1話 二人の始まり(1)
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
長い沈黙。とても長くて、時間が止まったかのような錯覚に囚われる静寂。さっき開けた窓から吹く風の音が、この静寂を引き立たせていた。
その窓の傍に立っていた俺は、その風に吹かれながらも、目の前の女の子の顔を見つめていた。
「・・・・・・・」
俯いて、顔を赤くして黙っている。前で繋いで握っていた手には、明らかに力が入っている。
・・・・・今から、告白される。
ちょいちょい聞こえてくる野球部のコートを整備する掛け声に、意識が傾けられる。二人しかいない放課後の教室。日が傾きかけて、差し込む夕日。この空気はちょっと、いやかなり気まずい。他の要素に意識が集中してしまう。
それでも、目をそらさず、何でもないような表情で彼女を見つめ続けた。促すようなこともせず、向こうが動くまで無言で待った。それが、今の俺がすべきことだと思ったから。
彼女の顔は、見えずらいが真っ赤になっているのが分かる。耳まで赤い。ちょっと震えているようにも見える。これ、動けるのか?
別に俺はいつまでも待てるのだが、今は放課後の部活終わりだ。完全下校時刻が近づいてきている。見回りが来たらそこでタイムアップ。強制帰宅だ。
今日は無理なんじゃと、なんだが可哀そうな未来が頭によぎったところで、彼女が動いた。
「あの!!」
「!・・・・・」
がばっと顔を上げられたのに、身体がびくっとしてしまった。無言で次の言葉を待つ。
「・・・・・あの・・・・・私、加瀬君のことが・・・・・好き、です・・・・」
「・・・・・・・」
・・・・・この経緯は、一日前に遡る。
※
その日は、いつもと変わらない朝だった。
目覚ましの電子音で目を開けた。一回スマホに背を向けた後、仕方なく仰向けに戻って体を起こす。一回あくびをして、目をこすりながらベッドを下りた。
部屋を出て、すぐそこのトイレに入る。その後洗面所で顔を洗い、重い瞼を少し軽くした。うとうとする目は、鏡の中の自分を捉えた。茶色がかった髪の毛がぴょんぴょん跳ねていて、それとなくそれを触りながらキッチンに向かった。
電気ケトルに水を入れ、スイッチを押す。インスタントのコーヒーに少量の砂糖をマグカップに入れ、冷蔵庫から牛乳を取り出した。沸いたお湯をマグカップに注ぎ、牛乳を少量入れ、スプーンでかき混ぜて、コーヒー完成。いつもと同じ手順で、分量も手に馴染んでいる。
熱いので慎重にコーヒーをすすった後、今度は炊飯器を開ける。炊かれた米は一人分なくなっていたが、量は十分。茶碗にご飯をよそい、冷蔵庫から今度は卵を取り出す。卵を茶碗の白米に落とし、醤油をかけて、朝食完成。
少し温度がマシになったコーヒーを一口飲んで、コーヒーと朝食をリビングに持っていった。
いつも通りコタツに座って、テレビをつける。静かすぎる室内をテレビの音が埋めた。何の興味もないニュースが続くが、別にみるのが目的じゃない。音が欲しかっただけなので、テレビをつけたまんま、スマホを取り出しゲームを始めた。
コマンドゲームのRPGゲームだ。時間で回復するスタミナを無駄にしないために、朝に三戦いつもやっている。操作も非常に簡単で、毎日同じ操作を繰り返すだけだから、ご飯を食べながら出来るので、時間も使わない。
そんな感じで朝食を食べ終え、学校に行く準備に入る。
歯を磨き、服を着替え、学校に必要なものの準備をして、大体完了だ。あんまり時間に余裕はないけど、昨日ラノベを読み終えたのを思い出して、次読むの本を選ぶ。
その後テニスラケットを持って、戸締りと電気を確認して、足早に家を出た。
俺が通う学校、私立松野中学校は我が加瀬家の目の前にあるこの学校。俺んちのマンションと学校で道一本を挟んでいる感じ。休日野球部やサッカー部の声がうるさい代わりに、登校時間はゆっくり歩いて五分ほどしかかからない。
家を出たのは七時十二分前後だった。部活開始が二十分なので、十分間に合う時間だ。
俺の所属するのはソフトテニス部で、その部活には遅刻ペナルティなるものが存在する。学校の外周、一周五、六百メートルある道を十周しなければならない。すげえ面倒。めっちゃ疲れるし、朝から汗だくにはなりたくない。
