若き代議士の過去
「中学に入学した後、私は自転車部に入部しました。私の中では、警察官といえば自転車で街中を走り回っている印象がありましたので、警官になるにはこれだ、と勝手に思っていたのです。芽乃子さんは生徒会に入って書記を務めていました。学級も違ってしまい、小学生の頃の様には会えなくなりましたが、昼休みには偶に図書室で隣の席に座って話をすることもありました。」
思い出話は中学時代に移っていた。白髪禿頭の目立つ招待客の中に在つては若いというべき年代の男女が、笑いながら憶介を見ている。それらは当時からの憶介、芽乃子共通の旧友であった。招待された友人の大半は、親の跡を継いで商店主となった者で、その他公吏となった者も幾らか有るが、地元に残った者よりは市部に出てしまった者の方が多かった。彼らは芽乃子と同様、憶介が中学に在つた頃も、下京して白老県議の下で働き始めてからも、憶介と親しく交際していたのであった。
「警官になる為に入った自転車部ですが、私は次第に熱中してゆき、昼休みの合間も図書室に行くよりは運動場で脚を鍛えていることが多くなってゆきました。一年生の中では一番速く走れたので、郡の大会にも出してもらえました。芽乃子さんも生徒会の仕事が忙しくなり、時折廊下で擦れ違う外はあまり話す機会も無くなってしまいました。そんな時、忘られぬ出来事、恐らくは人の一生中どこかで一度だけ遭遇するような、運命の悪戯が起こったのです。」
その時、芽乃子の左手が憶介の右手を強く握り、憶介は言葉に詰まった。芽乃子の動揺が、憶介にも伝わってくる。二十年近く、両人はこの話を避けながら交際を続けていたが、しかし、いつか言葉にせねば、両人の間には透明な幕が存在し続ける。憶介にはそう思えてならなかった。且つ、今が言葉にする為の機である。大勢の人間が証人となるこの場で公言することだけが、憶介にとって救いの路であった。再た脚が痛む。その痛みが、憶介の精神を話の再開に向かわせた。
「二年生になって暫くした或る放課後、私は部活動の合間に忘れ物に気付き、教室に向かって階段を駆け上っておりました。日頃鍛えた脚力で、二段跳ばしで大急ぎで上っていたのです。その少し前の日に、躓いた同級生が転げ落ちたのですが、運動神経の良い自分ならばそんなことにはならないだろうと思っておりました。
自分の教室の有る階まで上り切り、廊下につま先を掛けて飛び出した時です。廊下を歩いて来る人がいるとは思いも寄らず、二段跳ばしの勢いのままその人と衝突してしまい、相手は抱えてゐた本や書類を落として転んでしまいました。……そして、均衡を失った私は、今上って来た階段を、今度は落ちて行きました。
踊り場まで落ちた私は、取り敢えずぶつかった相手に謝らねばならないと思い、立ち上がろうとしました。その時、脚に激烈な痛みが走り、再び倒れて気を失ってしまいました」
隣を見遣ると芽乃子は目を伏せている。聴衆を見ると、白老県議と目が合った。いつも通りの笑顔を浮かべている様子だが、目は笑っていない。白老県議は、当然何が起こったのかを知っている。今日まで白老県議に様々な形で世話になった記憶が蘇る。先生にも随分申し訳ないことをしたと、憶介は幾分かの罪悪感を覚えたが、今ここで話を止める訣にはゆかぬ。憶介は、意を決して言葉を続ける。
「二時間ほど気絶していたらしく、保健室で目が覚めたのですが、そのときに脚の骨を折ったことを知りました。駆け付けてくれた校医の先生曰く、無理をしなければ日常生活を支障無く送れるようにはなるが後遺症は残る、部活動は続けられない、とのことでした。今もこうして着席したまま話をさせて頂いておりますが、長時間立ち続けることができなくなってしまったのも後遺症で、突然力が抜けて倒れる危険性があるのです。
私が嘆いたのは、脚それ自体ではなく、これによって警官になる途は絶たれたと思ったからです。今にして思えば、警官でも外を駆け回らない職種も有るのですが、私の中では自転車にせよ自分の足にせよ走り回るのが警官の仕事の重要な部分だとばかり思っていましたので、自分は最早夢を叶えることはできないのだと、気が狂いそうな程悔しく思いました。
次に登校した日、階段を見たときには非常に恐ろしく感じました。転げ落ちた恐怖ではなく、松葉杖を突いて一段一段上って行くのが、到底不可能なことに思われたからです。手を貸そうとしてくれた友人も何人か有りましたが――今日もこの会場に来てくれた友人の中にもをりますが――、私は意地を張って一人で上ることにしました。私には、この階段が自分で超えるべき壁の様に思われました。何度も心が折れそうになりながら教室の有る階まで上り、結局そこで力尽きて友人の肩を借りて教室まで歩いて行きました。
