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5 湯気

 川に落ちた日から、食べ物がろくに喉を通らなくなった。ランドルフの肩にひっついていた黒い影が、頭から離れなかったせい。あれは、私が想いを寄せた相手に現れるものなのだろうかと、不吉な考えが頭をよぎった。私が好きになった相手は、あの影に飲まれて死んでしまうのだろうか。それとも、ただの死相か。どちらにしても、彼に危険が迫っていることに変わりはない。一体どうすればいいのか。適当な理由をつけて家庭教師を辞めてもらう? でもまだ私のせいだと決まったわけじゃない。


 この頃私は、こんなことばかり繰り返し考えていた。


「お嬢様。先生がいらっしゃってますよ」


 窓の外を眺めながらぼんやり考え込んでいたとき、侍女のマリーが扉を開けて、声をかけてきた。


 私は慌てて扉を閉めるよう言った。


「ブラシはどこ?」

「大丈夫、十分お綺麗ですよ」

「でも、こんな格好じゃ会えない」

「分かりました。お持ちします」


 マリーは丁寧に髪を梳いてくれた。それでも私は不安で一杯だった。


「やつれてますね」


 対面して早々に、ランドルフが冗談っぽく言った。多分私が文句を言うことを見越していたのだろうけど、私は彼の期待には応えられずに、泣きそうになるのを耐えることしか出来なかった。


 ランドルフは慌てていたけど、私の憂うつは彼の言動のせいではなかった。彼の背後にたゆたっていた、黒い影のせい。心なしか、闇が濃くなっているように見えた。


 私たちは向き合ったまま、立ち尽くした。


「何かして欲しいことはありますか?」


 途方に暮れたランドルフが、探り探り、尋ねてきた。


「何かって?」


 ランドルフはためらいがちに口を開き、うーん、と唸りながら頭をかいた。


「お嬢様が川に落ちた次の日に、神父様が川に足を運んで祈りを捧げていらっしゃいました。それから町中の人たちが、花やお菓子を持ってあの場所を訪れています。私も帰りに寄ってみるつもりです。もしよろしければ、私がお嬢様の分も、花を供えておきましょうか?」


 反射的に、だめよ、と強い口調でランドルフの言葉を遮っていた。ランドルフは困惑していた。


「駄目って、どうして」

「あなたは川に近づいちゃいけないわ。絶対に」


 早口で告げると、ランドルフは不服そうな顔をした。


「川を荒らしたりはしませんよ。ただ、花を」

「お願い、行かないで。あなたは川に近づかないって約束して」


 私の必死な様子をランドルフは不審に思ったようだった。その目はどことなく、話の通じない人を見るみたいに、怯えていた。


「分かりました」


 ランドルフが小さく呟いた。






 ランドルフがお見舞いに来た日から、私は余計に食べられなくなった。飲み込んでもすぐにもどしてしまうのだ。


 あの影がただの見間違いだったことを期待していたのに。彼の背後には憎たらしいほど鮮明に、洗っても落ちないインクのシミみたいに、黒い影がこびりついていた。


 部屋の前を人が通る度に、嫌な汗をかいた。扉が開いて、隙間から顔を覗かせた誰かに、ランドルフが死んだと告げられたらどうしよう。彼の黒い影が消えるまで、私は一生こうやってびくびくしながら生きていかなければならないのか。そう考えるとますます気が滅入った。






