宵闇のアリア
R15、残酷な描写は保険です。
疲れるととりあえず甘ったるいモノが書きたくなるのでその衝動で出来たお話。
異世界感は皆無に等しいですが、恋愛主体の現代ではない舞台という事で異世界カテゴリーにしています。
「だから私は言ったのです。こんな婚約なんて辞めてしまうべきだと!」
深く沈んだ夜の庭。
その一角にある噴水の辺りから聞こえてきた声に、ヨハネス・ランドルトは眉間にシワを寄せた。
ここは公爵であるヴェルディ家の庭であり、現在その嫡男であるハロルドの誕生祝いの真っ只中である。そんな中、誰もいないはずの場所から聞こえる涙に濡れた女の声は些か不審だった。
これは正体を確認しなくては。
ヨハネス自身、祝いの席を抜け出して誰もいないはずの庭を散策していたのだが、自分のことは棚にあげて、ヨハネスは無遠慮に噴水の置かれた小さな広場に踏み込んだ。
いや、正確には足を踏み出しただけで、ヨハネスの動きはピタリと止まってしまった。
公爵自慢の庭園の、一番のお気に入りである噴水の縁には一人の女が腰を下ろしていた。
美しい女だった。
まるで穏やかな夜を象ったような、美しい女だった。
離れた場所からでも分かる。
烏の濡れ羽色の長い髪に、涙に濡れた瞳も黒曜石のような黒。まろやかな頬を流れる涙の一粒一粒が、まるで夜空に浮かぶ星々のように思えて、伸ばしかけた手を必死に押し留める。
それは正に一目惚れだった。
それも恐ろしく強烈な、運命めいた一目惚れであった。
この国ではごくごくありふれた黒髪や瞳。そして涙に濡れた頬がこんなにも美しいものだと、ヨハネスは知らなかった。
悲しげに下げられた眉や、キツく噛みしめられた唇や、嗚咽を堪えて震える喉元や、縁を叩く細くて小さな拳。
そのどれもこれもが美しくて、愛おしくて。胸が締め付けられるほど切なくて。
美しい女の姿から目が離せなくて、その場に立ち竦む。
星屑のような涙を拭ってやりたいのに、完成された絵画のような風景に踏み込んでいく勇気がなかった。
ヨハネスはただの部外者だ。
涙に濡れた声に好奇心を唆られただけの野次馬にしか過ぎない。そんなヨハネスが飛び出していった所で、あの美しい女は喜ぶのだろうか。いいや、きっと喜ばない。
それどころか貴族の令嬢らしく涙も感情も取り繕い、ここでの出来事を無かった事にして立ち去ってしまうだろう。
きっと、このまま立ち去ってあの涙を忘れてやるのが、ヨハネスに出来る唯一である事は分かっているのだ。
けれど、たったそれだけの事だって、今のヨハネスには出来なかった。
進む事も引く事もできないヨハネスは、きっと世界で一番愚かで情けない男であるに違いない。
全く動かない体とは裏腹に、思考だけはやけに鮮明だ。
「清らかな愛? 正しい愛? 真実の愛? 私たちの関係はそんなモノではないと、初めから分かっていたでしょう」
ヨハネスに気付かぬまま、女の声を押し殺した独白は続く。
それはさながら、舞台の一幕のようだった。
「六年前の誕生日から。貴方が私を婚約者に選んだあの日から。私はずっと言い続けていたわ。婚約なんてしたくないって。なかった事にしてほしいって」
元は家同士の利益なんて関係のない婚約。
無愛想な他の令嬢よりお前の方がマシだからと、そんな理由で結ばれた婚約。
「私だって、恋がしてみたかった。愛してみたかった。例え私が選んだ相手じゃなくても。親が決めた相手だったとしても、誰かを愛して、誰かに愛される。そんな努力がしてみたかった」
それなのに。
それなのに。
女の声はついに嗚咽に掻き消された。
そんな声に、ヨハネスは沈痛な面持ちで、それでもなるほどと得心がいったとばかりに肯く。
女の言葉で分かったのだ。