教室に入ると、級友たちが色々に質問して来ましたが、彼らを押しのけて、一人の女子生徒が土下座してきました。彼女は、あの時ぶつかったのは自分だ、骨折は自分の責任だと、涙を流して私に謝罪しました。彼女に何と声を掛ければ可いのか、私には判りませんでした。そこで私は、今思い出しても悚然とするような言葉で、彼女を責めました。正直な所、最初に怒鳴りつけた後に自分が何を言っていたか、記憶が鮮明ではありませんが、彼女が顔を上げず、一言も反論せずに謝り続けていたことだけは判然と覚えています。……今でも、泣きながら『ごめんなさい』と繰り返す彼女の震える声が、耳に残って離れないのです。」
多くの聴衆からは先程までの笑いが失せ、皆神妙な面色で話を聴いていた。芽乃子は相変らず俯いたまま、憶介の手を強く握っている。当時を知る友人達だけは、啞笑を浮かべていた。
「そのうち私は正気に戻りました。謝罪を続ける彼女と、私達を取り囲む級友達の困惑した視線とで、急に自分のしたことが恥ずかしく、情けなくなりました。そもそも全ての非は階段を急いで上っていた私にあったのだし、何より只管謝り続ける彼女を、これ以上責めようという気にはなれませんでした。私は彼女に泣くのをやめて顔を上げるように言い、――!」
憶介はその時、鈍い痛みを発し続けていた脚に、一際激しい痛みを覚えた。思わず自分の右手を握っていた芽乃子の手を振り解き、両手で脚を強く抑える。芽乃子ははつとして憶介に向き、脚を抑える彼の手の上に両手を重ねた。少しの間を置き、憶介は小声で芽乃子に礼を言うと、話を再開した。
「……皆様、大変失礼致しました。芽乃子さんは、これまでも今の様に私を助け、支えてくれました。そう、愚かな私があの不幸な女生徒を……芽乃子さんを責め立てたあの日から、ずっと。」
聴衆にどよめきが広がる。憶介が少年時代の怪我の為に脚が不自由であることは、選挙戦略もあって多くの人の知る所であったが、その由来に就ては誰にも話していなかった。当時を知る者だけが知っている事実であった。そうだからこそ、憶介はこの場で全員に伝える必要があると思っていたのだ。
憶介は今一度聴衆を見る。大半が驚きの表情を浮かべる中、中学からの旧友らはやはり薄笑いを浮かべながら両人を見ていた。無論、彼らはそこで何が起こったのか、一部始終を見ている者達である。憶介は、彼らの表情の理由を知っていた。
「あれから、彼女はどんなに些細なことであっても、自分の時間を割いてまで私を助けてくれました。そのうちに私は芽乃子さんの家に呼ばれるようになり、白老先生と直接お話することができました。何度も通いながら先生のお話を拝聴するうち、いつしか私は政治の道を志すようになってゆき、猛勉強をして芽乃子さんと同じ進学校に進みました。高校でも、芽乃子さんはよく私の世話をしてくれ、一緒に受験勉強をしている時に、或る約束をしたのです。――両人とも帝大に合格したら交際するという約束を。
結局私達は帝大に進みましたが、私は貧乏学生でしたので忙しく、なかなか両人で遊ぶ機会などもありませんでした。しかし、当時から漠然と結婚を意識してはをりました。そうして私は官吏として中央に奉職した後、帰郷して白老先生の下で働きながら政治の実践を身に着け、国政選挙では先生より全面的に支援を頂いた訣です。
生活を公と私とに分けることがよくありますが、公の面で助けて頂いたのが白老先生、私の面で支えてくれたのが芽乃子さんでした。先生の慈しみ深い助けがなければ『代議士・虻田憶介』は無く、芽乃子さんの心からの支えが無ければ、……私は今まともに生活できていたか判りません。或は将来に絶望して家に籠っていたかも知れません。」
憶介は、そこまで言うと体を右に向け、芽乃子を直視した。
「芽乃子、今まで本当にありがとう。あの時に君に酷いことを言ったのがずっと忘れられなかった。あの日のあのことが頭を過る度に、脚が甚く痛んだ。あれ以来、君が僕の前で弱音を吐かず、辛そうな表情も見せずに頑張ってくれたことにだって気付いていた。僕の良心が、あの時の自分を許せないでいた。何の罪も無い君を責め、その後の人生まで君に無理をさせている自分が許せなかった。もしかしたら、僕はこうして大勢の前で自分の罪を告白することで自己満足を得たいだけなのかも知れない。自分を責める様な痛みから解放されたいだけなのかも知れない。それでも言わせてほしい。……本当にごめん。僕を許して欲しい。そして、これからもずっと一緒に生きて欲しい。」