だからこそ、余裕をもって行ったほうがいい。
学校の敷地を沿う並木道を歩く。南門が空いてれば数十歩という単位で敷地内には入れるのだが、普段は解放されてないので正門まで歩く。
正門を通って昇降口の前を素通りする。そのまままっすぐ歩いて、校庭に開けるところが男子テニス部の荷物置き場だ。二回校舎の通路が柱で支えられている感じのスペースで、雨避けも出来る。ちなみに、車が通れるほどの道を挟んだ反対側が女子テニス部の荷物置き場。そちら側に運動部の部室も並んでいる。
「うーっす」
「「おはよー加瀬」」
適当にたむろしてる友人に挨拶して、二人くらいから返答をもらった。荷物を下ろして制服を脱ぐ。ジャージ上下とラケットを装備して、コートに出た。
コートの中でラリーをしている男子二人を見つけて声をかけた。
「よーっす」
「おう」
練習前からコートで打っていたのは小学校からの友人、影山康介だ。その相手をしているのも同じく、数原啓吾。俺と同じ中学からのテニス経験者にして、このテニス部二年トップの実力者だ。ソフトテニスはダブルスなので、二人合わせてツートップ。
「俺にも打たせろよ」
「そろそろ準備だって」
ラリーしながらそう言ってくる。
そらそうだが。今この二人がやってるサーブアンドレシーブは、試合に似たクロスの打ち合いなので、普通の練習よりも楽しいのだ。朝の練習が始まるまでの時間でやりに来てる部員もいる。どうせ準備中にもやるんだから、俺も混ぜてほしい。
この学校のテニス部は人が多い。弱小の割に一学年二十人ほどいる。だから全員が準備に動員されると、逆にしずらくなる。
「ま、じゃあ後ろ」
ボールを高く上げて、前に出た。俺は言われた通り後ろに入る。康介は前衛なのでネット際でボレーに入ったのだ。
大きくバウンドしたボールを啓吾が思いっきりドライブで打ち返した。ネット上ギリギリを通るボールに康介も素早く反応する。真ん中の横ラインの手前にボールを落とした。
決まったと思ったのだが、取られることを分かっていた啓吾は先回りで前に出て、ギリギリ打ち返してきた。前衛を通りすぎる高い放物線を描くロブ。俺の仕事だ。
サーブのラインと真ん中のラインの間に落ちてバウンドしたボールを、容赦なくセンターよりに打ち抜いた。啓吾は前に出ているので、コートの奥側を狙ったのだ。
だが、啓吾は下がるのを諦めて前衛のボレーに入っていた。真ん中を抜く俺のボールはコートの後ろに行くことなく、ネット前でシャットアウトされてしまう。その至近距離の返しに康介も反応できない。急いで前に出て、態勢を崩しながらもどうにか返した。
だがそのへなちょこロブは、中途半端な高さで浮遊して、ネット前で落下し始める。その絶好のチャンスを逃すわけもなく、上からスマッシュをかまされてしまった。すごい速度で、向こう側の女子コートのほうへ吹っ飛んでいった。
「うぇーい」
「くっそ」
啓吾は後衛だが、前衛も上手い。正直試合に使う機会なんてない動きだが、そういうこともできるからこの練習は面白い。
「良く取れたな、琉生」
「返したけどね。ありがとう、気持ちよく打てた」
「ちぇ、あんま強く打つなよ。球取んの面倒だからさ」
女子コートのほうに飛んでったら回収しなければならない。向こうのコートでも女子が打ってるからコートに入りにくい。
憂鬱と思いながら駆け足で女子コートに向かう。すると、啓吾か康介の白ボールを取ってくれている女子がいた。
「おーい」
その顔には覚えがあった。
二年で同じクラスになった七瀬だ。同じ放送委員になった。低い身長と肩まで伸びた赤みがかった髪が印象的で覚えていた。
少し小走りで近づいた後、こっちにボールを転がしてくれた。
「せんきゅ」
そう声かけると、軽く会釈をして背を向けて足早に去っていった。
その後すぐに練習が始まり、いつも通りスポーツに励んだ。
朝練が終わって昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。
「おはよー加瀬君」
「ん、うっす洋平」
同じクラスの前野洋平だ。陸上部に所属していて、二年生部員の中のリーダーで次期部長だ。
他の陸上部の人もいたので、俺はテニス部の奴らに交じって教室に向かった。
「洋平ー、ちょっと聞いてくれよ」
