第99話 捕らわれた時間
夕陽が地平線に頭を垂れる頃、ロックは、ハタツミから続く街道を歩いていた。
霧に包まれた大都市を背に、遙か前方はゼルカトリアの陣地が広がる。
ポツポツとたき火の明かりが浮き上がり始めたその陣地を見つめていたロックは、それらより遙かに手前にある1人の人影に気付いた。
ドルフの証であるまだら髪、狩猟部隊の所属を示す黒い外套、そして、頬から首筋へとかかった傷跡。
なじみ深いその顔に、ロックは小さく息を吸い込んだ。
「ブランドン……」
なぜ彼がここにいるのか、一瞬理解できなかったロック。
しかしその疑問は、ブランドンの長靴に付いた土汚れを見付けた瞬間、1つの確信と後悔に変わった。
探し回ったのだ、この、地雷原の中を。
そして、ロックの意思を尊重した彼が探し回ったと考えられる人物など1人しかいない。
立ち尽くすロックに、ブランドンは落ち着いた様子で問いかけた。
「隊長……あんたは……そういうことなんですね」
同意を求めるその問い。
ロックの答えはたった一言でいい。
「……ああ」
絞り出したその声は、ひどくしわがれた、聞くに堪えないものだった。
――
静寂に響く、砂利を踏む長靴の靴音。
共に歩くロックとブランドンの間に会話はなかった。
当然だ、互いに掛ける言葉など、あるはずがないのだから。
どうしようもないのだ。
死ぬはずだったロックが戻り、代わりにフランが捕らわれた。
最初から詰んでいた勝負の、犠牲となる者が入れ替わっただけなのだ。
救う手立ても、望みもない。
いや、ただ1つ。
「これからどうするんですか?」
不意にそう問いかけたブランドンに、ロックはしばし、言葉を選んだ。
「……どうもこうもない、これまでと一緒だ」
ただ、再び口を開いたとき、ロックの言葉は、理性からなる理屈に基づいたものになった。
「部隊の為に全力を尽くす、そのためなら多少の犠牲は……仕方ないだろ」
一瞬言葉に詰まったロックに、ブランドンは数秒の間を置いて問いかけた。
「本当にそれでいいんですか?」
問いの意図が分からず、黙り込んだロック。
ブランドンは、それを言葉にするのか迷うような素振りを見せた後、決心したように口を開いた。
「副隊長は、隊長を特別大切に想っている」
「なんだと?」
立ち止まったロックに、ブランドンは振り返って薄い笑みを浮かべた。
「分かりますよ、今思えばって感じですけどね」
こんな時に何を言うのか。
ロックは、不意に覚えた苛立ちを飲み込むように声を上げた。
「お前達は……あいつのことが気に食わなかったんじゃないのか」
今更な問いだった。
フランを探すために、ブランドンは死と隣り合わせの地雷原を駆けずり回ったのだ。
普通に考えて、憎む相手にそんなことをするはずがないのは当然である。
そして、そんなわかりきったことを判断できない程度には、ロックは動揺していた。
「信用……してないはずだったんですけどね」
自嘲的な笑みを浮かべたブランドンは、一転して、奥歯をかみしめるように顔を歪ませた。
「でも、俺たちは、あの人に借りがあるんですよ」
「あの夜、あの人は俺達を逃がすために命を懸けた」
ブランドンの目に浮かぶ怒りと後悔。
何も言わずその目を見つめ返すロックに、ブランドンは感情を抑えた声音で語った。
「俺たちに足止めを任せ、副隊長が応援を呼びに行く、それでもよかった、むしろあの時は、その方が確実だったはずです」
一拍の間を置き、鋭く息を吸い込んだブランドン。
続けられた言葉は、抑えきれない後悔に満ちていた。
「何を考えているのか分からない人だが、少なくともあの時、副隊長は俺たちを生かすために全力を賭した。いや、もしかしたら俺が気付いていないだけで、あの人はずっと……いつだって馬鹿正直に……」
かすれるように途切れたその言葉に、ロックはただ浅く呼吸を繰り返すことしかできなかった。
動揺し、混乱し、何もできず帰ってきて、あげく部下の言葉に初めて気付かされる。
自分でも気付かないうちに、ロックはフランに対して引いた線を守り続けていたのだ。
クレルによって連れてこられたフランは、当初、間違いなく客人にすぎなかった。
ドルフの部隊に連れてこられた人間、混じるはずもない水と油。
副隊長としてよこされた彼女に仕事を教え、時が来れば別離する。
そういうものと決めつけていたロックは、フランの考えにかかわらず、踏み込もうとしなかったのだ。
彼女の本質を見ようとしなかった自分の浅はかさに、ロックは頭を抱えた。
分かっていれば、気付いていれば、もっとやりようはあったはずだ。
一言でも、1歩でも、ロックが彼女を理解しようとしていれば、こんな事態を招かずにすんでいたはずだ。
フランと、最も近くで行動を共にしていながら、真っ向から反目し、敵視してきたはずのブランドンよりもロックは彼女の事を理解できていなかった。
人間とドルフ。それに捕らわれていたのは、他でもないロック自身だったのだ。
呆然と立ち尽くしたロック。
考えれば考える程に湧き出す後悔に苛まれるロックに、ブランドンは皮肉な笑みを浮かべ、小さく肩をすくめておどけて見せた。
「馬鹿げてると思いますよ、人間なんかの為に命を賭けるなんて」
その言葉はブランドンがロックに対し、精一杯気を遣ってかけた慰めの言葉だった。
仕方のない偏見。
迫害され続けたドルフと人間族の間には、やはりどうしようもない確執がある。
「でも、あの人だけは救ってやりたい。俺たちは、そう思ったんです」
その上で、フランだけは違うと、ブランドンは主張するのだ。
「頼みます、隊長。あんたなら、あの人を救えるはずだ」
その時、ブランドンの目に浮かんだ、すがるような光に、ロックは自分が隊長であるということを強く再認識した。
隊を導かねばならないロックが、この有様でどうするというのか。
そう思うとき、ロックの脳裏に浮かぶのは、最後の時まで冷静だったクレルの姿である。
「悪い、ちょっと動揺しすぎていたな」
深くため息をつき、眉間を強く抑えたロック。
再び顔を上げたとき、彼の表情は随分ましなものになっていた。
「任せろ、後の事は俺が決める」
ロックの言葉に1つ頷いたブランドンは、振り返り、たき火とかがり火の光に彩られた陣地に向かって早足で歩き始めた。
その後ろ姿を見つめつつ、ロックは再び深いため息をつく。
堂々と言い放って見たものの、どれ程冷静に考えた所で打つ手がないことに変わりはなかった。
フランの意思を尊重するならば、部隊を守るために軍を退かせるべきだろう。
しかし、そのために司令部を納得させるだけの力は、ロックにはない
フランを救い出すならば、敵地に乗り込み、その身柄を回収するしかない。
しかし、あの男の待ち構える領域に踏み込んだ時点で、勝算はない。
あるいは。
「クソ……どうすりゃ良いんだ」
3度目の、今度は力ないため息と共に、見上げた空の先では森の奥に沈む太陽が、ついにその最後の一欠片を地平の向こうに隠したところであった。
凍えるような風に首を縮め、ポケットに手を入れたロックは、指先に触れた堅い感触に奥歯を強くかみしめた。




