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17 熱湯

 革命家などいるわけがないとパパたちが考えていた男爵領では、もう暴動が始まっていた。荷物を取りに行ったとき、屋敷にはとても近づける状態ではなかった。


 馬車の中からその光景を見て、亡命に乗り気でなかったママとおばあさまは、それ以上文句を言わなくなった。


 人とは本当に分からないものだ。表面では男爵家に敬意を表していた領民たちは、実際は、いつ爆発してもおかしくない状況にまで追い詰められていた。


 不況、不作、封建制度。その辛さを本当の意味で知らなかったのは、私たち家族だけだった。破壊された門を遠くから見つめながら、私はとことん、その事実を思い知った。






 国を出るまでとても苦労したけど、それはその後の暮らしを思えば些細なことだったし、特に詳細に語るつもりはない。


 ただ、私たちがどうして生き延びることができたのか、その最大の理由は伝えておくべきかと思う。


 私たち家族が亡命できたのは、ひとえに叔父さん一家の協力のおかげだった。


 叔父さんがとある出版業者に口を利いてくれて、その人が私たち家族の亡命が上手くいくように力を貸してくれたのだ。


 今考えてみれば、叔父さんたちは私たちを裏切ることも見捨てることもできた。きっとそっちの方が彼らにとって安全だっただろう。それに、これを言うのはとても辛いけど、ジョエルのこともある。ジョエルはダニエルたちの、太陽だった。彼らの太陽を奪った私を、何の見返りもなく彼らは助けてくれた。その経験が私の人格形成に大きく影響したことは間違いない。これほどの愛を受け取って、冷たい人間になど、なれるはずがないのだから。






 当たり前だけど、貴族は領地がなければただの人だ。むしろ、ただの人よりも世間を知らない。庶民の世界で役に立つことが上流階級では卑しいことだととらえられるように、上流階級の慣習は庶民にとっては理解不能だ。


 私たちは両手に抱えられるだけの荷物を持って外国へ移住した。移住と言っても、住む家などない。とりあえず宿を借りてはみたものの、贅沢に慣れきった私たちは狭い部屋に全員で押し込まれることなど耐えられず、しかも身の回りのことも従業員に任せっきりで、持ち出したお金は瞬く間に減っていった。


 おばあさまは不便な生活や慣れない食べ物のせいですっかり元気をなくし、パパとママも同様で、白状するなら、私もずいぶん参っていた。


 お金は大事だと頭ではわかっていたけど、貴族らしい振る舞いを心がけてきた私たちは、人に施すことはあっても施されることはなかった。だから先行き不透明だというのに金払いがよく、ひったくりやぼったくりに遭っても何故か、平気な顔を貫いていた。


 だけど生命の危機はさすがに感じていた。パパはありとあらゆるつてをたどり、鉄工所の事業者であるジーゲルトさんと交渉し、私たち家族は彼の自宅を間借りすることになった。


 とはいえ、お金が底をつけばそこも追い出されてしまう。


 運よく、パパと私は仕事にありつけた。パパは昔軍に従事していたことを買われ、ジーゲルトさんのボディーガードとなった。私はジーゲルトさんの知り合いの、とある地主の家で、下女として住み込みで働くことになった。


 困ったことに、私はこの国の言葉を話すことができなかった。パパは話せるけど、当然、付いてきてもらうわけにはいかない。


 私はこの言葉というものにずいぶん悩まされた。地主の屋敷はジーゲルトさんの自宅から馬車で二日かかる場所にあり、私は下女となった日から、家族からも言葉からも、引き離されてしまった。


◇◇◇


 下女の仕事で一番怖かったのは、火を使う仕事だ。最初は鍋を火にかけることも怖かった。鍋底をちろちろ舐める火には注意を払っていたけど、ああ、どうか笑わないで。私は熱湯や湯気の恐ろしさを十七歳という年齢でまだ理解していなかった。


 基本的に、料理は一度に大量に作らなければならない。だから鍋を移動させることは結構重労働だった。鍋はバケツのような取っ手がついていて、その部分を持って鍋を持つと湯気が両手に当たってとても熱い。でも最初、私は湯気が熱いことを知らなかったから、驚いて鍋の中身を床にぶちまけてしまった。もちろんこっぴどく怒られて、その日は夕食をもらえなかった。


 お湯は沸騰するとブクブクと泡を吹くけど、火にかけるのをやめると静かになる。私はある日、火にかけている鍋の中身を何のためだったのか、片手で持てるくらいの器に移していて、ふと手が滑って、お玉の中身をこぼしそうになった。

 頭では、たとえ泡を吹いていなくてもお玉の中身は熱いのだと分かっていたけど、私はつい、こぼれたスープを片手で受け止めてしまった。


 あれは、熱いというより痛かった。一応そのあと、氷の欠片は貰えたけど、火傷の痕は今でも左手に残っている。


 料理よりも恐ろしいのは洗濯だ。十歳くらいの子供の身長ほどもある大きな鍋で、シーツを毎日毎日、煮込むのだ。


 熱湯が跳ねたときにできる、小さな火傷はもう仕方なかった。最初は自分のやり方が悪いのかと思っていたけど、そうじゃなかった。あれは火傷も込みの仕事だから、仕事をしながら身を守るという発想自体が間違っていたのだ。何かの拍子に鍋がこちら側に倒れてくるのではないかと、毎日本当にヒヤヒヤした。


 仕事の愚痴ばかりこぼして申し訳ないけど、でも悪いことばかりではなかったということも、お伝えしておこうと思う。


 私は下女の仕事を通して、ある種のコンプレックスから解放された。ランドルフの弟たちに対して、経験豊富な女を演じようとしたような、あのおかしなコンプレックスだ。


 火傷の痕は悲しくもあり、でも同時に安心感ももたらした。もう偽らなくていい。ぐつぐつ煮えたぎる熱湯と日々向き合いながら、それは微かな、私にとっての光だったかもしれない。

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