進撃に、不気味な気紛れさを彩って行った。個々の似た様な塊は、何度も何度も執拗に強迫的な拍動を繰り返して行ったが、余程注意深い者でなければうっかり見逃してしまうであろう程僅かずつ徐々にその勢力は増して行き、それも目立つ様にではなく主に水面下で静かに、波紋が波紋を呼び、長い年月を掛けて年輪が太くなって行く様に、分厚い装璧を積み重ねて行った。その共鳴振動によって永い沈黙を揺り動かされ、物憂い眠りから目覚めつつあったその領域の場そのものは、その変動の含意するところのもの、それが引き起こすかも知れない変化、それが齎すかも知れない諸可能性に早くも気付いて震撼し、その戦きと警告を空しく虚空の中へと漂い出させて行った。それが意味の有る情報として捕捉されることは絶えて無かったが、しかしそれでもその動揺は事態の経過と共に広範囲に広がって行き、最初の僅かなズレがあっと云う間に何乗倍にも拡大して、その先で互いにぶつかり合い、干渉し合って、目を見張らせる悍ましくも美事な構成美を持つ複雑だが整然とした模様を描き出した。その力波がやがて失速して暗黒の中に溶け込んで行った時でさえ、その余韻は絶対の静寂に一石を投じ掻き乱して、適切な局面から観察した者にははっきりと見える、無視出来ない程の揺らぎを作り出した。闇夜にぽつんと浮かび上がったぼうっとした染みの様なその震動はやがて確実に世界を揺らし、動かし、自らの道を自らに因って作り出して、そこに胆の冷える様な深淵を現出させて行った。それはあらゆる健常な事象達からまだ余りにも遠ざかっていた為、形振り構わず眩暈を撒き散らす様な節操の無い真似はしなかったが、しかし途方も無く巨大な蟻地獄や蜘蛛が未だ規定されざる空白に、地平かと見紛うばかりの罠を張り巡らせてその無力な犠牲者達を待ち受けるのにも似て、それは量り知れない厚みを持った重層的な響紋の束で以て何れ空間や時間へと分化するべきものどもを鋭く大胆に抉り、馴らし、征服し支配して行った。拡大感染し続ける疫病の斑痕か、悪化の一途を辿る膿み爛れの様に、それはそう在るものどもを悉く腐蝕させ、破滅し、捻り潰して行ったが、それが果たして全く異なる新しい世界の為の耕作であるのか、それとも単に恐るべき破滅の先触れに過ぎないのかは、杳として知れなかった。確かにそれは目に見えて急速な動きである訳ではなかった。だが私が息を呑んで見詰め続ける間にも、それは着実に生長を遂げ、一帯の全てを造り変えて行った。ひとつの世界が終わろうとしているのかそれとも始まろうとしているのか、私は疑念に囚われ乍らも、目を逸らさずに観察を続けた。この時私は既にかの深淵が視界の枠を超えて私を呑み込みに来る様な予感を抱いていたのだが、やがて明らかになるであろうその部分的な正しさを前以て知ることが出来ていたら、この時私は喜んで観察を放棄していたことだろう。
やがて何処からか忍び込んで来たのか何から発生して来たのか、ひとつの線的な流れが浮かび上がって来た。それは深淵の上を撫でる様に滑らかに滑って行ったが、直ぐにそれは直線的な動きから外れ、連続的なのか非連続的なのか見極め難い動きで別の次元へと跳躍し、そこから更に次の次元へと跳躍し、それと共に速度と剛性を増大させて行ったかと思うと、今度は更に長大な跳躍を行って、規模はより小さいが別の流れをそこから引き込んで複奏的な流れを形成し、質的な転換を遂げた。第二の流れは第一の流れと略同じパターンを描いて流れ、跳躍したが、当然同じ領域を占めていた訳ではなく、一見すると第一の流れの単なる谺の様にも見えたのだが、しかしそのより大きな全体像が見えて来るのを待ってよくよく比較してみると、それ独自の生命と規律とを持って運動していることが判るのだった。その世界の形をより明確にする二本の流れは深淵の上に架け渡された細い確とした橋の様にも見えたが、より注意深い目には、それらが投げ掛ける秩序立った多彩な波紋が、より深い深淵を呼び込み、より重層的な構造を掘り下げているのが判るのだった。