女の、彼女の名はミーシャ・ヘンデル。ヘンデル伯爵家の次女であり、ハロルド・ヴェルディの婚約者である。
本来であれば今日の主役の一人でもあるのだが、どうやらヨハネスが抜け出した後、広間では酷い茶番が繰り広げられたらしい。
不実の相手がどこの誰かは知らないが、ハロルドの大馬鹿者は不誠実な愛にうつつを抜かしたのだろう。
婚約破棄は、令嬢の経歴に傷を残してしまう。令嬢に落ち度が無くとも男性優位のご時世ではいつだって、婚約者の心を繋ぎ止められない女性側に原因があったとされてしまうのだ。
貴族社会はそういった者には酷く冷たく、悪辣だ。
だからこそ、男性側の理由で婚約が破棄される場合は『白紙に戻す』のだ。そうすれば、表立って令嬢側を攻撃する者は居なくなる。
それをハロルドが知らないはずはないのに。
一方的に、しかもこんな人目のつくやり方での婚約破棄など愚の骨頂だ。
伯爵であるヘンデル家が公爵家に異を唱える事が出来ないと計算に入れていたとするのであれば、公爵家との関わりも今後考えなくてはならないだろう。
あぁ、それにしても。
あの時広間を抜け出さずにいたなら、彼女を茶番劇から救ってあげる事ができたのに。
いいや、あの場ではきっとヨハネスは何も出来なかった。してはいけなかった。ヨハネス・ランドルトとはそういう立場の男だった。
そんな事を考えて、ヨハネスは頭を振る。
違う違う。今はそんな事はどうでもいい。
誰もいないこの場だから。
彼女しかいないこの場だからこそ、ヨハネスはヨハネスとして出来る最善を尽くさなければならない。
泣いている美しいミーシャの為に。
「突然の無礼をお許しください、ご令嬢」
ヨハネスは出来るだけ穏やかに、ミーシャに声をかけた。
拒否されてしまえば近付く事すら出来なくなるから、その前に固まった足を動かし彼女の元へと歩み寄る。
そしてようやく、ヨハネスはその頬を流れる涙を掬ったのだ。
たったそれだけで、星を一つ救ったような高揚感に胸が震えた。
「あ、貴方様は……っ!」
ミーシャの瞳が驚きで見開かれる。
その可憐な唇がヨハネスが何者であるか告げる前に、ヨハネスは唇に人差し指を当てて首を振った。
もちろん、ヨハネス自身の唇にだ。本当はミーシャの震える唇に触れたくて堪らなかったのだけれど、懸命に堪えた。
涙を拭う事は出来ても、今のヨハネスでは彼女の唇に触れる事は許されてはいない。
少しでも順番を間違えてしまえば、この美しい人は永遠に手に入らない気がして。
それは確信にも似た予感だったが、だからこそヨハネスは精一杯、誠実に努めた。
ミーシャの右手をそっと握り、片膝を付く。
チラリと見上げれば、黒曜石の瞳が零れ落ちそうなほど丸くなっていて、そんな姿も美しいと感嘆する。
この美しい女が。ミーシャが欲しい。
真っすぐにこの想いを伝えられたら良いのに、胸に芽生えたばかりの感情を言葉に出来るほどヨハネスは器用ではなかったらしい。
本来ヨハネスの口は滑らかで、必要な時に必要な言葉は必ず適切な形をもって出てきたはずなのに。思い浮かぶ言葉はどれも陳腐である気がして仕方ない。
いっそこの胸を開いて、ミーシャへの感情で真っ赤に脈打つ心臓を見せてやれたらいいのだけれど、それが出来ない以上、ヨハネスに残されたのは陳腐な言葉を連ねるだけだった。
「改めて言います。突然の無礼、無作法をお許しください。いけないと分かっていても、その涙を拭わずにはいられなかったのです」
パチリ、と。ミーシャの目が瞬く。
驚きで涙は止まったらしい。その事に安堵しながらも、少し残念だった。
「お話を聞くに、どうやら貴女には婚約者がいないらしい。それなら……」
婚約してほしい?