 ある日、婚約者のダニエルがお見舞いに来た。特に積もる話があるわけでもなく、向かい合ったまま、湯気をくゆらすハーブティーを二人で睨み付けて、時間を無駄に消費した。


「ジョエルのところへ行きたいのか?」


 ダニエルが無機質な声で言った。質問の意味が分からずに、私は首をかしげた。


「どういう意味?」

「死にたいのかって意味」


 苛立った声が、湯気をゆらりと揺らした。


「そんなわけない」

「じゃあなんでそんな、投げやりなの。いっつもぼけっとして、ふらっと川に行ってさ。今度は断食? そんなことしたってジョエルは帰ってこないよ」


 空っぽの胃がキリキリ痛んで、目頭が熱くなった。駄目だと思うのに、涙が盛り上がってきた。


「死んだって決まったわけじゃない。どこかで生きてるかも」

「それ本気で言ってんの?」


 地を這うような声にびくりと膝が揺れ、カップの中に映っている壁の飾りが波打った。


「ジョエルはどうなるんだよ」

「え?」

「あんたがこのまま死んだら、ジョエルはどうなるんだよ。自分のせいだって思うだろ、あいつなら」


 みぞおちのあたりが痛くてたまらなくなって、とうとう熱い涙が頬を伝った。涙はとめどなく、川のように流れ続けた。






 ダニエルは家に帰った。でも夜になって、私が寝る準備を整えた頃に再び屋敷にやって来た。彼は婚約者ではあるけど、寝巻き姿で会うのは抵抗があった。


 結局服を着替えて、客間でダニエルと対面した。


 ダニエルは私に、ソファーに座るよう言った。言われるがまま腰を下ろした。ダニエルは私の隣に座った。人ひとり分、距離をとって。


「六歳だったっけ」

「え?」

「あの事故は、ジルが六歳のときに起こったんだっけ」


 十年以上避けてきた話題を、ダニエルが口にした。それだけで私はとても混乱した。あのときの話をすれば、何かが壊れてしまうような気がして恐ろしかった。


「うん、六歳だった」

「そっか」


 ダニエルの口調は、なぜか柔らかかった。昼間からこの時にかけて、何かあったのだろうか。


 ダニエルは少しだけ、私の方に体を向けた。動きがぎこちなかった。彼も私と話をするのが怖かったのかもしれない。


「やっぱり、覚えてないんだな」

「何を?」

「本当はさ、あの日川に行きたいって言ったの、僕なんだ」


 弾かれたように顔を上げて、ダニエルを見た。目が合った瞬間、ダニエルはくしゃりと顔を歪めた。


「僕がジョエルに頼んで、川に連れていってもらったんだ。ジルはそのあとを付いてきたんだよ。二人が溺れたとき、僕は怖くなって逃げたんだ。ジルは六歳だったから、覚えてないんだろう」


 私は呆然としたあと、思わず笑ってしまった。


「どうしてそんな嘘つくの」

「嘘じゃない」

「嘘よ。馬鹿にしないで。よりにもよってそんな嘘」


 ダニエルの意志は固かった。どれだけ私が本当のことを暴こうとしても、彼はかたくなに嘘を真実だと私に言い聞かせようとした。自分に言い聞かせているようでもあった。


「僕たち、一緒に生きていかなくちゃならないんだ」


 ダニエルは無理やりに笑おうとして、情けない顔になっていた。


「わたしが嫌いなんでしょう。分かってる」

「ジル、このままじゃ、本当に死ぬぞ。僕はさ、また家族を失うのはやっぱり嫌なんだ。それだけはやっぱり、怖い」


 ダニエルに家族だと思われていたことに、私は本当に驚いた。そしてダニエルの子供みたいに頼りない作り笑いが、幼い頃から大して変わっていないことにやっと気づいた。


 彼も完璧じゃない。立ち直れないことに悩んでいる。そう気づいて、肩の力がすっと抜けた。


「わたし、死にたいわけじゃないの」


 なんとか絞り出すように伝えた。ダニエルは精一杯、大人らしく振る舞おうとしていた。


「あの日のことは、僕のせいだったんだよ」

「そんな話、信じられるわけない」

「それでも信じるしかない。言っただろう。僕たち、一緒に生きていかなくちゃならないんだ。僕はその努力をするつもりでいる。ジルは?」


 二人は黙ったままで、彫像になりきっているかのようにずっと固まっていた。

 ポーン、ポーン、と、時計の音が部屋の中を跳ねまわるまで、ずっと。

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