27 湖
ランドルフの熱は二日で下がった。それから二週間くらい、私たちは夕方に毎日、一時間ほどの短いデートをした。真剣な話もくだらない話も、いろいろな話をする中で、私たちの気持ちはほとんど同じ速度で固まっていったように思う。あれは今思い返してみても、不思議な体験だった。
私はある日、朝起きた瞬間、今すぐにランドルフと結婚しないと、自分は海の藻くずにでもなってしまうんじゃないかと、そんな形容しがたい不安に襲われた。
そして夕方。待ち合わせ場所にはすでにランドルフの姿があった。彼は私と目が合った瞬間足早に歩み寄ってきて、今日でも明日でも、とにかくできるだけ早く私の家族に挨拶したいと、開口一番にそう言った。
ただならぬ雰囲気に私が圧倒されている隙に、彼はこう続けた。結婚したい。もう一秒も待てないくらい、そう感じる。どうか自分たちは今、同じ気持ちなんだと言ってくれ、と。私の答えは、これは説明するだけ無駄だと思う。だってそんなの、分かりきってるもの。
おばあさまとママはランドルフのことを歓迎した。パパも最初は、久しぶりに帰郷した息子を迎えるように彼と接していた。でも私と彼の関係を知ったとたんに態度が急変した。
自分の父親だけは大丈夫だと思っていたのに、世間でよく聞くように、パパも娘の恋人は気に入らないらしい。
「何が不満なのよ。パパだってランドルフのことは気に入ってたでしょ?」
私の文句を、パパは小癪にも聞き流した。私は怒りに震えたけど、ランドルフは冷静だった。
「来月から隣町の工場で雇ってもらえることになったんです。それに製本の仕事も二件請け負いました。だからその、貴族になりたくて言い寄ったわけではないんです」
「違うんだ、ランドルフ。君に問題があると言ってるんじゃない。私はジルの気持ちを疑ってるんだ。お前、ランドルフが好きだなんて一言も言わなかっただろう。ただの家庭教師だと、そう言ってたじゃないか」
「パパ!」
私はパパのことを思いきり睨み付けた。パパは痛くもかゆくもないという顔で堂々とソファーに座っていた。ところどころ穴の空いたソファーに。
「私だってただの家庭教師よ。それに、あれは四年も前の話じゃないの」
「四年ぶりに再会していきなり結婚したくなったのか? 信じられないな。ランドルフ、うちには借金があるんだ。君にそれを背負わせるつもりはない」
「借金のことは二人で話し合いました。額も聞きましたが、構いません。結婚しなければ借金と無縁でいられるなんて保証は今の時代にはないでしょう」
一歩も引かないランドルフを前に、パパは口元を変な形に曲げた。それから私のことを見た。
「ジル。お前まさか、パパたちを安心させるために結婚しようとしてるのか? だったらやめなさい。ランドルフにとっても、そんなことはよくない」
「パパ、よく聞いて。私はパパが知らない頃からずっと、ランドルフのことが好きだったのよ。彼を愛してるの。世界中の誰よりも愛してる」
「まあ!」と感嘆の声を上げたのはママだった。
大げさな反応だと思ったけど、ママは私の言葉に感銘を受けたわけじゃなかった。ママは少女のようにキラキラした目で、ランドルフを見ていた。
隣を見るとそこには、顔を真っ赤にしてうつむいているランドルフがいた。彼はどうしたらいいか分からないといった様子で、自分の手をひたすらに見つめていた。
その反応にはさすがに、パパも心動かされたようだ。小さな子供に向けるようなまなざしをランドルフに向けて、つり上げていた眦に優しいしわを刻んでいた。
◇◇◇
突然だけど、一年前の今日、自分がどこで何をしていたか覚えてる?