結婚してほしい?
そんな言葉でも、きっと彼女は頷くはずだ。悲しい事に、ヨハネスはそういう立場の人間なのだから。
だからこそ、それでは駄目だ。そんな事では駄目なのだ。
ヨハネスは彼女が欲しいけれど彼女を泣かせる事も困らせる事もしたくはないし、何よりヨハネスはミーシャに望まれたかった。
先ほどの涙に濡れた声を思い出しながら、ヨハネスは目尻を甘く緩める。
見目の良さは家族や友人たちからのお墨付きだ。普段はそういう風に振る舞う事を嫌っているが、この際である。全力で演出してしまおう。
「どうか、私と恋をしてくれませんか。貴女の愛を私にくださいませんか。親が決めたなどと言わず、どうか貴女の意思で私を選んではくれませんか」
「あ、あの、私はつい先ほど婚約破棄をされて……なのでっ」
「そんな事を貴女が気にする必要はありません。それに、今すぐに答えてほしいとも言いません。ただ、私に時間をください。必ず、私こそが貴女の愛に足る男だと証明してみせますから」
まず手始めに、私の愛を貴女に誓いましょう。
偉大な父に頂いた、ヨハネスの名にかけて。
とある夜。
一人の公爵令息が婚約者に婚約破棄を告げた。その腕に、華やかな見目をした平民の少女を抱きながら。
幼い日に交わされたその婚約は、令息側の我が儘から結ばれたという噂は社交界では有名で、それ故に令嬢の実家はもちろん、何の相談も受けていなかった公爵家でも破棄の撤回を望む声が強かった。
けれど最終的に、伯爵令嬢と公爵令息の婚約問題は白紙に戻すという事で解決に至る。
表立った発表はそれだけであったが公爵家は代替わりを機に周囲の貴族から嫌厭されるようになり、徐々に衰退していった。
どれだけ取り繕っても公の場で起こした不始末に加え、公爵夫人としては不出来な女性を正妻に迎えたせいで家を盛り返す事が出来なかったと言われているが、公爵家が廃れた大きな要因は別にあった。
婚約破棄された令嬢を、この国の第三王子自身が熱烈に望んだからだ。貴族であれば誰でも、この国の王族を敵に回した家と関わりたくない。
第三王子自身、令嬢自身が公爵家について言葉を放つ事はなかったが、それがかえって令嬢の心の傷を想像させたし、第三王子の怒りの深さであるように思えたのだろう。
当代の公爵は早々に引退し、領地に引き篭もったというがその隣にはかつて望んだ女の姿はなかったそうだ。
一方、国王が高齢の時分に授かった子だからと甘やかされ、自由に国外を飛び回っていた第三王子であったが令嬢との出会いをきっかけに国に腰を落ち着けた。
既に王太子として政務に励んでいた兄と積極的に関わり、第二王子と共に臣下として兄を助けるように尽力したのもその頃からである。
のびのびと国外を飛び回っていたためか第三王子の外交の手腕は見事で、国を大いに盛り立てた。そして、そんな第三王子が国に落ち着く切っ掛けとなった令嬢に、国王を始め王妃や二人の兄は心から感謝し、二人の仲を祝福した。
その後、国王が逝去された際には妻となった令嬢と共に与えられた領地へ篭り、誓ったからと延々と令嬢に愛を囁き、捧げ続けた。それは令嬢がもう十分だと呆れた顔をしても止められず、二人は末長く幸せに暮らしたそうだ。
アリア:叙情的、旋律的な特徴の強い独唱曲。広義にそのような独唱曲を連想させる曲。
というイメージからスタートした筈なのに、思った以上にヨハネスが情熱的になったのは何故なんだろう……。
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