16 池
その後、私はすっかり堕落した。ランドルフにもらった辞書は一度も開かなかった。賛美歌の練習も怠けていて、髪を梳くこともなく、ただただお菓子をかじって、お茶を飲んで、池の水にちょっかいを出すということを繰り返していた。
さすがに心配になったのか、ママとおばあさまはしきりに私に話しかけてきた。でも彼女たちの言葉のどれもが私の耳を素通りしていった。
その日も私は、池のほとりに仰向けに寝そべって、右手だけ水の中に突っ込んで感傷に浸っていた。
馬の蹄が地面を蹴る音が聞こえてきて、慌てて上体を起こした。
てっきりランドルフが来たのかと思って、私は隠れる場所を探した。まだ食料は十分あるのにと首をかしげていると、聞き慣れた声が聞こえてきた。パパの声だった。
家の中に入ると、広い玄関ホールでパパと叔父さんとダニエル、そしてママとおばあさまと叔母さんが、言い争っているのが見えた。
「大げさに騒ぎ立てないで。危険が迫っているとは限らないでしょう」
「君はあの光景を見ていないからそんなことが言えるんだ。もう今しかチャンスがない」
パパとママは珍しく声を荒げて言い合っていた。私がいることに気づいたダニエルが、足早に近づいてきた。
「もう首都に行ってきたの? 早いね」
「いや、首都までは行かなかった。途中、侯爵の領地で暴動に出くわして、引き返したんだ。何日か前に首都で大規模な暴動が起こって、それが飛び火したらしい。噂では首都で民衆が、特権階級を何人か殺したって」
私は話の内容よりも、ダニエルのかもし出す緊迫した空気に気を呑まれていた。
「でも、首都には軍隊がいるんでしょう?」
「もう首都だけの話じゃないんだ、ジル。革命が始まった。ここも危ない」
少し前までのどかな庭で、空を観察していたというのに、どうしてそんな言葉を信じられただろうか。
私は助けを求めるようにパパを見た。パパはママとの口論を投げ出して、怖い顔で私の方に近づいてきた。
「準備をしなさい、ジル」
「準備って、何の?」
「国を出る。あまり多くは持ち出せない。大事なものだけ鞄に詰めなさい」
大事なもの、と聞いて真っ先に頭に思い浮かんだのは、ただ一人だけだった。
「ランドルフに会いに行ってもいい?」
私の言葉は、パパの気に障ったらしい。パパは私を見下ろしながらとても低い声を出した。
「馬鹿なことを言うんじゃない。黙って言うことを聞きなさい」
「少しの時間でいいの。パパ、お願い」
「ジュリア! いい加減にしなさい!」
「すぐ戻ってくるから。本当よ」
私はパパの次の言葉を聞く前に、動き出していた。でもすぐに頑丈な手に腕をつかまれて、次の瞬間頬に痛みが走った。
「テオ!」
ママの悲鳴にも似た声が玄関ホールに響いた。
パパの名誉のために言っておく。私はこれ以前にも、そしてこれ以後にも、パパに手をあげられたことはない。叩かれたのはこの一度きりで、それはパパの我慢が足りなかったからじゃなくて、家族を守らなければという気持ちを、最優先した結果だった。
「ジュリア、よく聞きなさい。このままではランドルフも危ないんだ。彼のことはダニエルがなんとかすると請け負ってくれた。その善意を台無しにするような真似はしないでくれ」
ショックから立ち直れないまま、私は呆然と立ち尽くした。
「ダニエルは一緒に来ないの?」
ダニエルは私の問いに答えずに、パパに向かって「少しだけジルと話をする時間を下さい」と言った。
私はダニエルに肩を抱かれて、庭の池に移動した。今更な疑問だけど、どうして彼は、あの場所に行けば私が気を落ち着けられると分かったのだろうか。
池のふちに私を座らせて、ダニエルは丁寧に説明してくれた。自分たち家族は第三身分だから、上手く立ち回れば暴動の標的にはならないと見越していること。だけど私たち家族はそうはいかないこと。男爵家に仕えていた使用人を、保護する人間が必要になるかもしれないこと。ダニエルはできるだけ、彼らを助けるつもりでいること。男爵家の家庭教師だった経歴を持つ、ランドルフも含めて。
「助けるって、どうやって?」
「僕たち家族はこれから共和派と合流するつもりだ。仕事柄、つてが多いから何とかなる。連中の信頼を得られれば、男爵家と繋がりのあった人間を助けることもできる。ただ、時間が必要だ。だから今ランドルフに会いに行くのは得策じゃない。会いに行ったところを町の誰かに見られて、ランドルフが男爵家をかくまっていると町中に言いふらされでもしたら、あの家はおしまいだ」
私の体は震えて、自力でそれを止めることができなくなっていた。もう既に自分が、間違いを犯してしまっていることに気づいたからだ。
「どうしよう、私、ここに来る前ランドルフの家に行ったの。誰かに見られてたらどうしよう」
「今は自分のことだけ考えろ。無事国を出られるかどうかもまだ分からない。だから伯父さんは急いで準備するよう言ったんだ」
まだ痛みが残る頬に、ダニエルが触れた。私は急いで立ち上がろうとして、地面にへたり込んだ。ダニエルは落ち着かせるように、私を抱き締めて背中を叩いてくれた。
「何とか頑張ってくれ、ジル。怖いのは分かる。でもやるしかない」
踏ん張ろうとしても、しばらく無理だった。ダニエルは空気を変えようと、やけに明るい声を出した。
「ランドルフに言いたいことがあるなら、僕が代わりに伝えようか。何でもいい、言ってみて、どんなことでもいいよ」
今思い返してみると、私が何を言うか、私よりも先にダニエルは知っていたんじゃないかと、そんなふうに感じる。
「愛してると」
言いかけて、とたんに胸がぎゅっと苦しくなって、口を閉じた。
ダニエルが私の手を握った。頑張れ、勇気を出して。そう言われているような気がした。
「愛してると、伝えて」
「ああ、分かった。必ず伝える」
この瞬間、私の胸に小さな火が灯った。もう二度とこの火を消すことはできないと、本能で理解した。恐怖と喜びが心の中でごちゃ混ぜになって、溢れてしまいそうだった。