それからやがてその基本的な流れに混じってより小さな付随的な流れが発生して来て、その基盤の堅実さの上でそうする余裕が出来たのだと言わんばかりに、より細かな、多方向的な動きを展開させた。すると奇妙なことに、この細かな動きと、もっと緩慢な動きを見せる深淵の地響きとの間に、硬いノックの音の遣り取りめいた呼び掛けと応答の応酬が繰り広げられているかの様に、或いは打ち棄てられた巨大な石柱に奇怪な蔦が絡み付き、幾星霜の寿命を持つ物言わぬ生命体の条脈を思わせる仕方で繁茂して行く様に、明確な因果系列は不明ではあるが明らかに何等かの照応関係にあると思われる対称性が認められた。今や原初の昔から鳴り響いていたのではないかと思わせる震動は、その禍々しい円舞に力を得て、固く凍った雪原を突き進む雪掻きの様な鋭い推進力を発揮し、現に在る世界の岸を一歩一歩削り取って行った。拡大しつつある死病の魔手はその度に輪郭を鮮明にして行き、その穢れた病禍の痕跡は浜辺に打ち上げられた磐の如く強固な先兵として地歩を固め、やがて続いて来るであろう更なる災厄を呼び込もうとしていた。それは無辺広大の全体からすれば取るに足らないほんの一隅のささやかな変質に過ぎなかった。だがその後に来るべきものが未知の新生児、新たなる法と秩序に基付く異なる生命であると否とに関わらず、それは確かにひとつの死滅を、曾てそれ自身の裡に安らいでいた理が、今正に壊れ行こうとしていることを意味していた。恐怖が生まれつつあった。しかしそれは今だ、殺される側にとってのみ恐ろしいものであるに過ぎない筈であった。その解釈が容易く覆されてしまうのは、残念乍らそう遅いことではなかった。
その威力と陣容とを一度判然と主張した流れの束は、何故か唐突に、水面を押し遣って出来た波が次第に拡散し焦点をぼやけさせて行く様に広範囲に広がると同時に虚空へと霧散して行き、初めは複雑に絡まり合っていたその谺も、やがて曖昧になって互いに混じり合い、原型を留めているものはひとつも無くなってしまった。その下で、底の知れぬ深淵からの谺だけはまだそれらしい形を保った儘、呟きの様な地流と成って、退き潮の如く非積極的であり乍らも、一度始まった変容の爆発を続行させて行った。ところが、その大潮がやがて一段落着いてしまうと、まるで大型の肉食獣が居なくなった後で安全な隠れ場所から頭を覗かせて周囲を窺う狡猾な小動物の様に、宙へ消えて行った流れの微かな残滓の中から、きょろきょろと辺りを見回す様な細く截然とした動きが出現して来た。それは正に情報を集めているかの様に谺の谺の中をゆっくりとではあるがあちこちに泳ぎ回り、恐らくはその小さな体躯に許されているのであろう狭い行動範囲一杯にまで動いた後、疲れたのかそれとももう新たな刺激が出尽くして飽いてしまったのか、ぐったりと平板な動きの中へと解消して行った。それは、少なくとも潜在的には戦慄すべき光景だった。それは掻き乱された空虚、用意された混沌の中から、何か独自の知覚力が、独立したそれ自身の意欲を持った知覚情報系が、精神が、或いは生命かそれに類するものが、自然に生まれ出て来たことを示唆しているのかも知れなかった。それは何れ全てを己で埋め尽くそうと云う盲目的な衝動に立脚し、且つそれを実行する力を持つに至るであろう力の誕生を意味しているのかも知れなかったし、外界として措定されることになるあらゆる情報をそれ自身の内部で取捨選択し、交換不能な無二の像を結んでみせる有意の完結性を備えた複雑系の到来を意味しているのかも知れなかった。それは現行のものとは異なる次元の、前例の無い実体が、宇宙の中心として存在し始めたことを仄めかしていた。宇宙はやがてそこへ収斂し、帰着し、それを目的化するに至るのではないか、と云う暗澹たる推測が、一瞬私の頭を過った。それが単なる思い過ごしであって欲しいと、どんなに私は望んだことか! 私の目には、その後に続いた地の底から響いて来る様な地均しの震動が、既に取り返しの付かない一歩が踏み出されてしまったことを裏書きし、追認しているかの様に見えた。
