12 涙
床に倒れたエリクに、ランドルフは馬乗りになった。次に彼が何をするか、あの時、あの場所に居合わせれば誰だって瞬時に察することができただろう。ジャンは慌ててランドルフの背後に回って、彼のわきに両腕を差し込んで自由に動けないようにした。
「やめろって! ランディ、どうしたってんだ!」
「まさかお前らがここまで馬鹿だとは思わなかった! 気の利いたジョークでも言ったつもりか? 全然笑えねぇんだよ!」
台所でお茶を入れていたはずのお姉さんが、何故か二階から降りてきた。彼女は顔中に何かの果物をスライスしたものを貼った状態で、器用に顔をしかめた。
「ちょっと、何の騒ぎ?」
「知らねぇよ。ランディが急に」
ランドルフはジャンの腕を振り払って立ち上がった。それから椅子に座ったまま呆然としていた私の方に、怖い顔で近づいてきた。
「どういうつもりか存じませんが、お帰りください。力ずくでとおっしゃるなら本当にそうしますよ」
私はぽかんと口を開けたまま、急いで何度も頷いて立ち上がった。礼儀として別れの挨拶をするべきかどうか迷っているうちに、ランドルフに手首をつかまれて玄関まで引っ張られた。
「待ちなさい! ランドルフ!」
お姉さんの声を無視してランドルフは乱暴に扉を開けた。てっきり私を放り出すためにそうしたのかと思ったけど、彼は家の外に出たあとも私の手首をつかんだまま、引き返すことなくまっすぐ歩き続けた。
まさかこのまま屋敷まで歩き続けるつもりかと、私は冷や汗をかいた。でも声をかける勇気が出なかった。ランドルフはとても怒っていた。それは、彼がつかんでいた私の左手から十二分に伝わってきた。
どれくらい歩いただろうか。無言で進み続けていると、ポツリと顔にしずくが当たった。雨だった。最初は無視できるくらいの雨脚だったけど、だんだん強くなっていって、最終的に本格的な雨になった。
今はもう使われていない古びた穀物庫の、屋根が張り出している部分に慌てて駆け込んで、二人で雨宿りすることになった。
雨のにおいが、混乱した頭を落ち着けるのにずいぶんと役立った。
「申し訳ありません」
雨の音の中に溶けていってしまいそうなくらい小さな声で、ランドルフが呟いた。
「寒くありませんか? 申し訳ありません、ショールを忘れて」
「いいの、平気」
無駄に張りのある声を出してしまった。ちゃんと雨の中でも聞こえるようにと思っただけなのに、怒っていると誤解されるような返事の仕方になってしまったことが、どうしてかとても気になった。
「これ、違うと思う」
私はランドルフが握ったままの自分の手首を持ち上げて、彼の手に向かって語りかけるみたいに言った。ランドルフは難しい迷路に迷い込んだかのような顔をしていた。どちらに進むのが正しいのか、とんと分からない、という顔。
「手はこうやって繋ぐんじゃないと思う。先生ならちゃんとしてくれなくちゃ。そうでしょ?」
ランドルフは探り探りといった動きで、私の手首から手を離し、次に私の手のひらに、自分の手のひらを重ね合わせた。
私は彼の手を迷わず握った。彼の腕が強ばるのが分かった。
それが私の中で、合図になった。鞭で打たれた馬が駆け出すみたいに、私は勢い込んで説教がましい口調で文句を言った。
私はランドルフが考えているほど、つまらない人間じゃない。ジャンとエリクと楽しい会話をすることなんて楽勝だったし、ダニエルを楽しませることだってやろうと思えばできるし、ランドルフが想像もしないような経験をいくつもしていると。
小説やお芝居で知った男女のあれこれについて、まるで自分が体験したことのように組み立て直して、ランドルフに話して聞かせた。よく考えれば私よりも経験のあるランドルフが、私の話がいかにもフィクションの中でしか起こりえないような、陳腐なエピソードであることに、気づかないわけがなかったのに。
ひっきりなしに話し続ける私を見るランドルフの目は、痛ましい光景を見るときのそれだった。
同情するような彼の表情を認めた瞬間、涙が溢れてきた。
喉が詰まって、とうとう言葉が途切れた。
「申し訳ありません」
今度ははっきりとした声で、ランドルフが言った。
「あの日、あんなことを言ってしまって。ずっと後悔していました。あれは私の問題で、あなたの問題ではないことをどうか分かって下さい」
この瞬間が最大のチャンスだった。女遊びをやめるよう説得する最大のチャンスだったのに、私の口から出てきたのはどうしようもなく利己的な願望だった。
「戻ってきて」
ランドルフは私の言葉を軽い冗談だったことにしようと、不自然なくらい明るい声を出した。
「もう別の家庭教師を雇ったんでしょう? 確か、マルクさんでしたっけ。あの人は私よりも古代語が流暢ですよ」
「あの人苦手。だって聖典を古代語で暗唱させたり、神を信じることがどれだけ重要か古代語で作文を書かせたり、宗教裁判の公正さについて古代語で議論させたりするんだもの」
「ああ、まぁ、信心深い人ですからね」
ランドルフは私の頬に伝う涙を、指先で慎重にぬぐった。そうされると、何がなんでも泣き止んでやるものかという反骨精神のようなものが胸に湧いてきた。
「ランドルフの授業の方が面白かった。ランドルフの授業の方が好き。わたしは、ランドルフの方が好きなの」
「私は、あなたを愛しています」
あとにも先にも、このときほど私の頭が素早く働いたことはない。ランドルフの言葉の意外性に驚くことは後回しだった。ママに困った質問を投げ掛けられたとき、料理を咀嚼して時間を稼いだみたいに、まつげに引っ掛かったままの涙を無意味にぬぐった。
笑い飛ばして冗談だったことにするか、それとも困った顔をして、ランドルフがこの場を何とかしてくれるのを待つか、それとも雨の音のせいで、聞こえなかったことにするか。
高速で回転する私の頭の中を覗けないランドルフは、もう取り返しがつかないと思ったらしい。死刑執行前夜の死刑囚のように、包み隠すことのない言葉をポロポロと吐き出した。
「あれ以上は続けられません。いくらあなたの頼みでも、もうあの部屋には戻れない。ただ、覚悟はあります」
ランドルフの手に力がこもった。その時にはもう、私は今まで自分がどんなふうに呼吸していたのか、正しいやり方を思い出せなくなっていた。
「もし、もしほんの少しでも私を想う気持ちがあるなら、教えて下さい。全てを捨てる覚悟があります。だから、お嬢様。教えて下さい。どんな答えでも、私は受け止められます」
こんなとき、迷う素振りを見せることは命取りだ。なぜなら待つ方と待たせる方とでは、時間の流れる速さが違うから。
屋根と地面を叩く雨の音だけが私の生命線だった。雨を見つめることに忙しい、というフリをする私の視界を、ランドルフが無情にも遮った。彼は私の正面に立って、私の心と視界を余すところなく占領した。
「ジュリア、俺を見て」
最後の抵抗で、ぎゅっと目を閉じた。
頬に何かが触れた。ええ、もちろん、彼の手だということは分かっていた。
「俺の目を。ジル、頼む。好きなんだ。俺を見て、俺だけを」
息が詰まる距離まで彼の何もかもが迫っていた。藁にもすがる思いで、繋いでいる手を強く握った。唇に何かが触れた。彼の唇だということはもちろん、分かっていた。




