26 合流
「すみません、やっぱり疲れてるのかも」
手のひらに口づけてすぐ、ランドルフは私の手を解放して眉間を押さえた。私は茹でたみたいに熱くなった自分の手を胸元に引き寄せて、それから、はたと気づいた。
ランドルフは私にひっぱたかれて命拾いしたと言った。彼の言う通り、あの日、私が平手打ちした瞬間彼が背負っていた影は瞬く間に消えていった。
ここは、男爵領ではない。革命のただなかの国でもない。パパの法はまかり通らず、目を光らせて反乱分子の動向を探る町人もいない。そもそも、私が男爵令嬢だということを知っている人すら、この町にはほとんどいない。
それなら、もしかして。ひょっとして私たちは、もう。
「ねぇ、ランドルフ」
「今のは無意識だったんです。誓って本当です」
「キスしてもいい?」
「はぁ?」
私は返事を待たずにベッドのふちに腰かけて、唖然としているランドルフに覆いかぶさった。
「いい? するわよ。今するわよ。すぐ済むから」
「ま、待って待って! ちょっと待って!」
ランドルフは飛び起きて、私の両肩をつかんで距離を取った。
「え? 何? どういうこと?」
「一回でいいから。お願い。一瞬でいいから」
懇願する私を、ランドルフはしばらく気味悪そうに見つめていた。でも彼の迷いはそう長くは続かなかった。仕方ない。彼はこのとき弱っていて、ものを考えることすらおっくうだったはずだから。
肩を解放されてすぐ、私はランドルフの胸元をつかんで自分の方に引き寄せた。彼の唇はすっかり力が抜けていて、とても熱かった。
約束した通り一瞬で終わらせた。でも胸元はつかんだまま、ランドルフの背後をじっと見つめた。彼はしばらく大人しくしていたけど、やがて私の肩をそっと押して距離を取り、顔を覗き込んできた。
「前から思ってたんですけど、それ、何なんですか」
「え?」
「時々、頭の後ろのあたりをじっと見ますよね。何なんですか。幽霊でも見えるんですか」
もし見えるなら正直に言ってください、とランドルフはやけに真剣な顔で言った。私は顔がにやつくのを止めることができなかった。
「見えないわ。幽霊なんて」
「よかった」
「幽霊どころか、影ひとつ見えない」
「それは、なによりですね」
「聞いてランドルフ。私、初めて会ったときからあなたのことが好きだったの」
「はい?」
私はプレゼントの箱を開けたばかりの子供みたいに、ランドルフの首に飛び付いて喜びを爆発させた。
「愛してる。ランドルフ、愛してるわ」
「ええ? ちょっと、大丈夫ですか?」
このあと自分が何を口走ったのか詳しくはあまり覚えていない。多分彼のどこが好きかとか、どのくらい好きかとか、そういうことを延々としゃべっていた気がする。
「あの、待って、ごめん。ちょっとめまいが」
ランドルフが弱々しい声で言った。私は我に返って、慌てて体を離した。
「ごめんなさい、大丈夫?」
ランドルフはどさりとベッドの上に仰向けに倒れ込み、両手で顔を覆って呻くような声を出した。
「あー、もういいよ。煮るなり焼くなり好きにしろよ、ちくしょう」
◇◇◇
親愛なるジュリア
元気にしていますか?
きっと新しい生活は苦労が多いことと思います。だけど、どうしてかな。僕にはジルが苦労しているところが想像できない。今もきっと川べりでぼんやりしているんだろうなと、そんな風に思えるよ。
僕たち家族はとても元気だから、ご心配なく。こんなペラペラの紙切れには書ききれないほどいろいろなことがあったけど、四年の間に起こった出来事を全て書き連ねたりはしないから、安心して。
一番大きな事件だけ伝えることにする。よく聞いてくれ、我が婚約者。実は僕、結婚したんだ。子供もいる。信じられるか? 僕が父親になるなんて!
最近、自分がまるっきり生まれ変わったような気分になるんだ。過去の思い出が全部でたらめの、おとぎ話のように感じる。そんな風に感じたとき、君がいてくれたらいいのにな。僕たちってお互い、時々読み返したくなるアルバムみたいなものだろう。嬉しい変化も多すぎると、過去にすがりたくなるときがどうしてもある。つまり僕にとって、ジルはどこにいたって、自分を見失わないための心の支えになる、大切な存在だってことを伝えたかったんだ。
あまりうんざりさせたくはないんだけど、もう誰もまともに聞いてくれなくなったから、聞いてくれ。
僕の妻はステラっていうんだけど(素晴らしい名前だと思わないか?)、彼女はカステルの娘なんだ。そう、昔、話して聞かせたあの頑固じじいのカステルだよ。鳶が鷹を生むってこの事だよな。
まだ彼女とあんまり親しくなかったころ、たまたま道で顔を合わせて、ちょっと立ち話をした。とても暑い日だったってのに、彼女は首にスカーフを巻いていて、しきりに首もとを恥ずかしそうに隠してた。気になったから聞いたんだ。「それどうしたの」って。そしたら彼女はこう言った。「ポールに噛まれたの」って。
「君の彼氏、子供っぽいことするね」ってからかったら、彼女は声を上げて笑った。笑いながら、「ええ、そうなの、まだ一歳だから」って言ったんだ。
ポールはお仕置きとしてカステル家の庭のくいに繋がれてた。彼はお座りとお手が得意だ。頼んでないのにやろうとするからね。お座りとお手では、僕はポールにかなわない。だから強敵のポールが首輪に繋がれてる隙に、僕は彼の愛する人をかすめ取ったってわけ。ポールには言わないでくれ。あいつ僕のことが嫌いなんだ。
あと、もうひとつ聞いてほしいことがある。重大ニュースだ。一歳になったばかりの息子のパトリックが、この間自分でくつ下をはいてた。あいつ天才だよ。まだ一歳なのに。僕よりも賢くなったらどうしよう。ステラは真面目に取り合ってくれないんだ。ジルなら分かってくれるだろう。あんなに小さいのに自分でくつ下をはくなんて!
そろそろ切り上げた方がよさそうだ。君の愛想笑いが目に浮かぶよ。皆そういう顔をするんだ。呑気なもんだよ、全く。
ランドルフだけはいつも、僕の話を最後まで真剣に聞いてくれたけどね。あいつ義理堅いからなぁ……。試しに、一度聞かせた話を忘れたフリして何日か置きに聞かせてみたら、あいつ毎回、その話は初めて聞いたみたいな態度で相づち打ってくれたんだ。
愛想のない奴だと思ってたけど、ここ数年でランドルフのことがよく分かった。本当に、信じられないくらい愛情深い奴だよ。ここは要チェックだ。印を付けておくこと。君にもいろいろあると思うけど、あいつの愛を、くれぐれも疑わないように。
君は幸せ者だよ。僕ほどじゃないけど。
おばあさまと、伯父さんと伯母さんへの手紙も同封しました。皆が元気ならいいんだけど。
あとひとつだけ。絶対に返事を送ったりはしないでくれ。今この国は、王党派に容赦がない。どんな難癖をつけられて処刑されるか分からないんだ。帰国も駄目だ。亡命貴族は見つかれば全員処刑される。脅すつもりはないけど、それが事実だから。
ではまたいつか、再会できる日を楽しみにしています。
あなたの親友、ダニエルより