何日も飢え続けた獣が沈鬱な眠りに落ち込んで行く様に、その眼差しの萌芽の兆しが空虚の中に四散してしまうと、暫くはあのおどろおどろしい、地を穿つ様な轟きの群れが悪夢に魘された獣が時折ぶるっと身を震わせる様に、断続的に宇宙を揺り動かした。忌わしい静寂が、強制された沈黙が辺り一帯に降り掛かり、雪の様にあらゆるものの表を埋め尽くして行ったが、それに抗おうとするものや、咎め立てすしようとするものは何も無かった。その絞首台の上の一事の平和の様な静かな状態の中から、やがてその地響きよりも更に重く低く広がる地鳴りが、何処からともなく響いて来た。それは霧の中に聞こえて来る霧笛の様に重々しくその出現を主張して已まなかったが、まるで法外な機械の内臓を一面に打ち撒けた様な鋭く神経に触るところが有って酷く不快な感じがした。しかも永劫を閲した遠い彼方から響き渡って来る様な遙かな印象が有るのに、その癖同時に直ぐ耳許で鳴り響いている様な距離感の摑めないあやふやさが、一層不気味であった。それはそれまでの、何処か内に籠っている様な動き達とは違って、明らかに内側から外側へ、閉鎖系から開放系へ向かおうとする動きだった。それははっきりと外界へ向かって己が身体を爆散させ、その途方も無い無駄をものともせずに自らの胞子をばら撒こうとする強圧的な気概に満ち溢れていた。それはあらゆるものの復讐者の如くに現れ、その苛烈な意志によって万物を打ち拉ごうとしていた。最初の唸りの後に暫く間を置いてから次の重い唸りが続く、と云うパターンが何度か繰り返され、その呼応が揺らぐことは微塵も無かった。初めの地響きが時々蛇が鎌首を擡げる様にそれが始まる前に身構えることが有ったが、それはその嵐の輪郭がより一層明確になって来ていることを示していた。
やがて次第に互いが互いを急かす様に両者の間隔が短くなることが何度も不規則的に繰り返される様になって来ると、二通りの律動に合わせて、更に重層的な構造が形を成しつつあるのが明らかになって来た。暗黒を穿つその一群の唸りは、咆哮し合い、共鳴し合って更にその威力を増し、未だ満たされていない空虚の座を奪い合うかの様に何処とも知れぬ涯果ての地を目指して束になって、しかし整然と驀進して行った。そこには既に方向性が、はっきりした方位は未だ無くとも、「前進」と云う言葉を当て嵌めて差し支え無い程度のベクトル軸が成立していた。それは大爆発の様に四方八方へ爆散しているかのかも知れなかったし、怒り狂った象の大群が密林を薙ぎ倒して行く様に、或る特定の一方向に向かっているのかも知れなかったが、確実に言えることは、それが不可逆的に宇宙を踏み倒し、圧し潰して、圧倒的な一大勢力として征服を続けて行っていると云うことであった。凄まじい谺が、余波が、残照が漸増的に周囲一帯を入り乱れて埋め尽くし、荒涼とした複雑な地形を描き出し、宇宙を造り変えて行った。その瞠目すべき光景は正に圧巻の見物で、そこには既に〈恐怖原理〉の一端が働き始めていることを、私も認めない訳にはいかなかった。形が生まれ、生まれるや否や片端から破壊され、その残骸の中から更に新しく複雑な形が生まれ、縦横に交差し衝突し、反射し合って、騒々しい狂宴を繰り広げつつあった。それは余りにも目的を欠いた魔的な狂乱ではあったが、その全体が砂糖の様に溶けて流れてしまう様なことは無く、寧ろ騒々しく成る度に益々尖鋭化し、明度を増して暗黒の中から浮かび上がって来るのだった。悍ましくも荘厳な莫迦騒ぎ! この厖大なエネルギーの空費はその規模だけで私を戦慄させるに十分だった。何と力強く横溢するエネルギー! にも関わらず何と無意味に創造され破壊され続ける諸世界の可能性! これは一体何なのだろうか? 私が今目撃しているのは、一体何なのだろうか? この、全てが未分化な空虚だった所から一体何が起ころうとしているのだろうか?