二年一組のクラスに入って荷物を自分の席に持っていったタイミングで、洋平が教室に入って来たので、その席に歩み寄った。
「なんかあった?」
「昨日さ、ガチャ来てたじゃん?」
「ああ、MG?ごめん見てないや」
MGとは、俺が朝やってたゲーム、モンスターグラウンドの訳だ。結構うちのクラス、というか俺のグループでは流行のスマホゲームだ。
「そーなん?めっちゃかっけーキャラ来てたよ」
「へー、帰ったら見てみよ」
「そんでそんで、奮発して貯めてた石全部つぎ込んで爆死したー」
洋平の机に倒れこんでため息をついた。そんな俺を見て洋平は軽く笑っている。
「あれガチャ率低いからなー」
「もうほんと。表記絶対間違っとる」
最高レア度一パーセントとか書いてあったが、絶対違う。百連で一枚出る計算なのに、最高で二百五十連して出なかったことがある。
「お、二人とも何の話?」
もう一人廊下から入ってくるなり、話しかけてくる人影があった。こいつは大沢亮。バドミントン部の下っ端だ。俺らのグループの一人。
「亮おはよー」
「聞いてくれよ亮」
「もしかして爆死した?」
言おうとしたら、言う前に指摘された。話が聞こえていたのか、あるいは。
「まさか、お前」
「爆死したぜ」
右手の親指を立てて決め顔を見せてきた。俺の挙動から事態を察したってことは、俺と同じ思いという事。
「さっすが」
立ち上がって右手で同類の握手を交わした。仲間がいるってのは嬉しいものだ。痛みを分かち合える。
「ちなみに何連?」
亮はそんなことを聞いてくる。自分の持ち分にチケットを合わせると。
「百七十連」
「俺より少ねえじゃねえかっ!」
繋がった手を弾き飛ばされた。俺より使ったってまじかよ。
「俺二百二十使ったんだけど!」
「フッ、これが徳の違いってやつよ」
「爆死した奴が言うセリフではないし、当ててない奴が言えることでもないけど、悔しー」
右手で額を掴んで上を向いて悔しがっている。確かに、その爆死はやばい。いや俺もやばいんだが。
「これは明日になったら、俺の格の違いに恐れおののくことになるな」
「お、よーへー引く宣言したー」
「仲間増えたな」
ここ二人が死んだ流れは、もはや誰にも止められない。洋平も死んで仲間三人目獲得だ。ゲットだぜ。
「おはよー」
「お、にぃおはよー」
「おはよー」
四人目が来た。吹奏楽部の添野智也だ。うちのクラスの学級委員長を務める優等生。でもその正体はガリ勉マンではなく、普通に俺と趣味の合う軽度のオタク仲間だ。
「あ、そういえば、ガチャ引いた?」
話を振ろうと思ったが、予想外にあっちから振ってきた。
「そえにぃもか。これでみんな仲間、」
「三十連で出たわ」
「おお、凄い」
「・・・・・」
「・・・・・」
洋平しか反応しない。いや、反応できなかった。だって三十連って。俺のおよそ六分の一、亮の七分の一だぞ。
先に反応したのは亮だった。
「このっ、裏切り者ー!」
両手で肩を掴んで激しく揺さぶっている。智也も状況を察したらしく、為すがままにされていた。無論、俺も同じ気持ちだ。運営は確率計算が出来ないのか。
明日、洋平が十連であっさり出してくることを、この時の俺たちは知る由もなかった。
午前の授業を適当に受け、お昼がやってきた。
この学校のお昼は給食だ。毎日A定食とB定食に分かれており、以前に集めたプリントをもとに食券が配られる。その食券を持ってクラスごとに食堂まで取りに行き、教室で食事をとるというシステムだ。
一学年分の待ち時間を使って、教室で四人で集まっていた。
「そういや加瀬、今日寝ぐせついてね?」
「ああこれね。今日からこのヘアスタイルで行こうと思ってる」
朝寝ぐせがついちゃう髪質なんだから仕方がない。これも個性だと思って受け入れるのも悪くない選択だと思う。
「ヘアスタイルて。自然体じゃん」
亮がゲラゲラと笑った。自然体っていい言葉だと思うけどなあ。
「斬新だね」
「最先端なんだよ、俺のは」
「ま、いいと思うよ、俺は」
さりげなく洋平がカバーを入れてくれた。洋平にもこの髪型を進めたいと思ったのだが。
「洋平は髪型気にしなくていいって、いいよなぁ」
洋平は短いスポーツ刈りだ。康介と啓吾もそうだった。スポーツ刈りって頭洗うの楽そうだし、髪乾かさなくていいし、寝ぐせつく心配ないし、面倒なくて羨ましい。まあ、今更イメチェンする勇気なんて俺にはないけど。
