15 排水
ある日私は、ランドルフに散歩に誘われた。それはとても自然な流れで、穀物庫の屋根で雨宿りしたときに起こった出来事なんて、本当は夢だったのではないかというくらい、私たちは互いにかけがえのない親友のように振る舞うことができた。
とても暑い日で、私は十人くらいの大人が輪になって囲めるくらいの大きさの、池のふちに座って足を水に浸していた。
ランドルフは私の隣に、私とは逆の方向を向いて座っていた。
どのような流れだったか、ランドルフから一冊の、古代語の辞書を受け取った。両手の手のひらに収まるくらいの小さな辞書だった。彼が製本した本だという。
今もこの辞書は私の手元にあるので、その形や手触りは詳細に語ることができる。装丁はランドルフらしく、華美なところがひとつもなく、かといってみすぼらしいわけでもない。表紙はとても頑丈で、艶のある山羊の革で覆ってある。緋色に染めてあって、おもて表紙にはセヴェール家の家紋が箔押しされている。全体的に洗練されていて、とても初めて製本した品には見えない。だけど少しだけ。
「歪んでる」
てっぺんから本を眺めて、私は笑った。ランドルフもつられて笑った。
「許容範囲ですよ。自分ではそう思います」
「ランドルフにも完璧にこなせないことがあったとはね。それが分かったってだけで、この本を好きになれる気がする」
「意地が悪いですね。本当に、初めてにしては悪くない出来なのに」
ランドルフの手によって作られたというだけで、私にとっては価値のある本だった。だからランドルフが「それ、差し上げます」と言ったとき、頭の中を覗かれたのかと思った。
私が身構えた理由を、ランドルフはきっと誤って解釈したのだろう。彼は苦笑して、少し沈んだ声を出した。
「安心して下さい。変な念を込めたりはしてませんから。でもまぁ、無理に受け取れとは言いません」
「そうじゃなくて、いいの? わたしがもらっても」
「最近、思ったんですよね。あなたはとても優秀な生徒だったって」
「気づくの遅くない?」
おどけて言ってみると、ランドルフはようやく明るい笑顔を取り戻してくれた。
「私がしたことのせいで、古代語に苦手意識を持って欲しくはないですから。今更何を言っても恥の上塗りになることは分かっています。ただ、家庭教師の仕事は本気でやっていたということを、分かってもらいたくて。だからこれはいわば、師匠から弟子への、はなむけのようなものです」
はなむけ、とランドルフが言った瞬間、私の胸はズキリと痛んだ。それをごまかすために、わざと不真面目にへらへらと笑ってみせた。
「わたしはもともと古代語が苦手なのよ。大体、古代語が苦手じゃない人なんて、数えるほどもいないわ。何の役に立つわけでもないし」
私の意をランドルフは汲んでくれた。真剣な空気をひっこめて、わざとらしく厳しい表情を作る。
「役に立たないなんて、とんでもない。古代語を話すことができればどの町でも、どの国でも、神父様に一目置いてもらえるんですから」
「聖職者が古代語を話せるくらいで信者を区別したりしないでしょ?」
私の言葉を聞いて、ランドルフは変な顔をした。それは私が世間を知らないせいで見当違いなことを言ったときに、周りがよくする顔だった。
「お嬢様、お気をつけ下さい。聖職者だから善人であるとは限りませんよ。彼らは私たちが考える以上に政治的で、教区をめぐる派閥争いは日常茶飯事です。時には子供のような態度をとることもあります。だから侮られないよう、我々も知恵をつけなければなりません」
「だからランドルフは古代語を勉強したの?」
ランドルフは真剣だった表情を、ふと緩めた。
「いえ、私は単純に古代語が好きなんです。とても美しい言葉でしょう。いっそ芸術的だと思います」
「そうかなぁ。他にも綺麗な言語はたくさんあると思うけど」
「古代語こそ、今我々が話している言葉の源流なんです。そう考えると、古代語を話すことで時空を越えているような気分になりませんか? 私はこんなに素晴らしい体験は、他にないと思います」
ランドルフは古代語のこととなるといつも、こんなふうに熱くなる。私はそれがとても嬉しい。
「そういう背景も含めて、古代語を美しいと思うわけね」
「ええ、そうです。あなたみたいに」
ランドルフはそう言ってすぐに、しまった、という顔をして口をつぐんだ。
誤解のないように言っておくと、ランドルフは私の反応を試すためにわざとそう言ったわけじゃない。
あれは例えるなら、仲間内でしか通じないジョークを、つい初対面の相手に向けて言ってしまったというような感じだった。
すみません、とランドルフはすぐに謝った。私が何か答える前に、彼は素早く立ち上がった。
「また余計なことを言う前に、帰ります」
私は慌てて池から足を出して、裸足のまま敷石に降り立った。
「あの、これ、ありがとう」
「迷惑なら持って帰ります。やっぱり変ですよね、こんなの」
「そんなことない。きっとわたし、古代語を好きになるわ。絶対にそう。絶対にそうなる」
強ばっていたランドルフの表情が、少しだけ和らいだ。
彼は私の方に半歩足を踏み出して、近づいてきた。私は一秒あとに、それが挨拶のキスをするための動作だったということに気づいた。
タイミングが合わなくて、別れのキスが上手くいかなかった。ランドルフはすぐに諦めたけど、私は食い下がった。
「ランドルフ」
「いえ、いいんです。大丈夫だから、本当に」
ランドルフは私のどこにも触れないまま、逃げるように去っていった。私はすがる思いで、ランドルフがくれた辞書を胸に抱いた。初夏だというのにひどく暑かった。胸の奥からじりじりと、焦げ付くようだった。
◇◇◇
あの影のことを、ランドルフに話そう。
私はバスタブをスポンジで磨きながら、そう決心していた。
でも、とすぐに弱気が顔を出した。
ランドルフからしてみれば、うんざりするような話だ。一度拒んでおきながら、再び気のある素振りをする。それも、影が見えるだなんてわけのわからない話と一緒に。
でも、彼なら信じてくれるような気もしていた。私よりもずっといろんなことを知っているランドルフなら、もしかしたら、黒い影の正体に心当たりがあるかもしれないと、期待する気持ちもあった。
だけど結局は、元の問題に突き当たるのだ。ランドルフが影のことを信じてくれたとして、影が再び現れた場合の解決策があるとは限らない。たとえあったとして、一緒になれるわけじゃない。
ランドルフは全てを捨てる覚悟があるなんて言っていたけど、私たちにどれだけ覚悟があったって、どうなるものでもなかった。パパが町の法であり、支配者である限り、町の外に出ることすらできないことは分かっていた。
そして私は、あんなことがあったのに私と一緒に生きていくことを決意してくれたダニエルを、再び傷つけるようなことはとてもじゃないけどできなかった。今度傷つけたら彼は二度と立ち直れないかもしれない。ダニエルがそんなふうになることを考えると胸が押し潰されるようだった。
私は頭の中でずっと、こんな堂々巡りを繰り返した。そして最終的に気づいてしまったのだ。結局は、私がこの気持ちを無かったことにすれば、ランドルフもダニエルも男爵家も、誰も危険を冒す必要なく平穏に暮らしていけるということに。