芽乃子の両目から涙が溢れる。憶介が芽乃子の涙を見るのは、「あの日」以来であった。この涙は、二十年分の涙なのだ。憶介には、そう感ぜられた。芽乃子は、泣きながら満面の笑みを浮かべ、「はい」と一言だけ答えた。いつもどこか無理をして笑っている芽乃子の、恐らくはあの日以来の、心からの笑顔。憶介にはそう思われた。
聴衆の中から一人が起ち上がり、両人に拍手を贈った。すると次々に他の者も同じ様にし始めた。部屋中の全員が拍手し始めた辺りで、最初に起ち上がった人物――白老県議は、部屋中に響き渡る声で「おめでとう、おめでとう。」と繰り返し、最後に万歳を叫んだ。
憶介が挨拶を終えると、芽乃子は短く挨拶を済ませて化粧を直す為に席を離れた。憶介は招待客の席に回って挨拶をし、席に戻った芽乃子が自分の元に挨拶に来る客の相手をしている間も祝宴は続いた。宴が酣となる頃には、多くの聴衆が酒に酔って広間を行来しながら会話を楽しんでいた。老人たちへの個別の挨拶を一通り済ませた憶介が席に戻る。芽乃子の席に挨拶に来る人影も、この時には既に止んでいた。
「芽乃子、ごめん。」
「あら、貴方も酔っているの?ついさっき許してあげたでしょう?それとも、泣かされた所為でお化粧を直すことになった件に就てかしら?」
謝罪する憶介に、芽乃子は軽い口調で返す。
「そうじゃなくて、今ここであの話をしたこと。本当は、芽乃子がどんなに僕を支えてくれたかを先生やお客さん達に伝えたかったんだけど、客の反応を見て、失敗したと思ったんだ。あの時、加害者を見る目で君を見ている人も結構ゐたからね。悪いのは君じゃないんだと、しっかり伝わっていればいいけれど……。」
決りの悪そうな目で言う憶介に、そんなこと、と芽乃子は笑いかける。
「別に知らないおじ様達からどう思われていても関係の無いことだし、それに私に非がなかったとは言えないもの。それよりも、貴方がずっと気にしてくれていたのを知って寧ろ申し訳無いくらいだった。嫌な記憶に触れないように気を付けていた積りだったのだけれど、却って誤解させちゃったのかもね。確かに弱音を吐いたりはしないようにしていたけれど、小さい頃からそうしているし、そんなに強く意思を持って自分を縛っていた訣でもないし、……。」
芽乃子は再た笑う。この笑顔があれば、この先の人生も乗り越えて行ける、憶介がそう思った矢先、
「おうい、虻田せ、ん、せい!」
「先生はよせ、阿呆。今まで通りアブにしてくれよ。」
酒の回った旧友が幾人か、憶介の席まで来ていた。事件の話をしている最中、薄笑いを浮かべていた者達である。彼らが単に揶揄いに来たのだということは、憶介には容易に想像できた。
「もっと詳しく話すのかと思って聞いてたけど、残念だったぞ。あのことは絶対話すと思って期待してたんだぜ?」
男友達の一人が言う。
「あのことって?」
芽乃子が尋ねると男は、これはこれは芽乃子嬢、と戯けた挨拶をしてみせた。男に代り、憶介が口を開いた。あの薄笑いはやはりこの為だったのかと、憶介は溜息を吐く。
「あのことっていうのはつまり……、あの時教室で抱き合ったことだよ。」
「へ?」
「ほら、君に泣き止むように言った後……。」
そこまで聞き、芽乃子は思い出した。泣き止むやう諭された芽乃子に、憶介は言い過ぎたと謝罪し、芽乃子はそこで憶介に抱き着いたのであった。芽乃子は呆れて返す。
「そんなこと言う訣ないでしょう、先生だっているのに……。」
「自分の父ちゃんを先生って呼ぶのもあの頃からだよなあ。」
別の友人が、しみじみと口にする。
「アブのことも先生って呼ぶのか?旅行先で『先生と両人で来た』なんて言ったり……。」
「し、ま、せ、ん!」
芽乃子が拗ねた様に返すと、一同笑った。憶介は、芽乃子の心からの笑顔を久しぶりに見たというのは思い違いだと気付いた。芽乃子はいつでも自分の心のままに表情を浮かべていたのであり、心から笑えなかったのは、あの日の記憶を引き摺っていた憶介の方だったのだ。これから先は激務となり、芽乃子と過ごす時間も満足に取れぬかも知れない。だからこそ、芽乃子と同じ時間を過ごせる機会を自分の感情や誤解の為に無駄にはしないと、憶介は心に誓った。