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9 結露

 ある日の夕食後。私はダニエルとトランプで遊んでいた。記憶が確かなら、私はこのとき良い手札を持っていたと思う。でもダニエルが何気なく口にした話題によって、私の勝負に対する意欲は一瞬にして消失した。ダニエルは言った。ランドルフが最近、荒れているみたいだと。


「荒れるって、どんなふうに?」


 ダニエルはちょっと困った顔をして、少し離れた場所でお酒を飲んでいるパパとママに聞こえないよう、声を潜めた。


「女をとっかえひっかえして遊んでるみたいだ。らしくないよな。何ていうか、やけになってるって感じで。痛々しくてちょっと、見てらんないくらい」


 私はダニエルの話をすぐには信じられなかった。だって授業で会うランドルフは変わらず真面目で、女遊びにうつつを抜かしているようにはとても見えなかったから。一日だけ例外の日があったけど、あれ以降は、むしろ以前にも増して隙がなかったといえる。あの、薔薇の香りをまとっていた日以降、ランドルフは常に完璧だった。


 だけどダニエルが嘘をつく理由もなかった。それにあの頃、ダニエルの方が断然、私よりも世の中のことや町の様子をよく知っていた。


 そしてよく考えてみれば、私にも一つ心当たりがあった。ランドルフの背後にある影が会うたびに色濃くなっていることは、彼がやけを起こしていたことと無関係ではなかったのかもしれない。


 そんなふうに思えたから、嫉妬よりも不安が先立った。


「女をとっかえひっかえしたせいで死んじゃうことってあるの?」


 私がこんな質問をするわけを知らないダニエルは、奇妙なものを見るような目で私を見た。


「さぁ。気づかないうちに誰かの恨みを買って、そのせいで殺されるって話はあるかもしれないけど」


 このとき私は、完全に思い込んでしまった。ランドルフの背後に影が現れた理由は、誰かに恨まれていて、その人に殺されてしまうからなんだって。


 以前ダニエルが言っていた、ランドルフが彼女と別れたというエピソードがきっと事の発端なのだ。ランドルフはまだ彼女の事が好きで、その気持ちをごまかすために誰かれ構わず手を出した。そして手を出した女のうちの誰か、あるいはその女の恋人か、夫か、とにかく誰かの恨みをランドルフは買ってしまったのだ。


「ジル? 大丈夫か?」


 ダニエルの怪訝な視線に、私の思い込みを正すような効果はなかった。私はランドルフを救う方法に考えを巡らせた。まだ間に合う。きっと救える。ランドルフはまだ、生きているんだから。このとき私の頭の中は、ランドルフを救うための算段でいっぱいになっていた。


◇◇◇


 授業の日。相変わらずランドルフは私の前では普通だった。荒れている素振りなんて少しも見せなかった。だけど彼の背中に張りついている影は、彼に危険が迫っていることを示していた。


 気持ちのいい午後で、しきりに鳥が鳴いていた。


 話があるの、と切り出すと、ランドルフはしばらく返事をしなかった。水差しを手にとってコップに水を入れて、それを口に含んでから、すっかり暑くなりましたね、と呟いた。まるで私の声なんて聞こえなかったかのように。


 私は彼の横顔を見つめていたけど、彼はコップの中身を見つめていた。さも、コップの中身を見つめることには私では考えもつかないような、深い理由があるんだとでもいうみたいな態度で。


「ダニエルに」


 言いかけて、次にどんな言葉を続ける予定だったか一瞬忘れてしまった。私がダニエルの名前を口にした瞬間、ランドルフが何かに備えるみたいに表情を強ばらせたからだ。


 私はふと思った。考えたこともなかったけど、ランドルフはダニエルが怖いのだろうかと。ダニエルは未来の領主だし、ランドルフが父親の仕事を継いで製本師になれば、彼はダニエルに仕えることになるのだから、気のおけない間柄とはいかないだろうって。そんなふうに考えて、今までの自分の配慮のなさに嫌気がさした。