もし一年前の今日、どこか遠くで鐘が鳴っていたという話を人から聞いたのなら、もしくは実際にその耳で鐘の音を聞いたのなら、それはきっと私とランドルフが結婚式を挙げていた教会の鐘だと思う。
結婚式といってもずいぶんと小規模なものだった。それでも私たちにとって、とても素晴らしい一日であったことに疑いの余地はない。
私たちが準備したのは、ドレスとスーツだけ。
正直言って、私はドレスとスーツを用意することすら諦めていた。ランドルフはそれくらいのお金はあると言ってくれたけど、私はその言葉にどうしても頷けなかった。貴族だった頃の感覚が抜けていないと、思われたくなかったからかもしれない。
事情を知った美容師のゲルタさんが、一肌脱いでくれた。ランドルフが住んでいる部屋の家主であるゲルタさんは、彼女の孫夫婦が結婚式で着用した大切なドレスとスーツを、海よりも広い心で私たちに貸して下さったのだ。
ママとおばあさまがドレスのサイズ直しをしてくれた。スーツは何故か、ゲルタさんが直してくれた。ランドルフは彼女にとても気に入られている。
指輪は用意できなかった。指輪を買うお金が貯まるまで結婚式を延期するべきだとパパは言ったけど、私たちは一秒でも早く結婚したかった。私たちは特権階級じゃない。だから指輪がないことを些細な問題だとあしらうことに、誰の許しもいらなかった。
結婚式を、教会で行っているボランティアの日に挙げるというランドルフのアイディアのおかげで、質素な結婚式は大いに盛り上がった。楽団なんて必要なかった。私はチャーリーとダンスを踊った。あんなに楽しいダンスは生まれて初めてだった。
ご馳走を食べたり飲んだりはできなかったけど、こんなに胸が温かくなる思い出は他にない。
結婚式は一時間ほどで切り上げた。ランドルフは結婚式が終わってすぐに、私を湖がある小さな森に連れていってくれた。
よく晴れていて、気持ちのいい風が吹いていた。背の低い緑の草が生い茂る湖畔に座り込んで、しばらく無言で湖を見つめていた。小さく波打つ水面は太陽の光を細かく反射していた。腰を下ろした場所の、すぐそばに太い幹の木があって、枝葉は私たちの頭上まで伸びていた。枝葉の影がランドルフの顔や体に綺麗な模様を描いていた。
ランドルフは突然、ジャケットの内ポケットから手のひらくらいの大きさの、平たい酒瓶を取り出してみせた。
「見事なものね。いつから隠してたの?」
「通過儀礼です。ほら、飲んで」
ランドルフはいたずらっぽく笑いながら瓶の口を私の口に押し込んできた。酒瓶に直接口をつけるなんて初めての経験だったから、私は慌てて首を横に振った。
「だめよ、そんなことできない!」
「そう?」
ランドルフは無理強いはしてこなかった。慣れた仕草でお酒を飲んでいる彼を見ていると、少し悔しくなって、私は隙を見て酒瓶を取り上げた。
「あー、ちょっと。そんな一気に飲んだら駄目だって。大丈夫?」
お酒は爽やかなオレンジの味がした。喉が熱くなって咳き込んだ。ランドルフは呆れたように笑っていた。
私たちはクスクス笑いながら交互にお酒を飲んだ。瓶の中身の三分の二を減らした頃、つい気がゆるんでしまって、胸の底にしまっていた本音を呟いてしまった。
「後悔してない?」
ランドルフの耳にはまっすぐ届かなかったらしく、彼は笑みを浮かべたまま顔を近づけてきた。
「何て?」
「あなたきっと、もっといい暮らしができたわ。それに、家族と離れて辛くない? そのことを考えると私、すごく、何ていうか」
多分、お酒には涙腺をゆるめる効果があるんだと思う。私は最後まで言葉を続けることができなかった。
今更言っても仕方のないことを言ってしまったという自覚はあった。ごめんなさい、とすぐに謝った。ランドルフは優しい手つきで、丁寧に涙をぬぐってくれた。
「ジュリア、顔を上げて。俺の目を見て」
言われるがまま顔を上げると、大好きな茶色の瞳がそこにあった。こっそり盗み見ていた彼の瞳を堂々と見つめていると考えると、とても不思議な感じがした。
ランドルフは真剣な顔で何かを言いかけて、すぐに口元をふにゃりとにやけさせた。
「すみません。今すごく幸せで、真面目なことが言えない」
片手で口元を押さえてそんなことを言ったあと、ランドルフは感極まったというようにぎゅっと抱きついてきた。
「幸せすぎてここ最近、もうずっと苦しい。これ何とかできませんか? 命の危険を感じます」
安心して欲しい。彼の背後に、影は見えなかったから。
「あなた、どうかしてる」
「ですよね」
「ひどい」
軽く肩を叩いたら、すかさずその手をつかまれた。
「ねぇ、何か歌って。声が聞きたい。俺だけに聞かせて」
そう囁いて、ランドルフは私の頬や首すじに唇を寄せてきた。たったそれだけのことで私は、瞬きすら自然にできなくなる。覚えたばかりの歌を歌おうとして、でも上手く息が吸えなくて、全くひどい有様だった。




