10 雲粒
私は、あの出来事から一週間くらいは、ランドルフはきっと戻ってくるはずだと信じていた。彼は少し機嫌が悪かっただけなんだって。だからランドルフとの間に起こったことを誰にも口外しなかったし、マリーにもそうするよう命じた。マリーは渋っていたけど、最終的には了承してくれた。彼女だってランドルフのそれまでの働きぶりを近くで見ていたのだ。たった一度の口論で、それまで積み上げてきたものを無かったことにはできない。そう思う気持ちも、あったに違いない。
私の期待に反して、ランドルフが再び男爵家の屋敷を訪れることは二度と無かった。ランドルフは自分からパパに、家庭教師を辞めることを願い出た。製本の仕事を父親から本格的に教わることにしたのだと言って。
パパもママもランドルフを引き止めた。だけどランドルフの意志は固かった。
新しい家庭教師がやってきて、ランドルフと会える機会を完全に失ってもまだ、私はランドルフを救うことを諦めていなかった。
もうこの際、どれだけ嫌われたって構わない。何としてでも女遊びをやめさせなければ、彼はあの影に飲み込まれてしまう。私の思い込みはランドルフに会えない日々が続くにしたがって、どんどん激しくなっていった。
私の不安に呼応するように、世の中がざわめき始めた。
首都で開催された、第一、第二、第三身分の代表が集まり、特権階級への課税の是非を問う話し合いは、一か月以上も平行線をたどっていた。終わりの見えない話し合いの末に、税を払うことを渋る特権階級にしびれを切らした第三身分が、自分たちだけの議会を発足した。
国王がこの、第三身分の議会を正式な議会として認めたことで、特権階級は危機感を抱いた。第三身分を主導とした改革により、自分たちの権威が奪われてしまうのではないかと警戒したのだ。特権階級は、第三身分の議会を牽制するために、首都に軍隊を配備し始めた。
この情報はダニエルのお父さんである印刷業を営む叔父さんが、知り合いの商人から仕入れた話だった。
首都に兵が集まっているという情報が我が家にもたらされた日、セヴェール家は緊急の親族会議を開いた。
「騒ぎが収まるまで使用人に、長期の休暇を与えるべきです。残らず全員。もちろん、まとまった金を渡したうえで」
ダニエルの考えには全員が難色を示した。叔父さんがたしなめるような声で言った。
「いくらなんでもそれはやり過ぎじゃないか。この町に革命家なんていないだろう」
「暴動は始まれば一瞬だよ、父さん。誰がどこで何を企んでいるか、予測するなんて不可能だ。よその町ではもう騒ぎが起こってるって話だし、使用人がいなくても不便に殺されることはないけど、町の人間に襲撃されたらちょっとした怪我を負うくらいじゃ絶対に終わらない。長く勤めた使用人だって今は信用できない。一人残らず警戒すべきだ」
私はダニエルの言うことが正しいと思った。ダニエルは町の様子を誰よりもよく知っていたから、彼が暴動の可能性があると言うのなら、その通りなんだと思えた。だから私は、ダニエルの言う通りにするべきだと思うと一応表明しておいた。だけどやっぱり、パパたちは渋っていた。
結局、パパと叔父さんとダニエルが首都の様子を実際にその目で確認してから、諸々のことを判断する、ということになった。三人が首都に行っている間、私とママとおばあさま、それから叔母さんは、男爵家の別邸に身を隠すことになった。
別邸に移動する前日。私はランドルフに会って、最後の説得をするつもりでいた。
とにかく、女遊びをやめさせなければ彼は危険なのだ。それさえやめさせれば、あの影は消えてくれるという希望を私は持っていた。
借りていた本を返したいのだと言って、パパに馬車を使うことを許してもらった。
マリーを連れて、ランドルフの家へと向かった。ランドルフの家へ行くのは初めてだった。おまけに彼と会うのは、ほとんど一か月ぶりだった。収穫祭の日にちらりと顔を見たけど、彼はあからさまに私を避けていた。あんなふうに拒絶されるのはずいぶん応えるものだ。顔を合わせたら何を言うべきか、まるでお芝居の台詞を練習をするみたいに何度も何度も頭の中で繰り返し考え続けた。
ランドルフの家は工場を持っているとダニエルが言っていたから、私はランドルフの家は人が百人くらい住めるくらい広いのだと勝手に想像していた。実際は、工場というより、小屋みたいだった。人は多分、百人も住めないと思う。頑張れば十数人同居できるかな、というくらい。
ランドルフにすぐに追い返されないためにも、怖じ気づいて諦めてしまわないためにも、マリーに適当な用事を頼んで数時間だけ馬車ごとその場を離れてもらい、退路を断った。ブックバンドでまとめた五冊の本を抱えてランドルフの家の前に立った。途端、予想していた通り極度の緊張に見舞われた。
別にランドルフを説得するのは今日じゃなくてもいいかなぁと、弱気が顔を出した。考えてみれば手紙を送るという手段もあったわけだし、正面からぶつかる必要はない、こともない、かもしれない。
何もこんなに正々堂々とした説得をする必要はないんじゃないか、と私の心はどんどん、ランドルフと対面する恐怖に押し負けていった。
扉の前でうだうだしていたら、家の中から男女が言い争う声が聞こえてきた。
「全く、この不景気に自分から仕事を辞める人間なんて国中探したってあんたくらいよ」
「うるせぇな、毎日毎日。あと何回同じこと言えば気がすむんだよ。ノルマでもあんのか」
「すまないわよ。あんたが自分の食いぶち稼ぐようになるまではね!」
「この不景気に新しい仕事なんてそうそう見つかるわけねぇだろ」
「だから馬鹿だって言ってんの! こうなったら金持ちの女でも引っかけて食わせてもらいな!」
言い争う男女の男の方は、ランドルフのようだった。それでもあまりにも口調がくだけていたから、しばらくは全く知らない他人の声を聞いているみたいな気分だった。
「無茶言ってやるなよイザベル。ランディの価値は家庭教師を辞めてから右肩下がりなんだ」
「そうそう、兄貴のアレも不景気まっしぐら」
「パンにありつくのにも一苦労」
「苺の乗ったケーキなんて、とてもとても」
「うるせぇよ」
やっぱり帰ろう、という方向に私の意思は固まった。本だけ扉の前に置いて、あとで手紙を書けば問題ないだろう。そう考えて、しばらく放置されてもなるべく本が汚れないような場所を探していたとき。
「ああ分かったよ! 稼げば文句ないんだろ! 稼いできてやるよ今すぐにな!」
「盗みだけはするんじゃないよ」
「するわけねぇだろ。俺は姉貴とは頭の出来が違うんだよ」
ご、と鈍い音が響いた。と同時に、言い争いが止んだ。あのときは本気で、ランドルフが姉に殴り殺されたのだと思った。
半ばパニックになりながらドアノブをつかもうかどうか悩んでいるうちに、玄関扉が開いた。
「痛ってぇ」
後頭部を押さえたランドルフが扉の向こうから現れた。目が合った瞬間、ランドルフは数回瞬きして、勢いよく扉を閉めた。それから、再び勢いよく扉を開いて、私のことを凝視した。
「え、道に迷ったんですか?」
あんなに動揺しているランドルフを見たのは、生まれて初めてだった。




