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6 噴水

 ダニエルと話をした日から、二人の間にあったギクシャクとした空気がいくらか和らいだ。ダニエルは毎日私のお見舞いに来てくれるようになって、しばらくはぎこちなかったけど、私は彼と話をすることが憂うつではなくなった。


 二人の関係が改善したことを一番喜んだのは両親だった。口には出さなくても、嬉しそうな顔をしていたからわかる。


 私は段々と回復していった。やがて、医者の許可が下り、古代語の授業を再開することとなった。






 相変わらずランドルフには黒い影が付きまとっていた。何をするでもなくゆらゆらと。


 ランドルフはといえば、影に何かを吸いとられていたのか、妙にふてぶてしい態度をとることが多くなっていた。


「また綴りを間違えてる。何度言えば分かるんですか」


 ちくちくと文句を垂れるランドルフに、私は正直うんざりしていた。


「綴りを間違えたって、歌には支障ないし」

「綴りにはちゃんと意味があるんです。それをないがしろにして、歌なんて歌えますか」

「あなたは歌の先生じゃないでしょう」

「デートばかりしているから勉強に身が入らないんでしょうね」


 予想外の切り返しだった。返答に困って、口を閉じた。ランドルフは決まり悪そうに視線を泳がせた。


「川に落ちるほど私が気に入らないなら、クビになさってはどうですか」


 なぜここで川に落ちた日の話が出てくるのか。真剣に考えて、私はランドルフの不機嫌の理由に当たりをつけた。


「自分のせいだと思ってるの? あれはあなたのせいじゃない。ただ足を滑らせただけ」

「中途半端なお気遣いはお止めください。私が見舞いに行った日を境に容態が悪化したと聞いています。古代語を扱えるのは私だけではありませんよ。あなたの婚約者も少しは話せるようですし。生活には困っていませんから、どうぞお気遣いなく」


 一方的にまくし立てて、ランドルフはピタリと黙り込んだ。


 相当プライドを傷つけてしまったらしい。それにしても、いつも超然としているランドルフがあんなふうに子供みたいなことを言うなんて、あの時の私にとっては相当な衝撃だった。


 私は口をつけていないカップを持ち上げ、ランドルフに差し出した。


「飲む?」

「頂きます」


 ランドルフはぐいっとカップの中身を飲み干したあと、数回むせて、立ち上がった。


「帰ります。今日の分の給金は差し引いておいて下さい」

「そんな、待って。気を悪くしたなら謝るから」

「いえ、ちょっと調子が悪いようで、授業どころではないんです」

「え、大丈夫?」


 ランドルフは竜巻のように慌ただしく部屋を出ていった。私と侍女のマリーは、ポカンとした顔をゆっくりと見合わせた。






「最近、ランドルフの様子が変なの」


 屋敷の庭にある噴水はキラキラとした水を吐き出し、水場では小さなしずくが絶えず跳ねていた。その光景には、私のささくれだった心をいくらか落ち着かせる効果があった。


 それでも私は、ダニエルについつい愚痴をこぼしてしまった。私たちはこの日、噴水を丸く囲むように設置されているベンチに腰かけていた。隣に座っているダニエルは軽い口調で言った。


「ああ、最近彼女と別れたみたいだよ。そのせいじゃない?」


 ダニエルの言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


 彼女。


 彼女というと、平民特有の、結婚の約束をしたわけでもないのにデートしたりキスしたりするあの彼女のことだろうか。あの頃の私は、そういうのは、小説やお芝居の中だけの話だと思っていた。


「ランドルフって、彼女いたの?」

「そりゃあ、いてもおかしくないだろ。男爵家の家庭教師で、家は工場持ってるし、将来有望。そういう男のところには女が寄ってくるもんさ」


 話が全く頭に入ってこなかった。自分でも驚くほどにショックを受けていた。


 生真面目なランドルフ。古代語を愛するランドルフ。彼には私の知らない一面があったのだ。彼の人生には小説やお芝居の中で描かれるような、ロマンチックなエピソードの数々があって、彼女と別れるというのもその一つ。それに比べて私は、なんてつまらない人間なのか。小さな世界で完結してしまっている自分の人生が、急に恥ずかしく思えてきた。


「ショック?」

「うん」

「ランドルフって、ジルの前ではお行儀いいもんな」

「普段は違うの?」

「職人の息子だぜ。普段からあんなにお上品なわけないって」


 ますますランドルフが分からなくなった。機嫌の悪いランドルフが、素のランドルフなのだろうか。それか、あれよりもっと態度が悪いのだろうか。それはちょっと見てみたいような、やっぱり嫌なような。でも彼の何を知っても、好きでいられるような気はした。


「ダニエルにもいるの?」

「何が? 彼女?」

「うん」

「昔ちょっとね。遊ばれただけだったけど。悪い女だったよ」


 冗談めかして笑うダニエルは、やや消沈していた。嫌なことを思い出させてしまったらしい。


「ジルは? 好きな人いるの?」


 からかうような口調で尋ねられて、私はむぅと唸った。ジョエルと、ランドルフの顔がぼんやりと頭に浮かんだ。


 胸が温かくなるのはジョエル。胸の奥が苦しくなるのはランドルフ。そして、一緒にいて楽しいのはダニエル。


「ダニエルって答えた方がいいのかなぁ?」


 水が弾ける音と、ダニエルの笑い声が重なった。

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