1 雨
歴史は繰り返すと言うけど、あの頃起こった出来事に関しては、そうやすやすと繰り返して欲しくはないと私は思う。
あの出来事が幸でも不幸でも、人類にとっては必要なことだったと人は言う。
私にとっては、どうだったのか。その答えを一言で返すのは難しい。何事においても簡潔なものが好まれることは知っている。でも私は恐れず、言葉を尽くすことを選ぼう。
だからどうか、耳を貸して頂きたい。私はこれからこの心全てで、私の人生に起こった出来事について、物語の入り口に立っているあなたに、何もかもを偽りなくお話しすることをお約束します。
◇◇◇
初対面の相手に自分のことを説明しなければならないとして、何から説明するのが最良だろう。
名前、年齢、性別。人によって様々だろうけど、これは私の物語だから、私流にやってみようと思う。
私はジュリア。ジュリア・アンジェリカ・ロシェル・クロエ・セヴェール。
ええ、分かってる。長すぎる。
十七歳だった当時、私は豪邸に住んでいた。そして男爵のひとり娘をやっていた。
兄弟姉妹はいない。いとこのダニエルが婚約者だった。
あとは何かな。私は雨の音が好きだった。それは今でも変わらない。
雨が降ると必ず窓を開けて、しずくが屋根を叩く音に耳をすましていた。ときどき窓から腕を伸ばして、水が肌を伝う感触を楽しんだ。
「危ないですよ」
そうすると運がよければ、ランドルフがやんわりと私の腕に触れてくれた。
「あなたもやってみたら?」
「なぜ大気中の塵や埃が混ざりまくった液体に自ら身を投じなければならないんです?」
「嫌ならいいのよ、別に」
ランドルフはため息をついて、窓辺から遠ざかり、机の前に二つ並んでいる椅子のひとつに再び腰掛けた。そしてポケットから小さな本を取り出して、不真面目な教え子の説得を放棄した。
彼が読んでいた本は、古代語で綴ってあった。当時の私は古代語が苦手だった。古代の共通語だから、苦手でも生活に支障はない。でも特権階級はいつの時代も無駄な"装飾品"を身につけたがるもの。
「一日中遊んで暮らせたらいいのに」
手のひらに溜まった雨水をもてあそびながら、本音が口をついて出た。
「あなたがそれを言うんですか」
ランドルフは顔を上げずに、口元に微笑をたたえるのみで軽蔑を表現した。
私は彼に嫌われていた。金持ちは皆に嫌われる。不況の時代は特に。部屋のすみに控えていた侍女の表情にも、苛立ちが見てとれた。
もう少し雨の音に耳を傾けていたかったけど、私は現実に戻ることにした。濡れた腕をハンカチでぬぐって、椅子の背にかけてあったショールを羽織った。
机に向かった私を見て、ランドルフはパタッと軽い音をさせて本を閉じた。机に片腕を乗せ身を屈めて、彼は参考書を指差した。当時、私には秘密の楽しみがあった。それは、古代語を解説する彼の横顔を、そっと盗み見ること。
伏せた長いまつげが、よく下まぶたに影を作っていた。暖かな色味の茶色い瞳に光が当たると、ガラスみたいに透き通ることを私はとっくの昔から知っていた。
かさついた彼の唇が、何か言った。聞き返そうとしたとき、ペンを握っている私の右手に、ランドルフが遠慮がちに触れてきた。
「震えてる」
私の右手は、小刻みに震えて指先が真っ赤になっていた。紙の上の字は癖があると主張するには無理があるほど乱れていた。
「雨に当たり過ぎたのかも」
震える指先をぼんやり見つめながら呟くと、ランドルフは面倒くさそうに頭をかいた。
私の肩には、男性用の上着がかけられた。驚くほど暖かかった。
教え子の指先が震えるくらいで、彼は自分の仕事を投げ出したりはしなかった。授業は淡々と進み、雨は淡々と降り続いた。
「次回までに詩を三編、暗唱できるよう準備しておいて下さい。古代語ならどんな詩でも構いません」
授業が終わってから、ランドルフは外套を身に付けながら宿題を出した。私は慌てて、肩にかかったままだった上着を返そうとした。彼は私の動きを片手を上げて制した。
「ああ、それは捨てておいて下さい」
「ひどい。まるでわたしを汚らわしいものみたいに」
「いえ、あなたのその、香水。弟たちに要らぬ疑いをかけられたくありません。だから、ここで捨てて下さい」
「香水なんてつけてないわ」
「本当に? でもいつも花の匂いがする」
ふいに、雨音が濃くなった。数秒の沈黙のあと、どちらからともなく足を踏み出し、お互いの頬を触れ合わせて別れの挨拶をした。
「では、お嬢様。来週また」
「いつも言ってるでしょう。ジルと呼んでよ」
「お嬢様。呆け癖もほどほどに」
少しの笑みをたたえたランドルフは、私の名を呼ぶことなく扉の向こうに消えた。
「お勉強は順調?」
夕食の場で、私は料理を咀嚼するふりをしたあと、ママの問いに答えた。食事中に面倒な質問をされたときは、いつもそうする。
「ママ、食事の時間に勉強の話をするのはやめてよ」
ようやく導きだした答えに、パパが吹き出した。食事の時間に"お金"の話をするのはやめて、というのは、ママの口癖であるから。
「ランドルフが教えに来るようになってからあなた、明るくなったわ。ねぇ、テオ。そう思わない?」
「あ、ああ」
パパは自分の思考の範疇に無かった考えに少々慌てたあと、急いで頷いた。
「明後日の夕食に、ランドルフを招待しようか」
興味が無いなら余計な口を出さなければいいのに、パパは会話に参加しているふうを装うためだけに、そんな提案をした。
「パパ、お願い。そんなことしないで」
「いいじゃないか。ダニエルにランドルフを紹介するいい機会だ」
「ランドルフは嫌がるに決まってる。ダニエルもよ。だってただの家庭教師なのに」
「そんな言い方はないだろう、ジル。相手がどのような生まれでも、敬意を払いなさい」
「ねぇ、おばあさま。わたしがパパを嫌いになるようなことを、パパにさせないで」
孫の救難信号を受け、おばあさまはゆったりとした動きで手元の料理から顔を上げた。
「私はテオに賛成よ。印刷屋の息子と、製本師の息子。きっといいお友だちになるはず」
おばあさまが良いと言えば何人たりとも抗えない。彼女はこの世界の、支配者も同然だった。