「今のダジャレ?ダジャレ?」
「うっさい」
からかってきたのを軽くいなした。
「俺からしたら長いのも羨ましいけどね」
「隣の芝生は青く見えるってやつね」
「おお、にぃ博識!」
今のでその反応って、亮の知能指数が心配になるな。
「俺からしたらお前らも羨ましいけどな」
亮と智也はいい髪質だ。しっかり統率されて髪が下に流れている。俺のぴょんぴょん跳ねるやつとは大違いだ。
「髪が目にかかるとうざいけどねー」
そう言って前髪を軽くいじった。俺は髪の先端が内側に巻かれて目に刺さってくるんだけどなー。
「ま、そえにぃはキノコだけどね」
智也は軽くキノコヘアーをしているのだ。ふんわりと丸いシルエットがぱっと見そう見えるから、俺はそう思ってる。
「そーれーはー」
言いながら俺に歩み寄ってきた。
「言わない約束だろー」
「ごめんごめんて。流れがさー」
俺の首に腕を回して脇下で絞めてきた。智也にキノコっていうと毎回咎めてくるのだ。
全く苦しくはないが、頭を残った手でぐりぐりしてくるのはちょっとだけ痛い。その状況を見て亮と洋平が笑いながら「加瀬が悪い」って言ってきた。絞めてる智也も笑って、それにつられて俺も笑った。
昼食を食べて、その後は昼休みだ。
昼休みになると、俺のクラスから男子が極端に減る。みんな外に出て遊びに行ってしまうのだ。新しいクラスが始まったばっかってのに、もう男子の半分以上が外で集団になってサッカーしている。洋平たちも言っているみたいだ。
俺もいつもなら行くのだが、今日は少し用事があった。昨日の音楽の授業で提出するはずのプリントを忘れてしまったのだ。宿題ではなかったのだが、授業で忘れてしまっていた。
昼休みに音楽室にいると聞いていたので、そこに向かう。音楽室は四回の一番奥だ。反対側の校舎なので教室からだとかなり遠い。
そこの廊下に行くと、人通りもほとんどなくなる。昼休みにわざわざここに来る用なんて早々ないから、当たり前か。ササっと行けば、外間に合うかなー。そう思いながらも、だるいので歩いて廊下を進んだ。
四回を登ったところ、後一直線で音楽室というところで、一人の女子生徒が音楽室からこっちに向かってくるのが見えた。あの赤みがかった髪、七瀬だ。
すれ違うところで、軽く手を上げて止まる。
「七瀬もプリント?」
「・・・う、うん」
少しの間の後、緊張した面持ちでそう答えた。まあ新しいクラスになってから日も浅いし、あんま話したことないしな。
「じゃ」
立ち止まる意味もないのでさっさと音楽室に向かう。一、二、三歩と進んだところで、後ろから大き目の足音が一歩二歩と近づいてきた。
「あのっ!」
「?え、なに?」
振り返って、その声の主の顔を見る。と思ったら髪の毛しか見えない。俯いて、俺の足元をじっと見ていた。
「・・・・・・・」
「・・・・・どした?え、なんかいた?」
長く待っても返事がないので、虫でもいるのかと思って当たりの地面を見渡す。でも特に見当たらない。この子が見てる俺の足元にも特に異変はない。
そうしている間に、彼女の口は動いた。
「・・・あ、明日!放課後、部活終わりでいいです。教室に、来てくれませんか?」
「へ?・・・・・分かった」
「じゃ!」
それだけ言って足早に俺の元から去っていった。
なんだろう、委員会の話でもするのかな?それともなんか相談事かな?
そう思うほど、俺は鈍感系なんかじゃない。
あの反応。赤い顔。震えた声。そして、放課後の誰もいない教室。それらがすでに答えを示している。
正直俺は自分に自信がないほうだ。運動神経も良くないし、勉強もそこそこ。ムードメーカーでもリーダーシップをとれる人間でもない。顔だって良くないし、コミュ力低いし、ノリもいいほうと言えないんじゃないだろうか。性格も良くないし、才能なんてものもない。
それでも、俺は鈍感じゃないし、人に期待だって分不相応にもしてしまう人間だ。俺はこいつらから信頼されてるんじゃとか、必要としてくれてるんじゃとか・・・・・好意を抱かれてるんじゃ、とか。
だから俺は期待するし確信する。明日の放課後に起こることを。
俺はプリントを提出した後、外に出るのをやめて教室で座って考えることにした。