私がその狂おしい奔流に圧倒され、今や見渡す限りの光景がその奇怪なエネルギーの短命の結晶体によって充満していることに遅蒔き乍ら気が付いた頃、突然、全ての調が一気に移り変わった。それが何等かの臨界点を突破したことに因るものか、それとももっと陰微な、声を潜めて囁かねばならぬ恐ろしい理由に因るものなのかは判らなかったが、それは突如として、次元の断層に落ち込んで別の次元に跳躍してしまったと云うよりも、舞台の照明の色が突然切り換えられた様な、或いは列車がいきなり別の路線へ切り換えられたかの様な感じで、あらゆる諧調を変え、騒々しさそのものは変わらないが、より苦し気に覚醒した、喉を絞められている様な高い調子で破裂し始めた。この転換は余りにも急なことだったので、私は数瞬何が起きたのか信じられなかったが、その時の衝撃で発生したらしい火花めいた炸裂があちこち飛び交っているのを目の当たりにして、そうも言っていられないことを認識した。それまでは何とか均衡を保っていたもの達が重心を失い、より不安定な高みの状態へ上ることで、破局がより近いものと成り、形が生まれるのにはより大きなエネルギーを、そして壊れるのにはより小さなエネルギーを要する様に成ったことがどう見ても明白になったのだ。狂乱には今や無理と焦燥の気配が漂い、性急に外の世界へと手を伸ばそうとする余りに、自らの足場が脆いものに成っていることに気が付いていなかった。乱爆はより派手なものに成る代わりにその範囲の広さを減じてより指向的に成り、とてもその儘長続きしそうには思えなかった。
そしてやがて破局が訪れた。全体が更により一段高い段層へと跳ね上がるや否や、殆ど間を置かずに内側に燻っていたエネルギーが決壊を起こし、ひと纏まりの巨大な流れと化して、一気に彼方へと溢れ出したのだ。大混乱だった。その発生源が生み出し得るあらゆる種類の震動が全てごちゃ混ぜになって出口へと殺到し、何度か契機を得て大量に噴き出し、その余りの速度に碌に失速も出来ない儘あらぬ方向へ歪に四散して行った。あらゆるものが我先にと詰め寄って他の形を押し退けようとし、しかしそうした個々の動きも大局的にはひとつの方向を向いているのではあったが、更に大きな局面から見てみると、それも定かではなくなって行った。まるでこれが最後と言わんばかりに噴火は何度も繰り返し、更に奇妙で不自然な形を生み出しつつ、未だ確立されざる虚空の中を駆け抜けて行った。だが、どうやら本当にそれが残されていた最後の機会だったらしく、出すものを出し尽くしてしまったかの様に、奔流は突如ぱたりと已んでしまった。それは坂を駆け上って来た走者が息切れを起こしたと云うよりは寧ろ歌手が力の限り歌い尽くしたと云う感じで、まだ余力が残っている様は気配はするものの、確かにそこでその曲に限って言えば終わり、と確信させる何ものかが有った。それは恐らく、その大嵐に内在していた己が地位を確立しつつあった理法が、それ自身の決め事に従ってその様な見掛けを取ったのだろう、と云うこと位は私にも解ったが、果たしてそれが偶々不発に終わった新たなる次元の萌芽を意味していたのか、それとも元々単なる徒花であったことの証だったのか、或いはその本質を変容させて水面下に潜った莫大なエネルギーが、こちらの見掛け上に残した残滓に過ぎなかったのかは未だ判然としなかった。それを見極める為にはその後の進展を見守らねばならない、と云う事実に思いを馳せ、私は身震いを禁じ得なかった。
騒乱が退いた、と云うよりは途切れた途端に、先程目にした、きょろきょろと周囲を見回す様な細い動きが、途方に呉れた様にふらふらと彷徨い出て来た。それは目的も好奇心も失ってしまった様に暫くよろめいていたが、やがて大流が消えた後の余波に流されでもしたのか、棚引く飛行機雲が曇り空に溶けて無くなってしまう様に、ふっつりと消えてしまった。後には再びあの地を穿つ様な地響きが残され、少し遅れて、その反響ででもあるのか、押し潰された様な忌わしい唸りが低く秘めやかに続いた。賑やか過ぎた墓場の様な静寂が戻って来たが、それが一時的なもので、暗黒の夜がまだ始まって間も無いことを私は知っていた。