 私は少しもランドルフのことを分かっていなかった。


「最近あなたが荒れてるって話を聞いたの。人から聞いた話だから、直接あなたに本当のことを教えてもらいたくて。今、何か問題を抱えてるの?」


 上手い切り出し方だったと思う。その話はただの噂で全く心当たりがありませんと、彼が笑い飛ばしながら言い逃れできるような、上手い切り出し方だと私は思っていた。


 でもランドルフは、ごまかしも言い逃れも潔いほどあっさりと諦めた。それの何が問題なんですか、とでも言うみたいに肩をすくめて。


「荒れてるって、ひどい言いぐさですね。私はただ人生を楽しんでるだけなのに。庶民は娯楽が少ないものですから」


 ここが運命の分かれ目だったと思う。この瞬間、ランドルフは私に対して自分を偽ることをやめた。私の質問が、彼の何かを決壊させたのだ。なみなみと注がれた水がコップのふちのところでギリギリ留まっていたのに、私が一滴のしずくを落としたせいで、彼が隠していた何かがあふれ出てしまった。


 言葉を失う私を見て、ランドルフは蔑むように鼻で笑った。


「本当のことを知りたいとおっしゃるなら、どんな風に私が日々楽しんでいるか教えて差し上げますよ」


 自分でも信じられなかったけど、このときは本当にランドルフのことが怖かった。閉じ込めて欲しいと願って止まなかった茶色の瞳が、私を捕らえていたというのに、逃げ出したくてたまらなかった。


 でも逃げるわけにはいかなかった。彼に危険が迫っていることを知っていたのは私だけだったし、それを信じてもらうことだってきっと簡単にはいかないと分かっていたから。私が何とかしなければ。それができなければ、生きる意味を失ってしまうと本気で思っていたから。


「ダニエルさんも感謝して下さるでしょう。好きでもない相手と結婚させられるうえに、その相手が板の上に乗っているだけの魚では、あまりに気の毒すぎますからね」


 言いながらランドルフは私の腕をつかんだ。別に乱暴な手つきでは無かったし、つかんだ腕をこのあとどうにかするというような意思は全く感じられなかった。まるで義務感でとりあえずつかんだ、というような感じだった。それをちゃんと察していたのに、私の体はすみからすみまで強ばって指一本動かせなくなっていた。


「先生!」


 部屋の端に控えていた侍女のマリーが、叱りつけるように叫んだ。


「旦那様に報告いたします。お引き取りください、今すぐに」


 有無を言わさぬ気迫で、マリーはランドルフに詰め寄った。ランドルフはマリーの言葉を聞き終わる前に私の腕を離して、立ち上がっていた。


「残念だ。割りのいい仕事だったのに」


 恐ろしいほど冷たい声で呟いたあと、ランドルフは扉の方へ歩き出した。私はその背中を急いで呼び止めた。


「待って!」


 ランドルフは一応、立ち止まってはくれたものの、振り向いてはくれなかった。私は早足でランドルフの正面に回った。


 ランドルフはなんだか、怯えているように見えた。


「やめて欲しいの」

「言われなくても、もう来ません」

「違う。あなたの言う、庶民の娯楽っていうのをやめて欲しいの」


 ランドルフは絶句していた。しばらく間をおいたあと、呆れ返ったような声で言った。


「お嬢様。私はあなたのお人形ではありませんよ」

「そんなこと分かってる」

「私が誰と何をしようが、あなたには関係のないことです」

「あるわ」


 確信を持って告げると、ランドルフは険しく寄せていた眉根をふっとゆるめた。


「どうして?」


 すがるような声が気にかかった。彼はさっきから、何をそんなに怯えているのだろうかと、疑問が頭に浮かんだ。だけどこのときの私にはランドルフの心の底を暴く余裕なんてなかった。


「どうしてもやめて欲しいの。もしそうしてくれるなら今日のことはパパに黙っておくから」

「お嬢様」


 マリーがたしなめるように声を上げた。ランドルフは口元に冷笑を浮かべていた。


「そんなことはして頂かなくて結構です」

「でも」

「もうたくさんだ」


 独り言みたいに呟いて、ランドルフは制止も聞かずに部屋を出ていった。彼の飲みかけの水が入ったコップが、机の上で寂しそうに佇んでいた。

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