3 ハーブティー
料理の上をいくつかの言葉が飛び交った。どれも楽しい食事の時間にはふさわしくない言葉だった。
私はただグラスの水を見つめていた。口論に反応して波打っている水面を。あんなに美しく静止していたのに。
指が白くなるくらい手を強く握りしめていたら、隣に座っていたランドルフが、私が握っていたナイフをそっと取り上げた。暴れ始めるとでも思ったのだろうか。
「ダニエル、出ていけ」
パパの低い声が部屋に響いた。ダニエルはその言葉を待っていたとばかりに嬉々として立ち上がり、無駄に丁寧な挨拶をして去っていった。
この日一番の被害を被ったのは、ランドルフだと私は思う。
◇◇◇
私にも幼少期というものがあった。
小さかった頃、私は両親や使用人に"ひよこちゃん"と呼ばれていた。両親は期待を込めた声で、小さかった私にこう言った。
『私たちのかわいいひよこちゃん。教えて。将来の夢は何?』
こいつは困ったぞ、と私は幼心に狼狽した。
貴族というのは大抵、お金持ちだ。子供の夢を金の力で叶えるなんてお手のもの。しかし、いくらお金持ちとはいえ夢を叶えるには最低限の努力が必要だ。その努力を想像するだけで、私はとてもめんどくさい気分になった。
悩みに悩んだ末、私はこう答えた。
『トライアングル奏者になりたい』
ママが主催したサロンに、トライアングルで遊ばせてくれた打楽器奏者がいたことを思い出したのだ。あのチリチリ鳴るやつはどうしたって極めようがないだろうとひらめいた。
ママは、私の返答を拡大解釈した。ママは音楽が好きなのだ。だから私が楽器に興味を示した(フリをした)ことに大喜びした。
トライアングルの件はやんわりなかったことにして、ママは私に選択を迫った。ピアノか、歌か、バイオリン。さて、どれを選ぶのが一番賢いかしら?
ピアノは動きが複雑そうで弾く前からもうめんどくさいし、バイオリンも弦を押さえるのを想像するだけでもうめんどくさい。しかし歌は物心ついたばかりの子供だって歌える。寝転がっていても歌える。
私は歌を選んだ。愚かだった。
ママは策士だ。私は六歳から十五歳くらいまで、ママの知り合いである歌の先生と一緒に、ただ童謡や流行りの歌を楽しく歌っていた。
そうして歌う楽しさを十分知った頃、ママは機は熟したとばかりに、私に賛美歌を歌ってみないかと提案したのだ。賛美歌を歌うのは別にかまわない。問題なのは、賛美歌を歌うには古代語を学ぶ必要があるってところ。
国によって日常で使われる言語は違うものだけど、賛美歌は別。賛美歌は古代語で歌えば、どの国でも通用する。だからママは私に、歌のために古代語を学ばせることにしたのだ。思うに、ママは将来の夢を尋ねたときにはもう、私に古代語を習わせようと決めていたと思う。ママは信心深い人だから、めんどくさがりの私の人生に、聖職者の公用語である古代語を何とかして組み込もうとずっと画策していたのだろう。
ピアノなら、古代語を勉強しなくてよかった。バイオリンなら、古代語を勉強しなくてよかった。よりにもよって私が選んだ歌にだけ語学が必要なのだ。そして私はもう、賛美歌を完璧に歌い上げてみたいと思うくらいに、歌う楽しさを知ってしまっていた。まんまとママの術中にはまってしまったってわけ。
ママは何らかのつてで、恐らく男爵家に仕えていた製本師のつてで見つけ出してきた古代語の家庭教師を、自分の失敗に気づいたばかりの娘と引き合わせた。
久しぶりだったけど、私は一目見て気づいた。緊張した面持ちで屋敷に現れた青年が、以前自分を助けてくれた、ランドルフだということに。
「ちゃんと詩を暗唱できるようになりましたか?」
授業の日。ランドルフは挨拶もそこそこに宿題の提出を求めてきた。食事をした日はずいぶんと気遣ってくれたのに、彼の優しさの期限は三日足らずで切れる仕組みらしい。
「古代語の詩っていうのは、賛美歌でも構わない? それなら、三曲歌えるわ」
教え子がちゃんと宿題をこなしていたことが意外だったのか、ランドルフは小さな子供がするみたいに目を丸くした。
「もちろん。それが本来の目的でしょう」
普段の授業では私は、ランドルフと隣り合って座り、机に向かっていた。でもその日は腰かけたランドルフの正面に立って、歌を披露した。
三曲とも、上手く歌えた。発音も歌も、悪くなかった。自分ではそう思ったけど、ランドルフの反応はいまいちだった。
彼は椅子に座ったまま、怒ったような困ったような、変な顔をしていた。最後に歌った曲のせいかもしれないな、と私は思った。
男爵領がある地方では有名な人生賛歌。お葬式で歌われることもある曲。幸いにも私は幼い頃に、この美しい旋律と出会う機会があった。
ランドルフはしばらくまじめくさった顔で黙り込んでいた。やがて何かを言いかけて、それから咳払いをした。黙り込みすぎて声が出なかったらしい。
「《墓石》ですよ」
「え?」
何かから立ち直ったランドルフは、気づいたときにはもう、隙のない空気をまとっていた。
「《ぼせい》ではなく、《ぼせき》です。発音を間違えています。その発音では母性という意味になってしまう。正しくは、《墓石も花に変わるほど》」
正直、そんな細かい発音など私にとってはどうでもよかった。
私の不満を感じ取ったのか、ランドルフはいかにも教師っぽい口調で説明を始めた。
「詩というものには、その単語を選んだ意味がちゃんとあるんですよ。詩人がなぜその単語を選んだのか、その想いを自分なりに汲み取ることが」
言いかけて、ランドルフは口をつぐんだ。私は思わず尋ねていた。
「墓石にはどんな意味があるの?」
ランドルフは再び怒ったような顔になって、ふいと私から視線をそらした。
「ご自分でお考えになって下さい。授業を始めますよ。さぁ、座って」
そりゃないよ、と思ったが、そこまで気にするほどの情熱もない。私は大人しく椅子に座り、参考書に目を落とした。
インクにペン先を付けようとした拍子に、ハーブティーが入ったカップを倒してしまった。私よりも、ランドルフの方が慌てていた。ハーブティーがとっくにぬるくなっていたことを、知らなかったのだ。
花の香りが二人を包んだあの日のことを、昨日のことのように思い出せる。参考書がランドルフの瞳の色に染まっていく様は幻想的で、私をとてもロマンチックな気分にさせたから。




