第77話 自分の中に残る物
その感覚は、発作の類に近いものだろう。
急激に早まった鼓動が頭の中に響き、目の前の景色が戦場のそれにすり替わる。
戦場の只中に立ったセナは、ふらつく感覚を抑えて顔を上げる。
目の前にぽっかりと開いた暗闇に形は無い。しかし、セナにはそれが何なのか、直感的に理解できた。
命、これまで彼女が奪ってきた、幾つもの命。
それを目にした瞬間、胸の内から湧き上がる得体の知れない衝動に、セナは崩れ落ちるように膝をついた。
意識を保つだけで精一杯の衝動に、セナは進む事も逃げる事もできず、徐々に広がってくる暗闇を見開いた瞳で見つめる。
その時、赤黒く染まった視界の中で、暗闇の中から何本も黒い触手のようなものが飛び出す。
空中で蠢く触手は、セナの腕に触れるとぴたりと動きを止め、次の瞬間弾かれたように彼女の両腕に巻きつく。
反射的に身を引こうとしたセナは、自身の腕に伝わる予想外の感触に視線を向ける。
触手は温かい人間の腕になっていた。
「落ち着けよ」
聞き慣れたその声に、セナは心の底から安堵した。
瞬間、鉄と血の臭いに満ちた暗闇の中に、淡い光が生まれる。
2本の腕は暗闇に飲み込まれかけたセナの意識を繋ぎとめ、その光の中へと引き上げる。
酒の並ぶ棚と丸机と椅子、そして自分が腰掛ける簡素なベッド。
光を抜けた先にあった、普段と何も変わらない自分の部屋の中で、セナは自身の腕から手を離したコウに視線を向ける。
緑色の生地を張り合わせた派手なコートに身を包んだコウは、ニヤついた笑みを浮かべたまま、ゆっくりと口を開く。
「まあ、お前がどう考えるかは勝手だけどな」
どこか聞き覚えのあるその言葉。
それに続く言葉を思い出した時、セナの体は、震え上がるような恐怖に縛り付けられた。
『殺された奴からすれば、どんな大義名分を並べたところでただの人殺しだ』
——
剥き出しの屋根板と、窓から覗く霧に包まれた白い空。
そこが、今度こそ現実の自身の部屋の中であるという確信が持てるまで、セナは少々の時間を要した。
「⋯⋯はぁ」
強張った全身から力を抜き、喉の奥に詰まった固く熱い空気を吐き出す。
夜戦から5日、何度も繰り返した悪夢に、セナは
(はぁ、あたしってほんとに⋯⋯どうしようもないわね)
自嘲的なため息と共に、セナは再び瞳を閉じ、思考の深みに沈み込んだ。
——
『あたしにとって、価値があるものは自分の命だけだった』
「その価値も、死ぬって最後があるから感じる、1と0の差みたいなくだらないもの」
『それでも、そのちっぽけな差をかけて殺し合うことが、あたしには何よりも楽しかった』
「国も、王様も、あたしが戦えるから使っていただけ、それ以上の価値なんて認めちゃいないし、戦えなくなれば捨てられて終わり」
『利用される事はあっても、助けてくれる事はない』
「だからこそ、あたしはこれまで、真面目くさって命の尊さを語る思想家たちの言葉を『くだらない』の一言で否定する事ができた」
『でも、あいつは違った』
「城で、死んでたはずのあたしはあいつに救われた」
『森の中で、あいつは命まで懸けてあたしを助けた』
『だから、あいつの言葉を否定出来ないのかしら?』
「違う、それだけじゃない」
『あたしは気づいてた、殺してきた奴らが、あたしの知らない表情をしてた事に』
「あたしには、自分の命1つしかなかった」
『でも、あたしが殺してきた奴らはそれ以上のものを幾つも背負ってた』
「それを、おんなじ秤にかけて奪い合う事の、何が公平なの?」
『自分の孤独を他人にも押し付けて、勝ったつもりになってただけじゃないの?』
「⋯⋯ううん」
「それでも、あたしにとってはそれが全てだった」
「ねぇ」
「あたしから殺し合いを取ったら、何が残るの?」
——
再びセナが体を起こしたのは、汗ばんだ体に張り付く冷たいブラウスが、いい加減うっとおしくなったからだ。
乱暴に脱いだブラウスを放り投げ、窓辺に置かれた小さな手ぬぐいで汗を拭き取る。
腕、腹、胸、そして背中。
手ぬぐいの上から手を這わせた自分の肉体はあまりにも貧相で、セナは呆れたようなため息を漏らした。
(あたしって⋯⋯こんなに細かったのね)
絶えず感じてきた、自分という存在が空虚な幻であるような感覚。
それがコウの言葉によって打ち砕かれ、重い現実感と共に彼女にのしかかってきたその時、セナは自身の異常さを生々しく認識した。
「⋯⋯人殺しは⋯⋯悪い事⋯⋯」
ただ一言、口からこぼれたその言葉は、飲み込めない濁りを含んでいた。
(あたしに、もう一度剣を振り回す力は、残ってないのかもしれないわね)
それは1つの諦念に近い感覚だった。
さて、かくいうセナもいつまでも呆けている訳にはいかない。
上半身裸のまま過ごすには、この部屋は少しばかり人の出入りが多すぎる。
セナは着替えを求めてまだ痛みの残る左足をベッドから下ろす。
その時、セナは丸机の上に、丁寧に折りたたまれたシャツが置かれていることに気づいた。
真新しい、真っ白なそれは、しかしセナの知識によれば明らかに男物の作りをしている。
セナは細かい事を気にする方ではない。
しかし、気が効くのか気が回らないのかよくわからないその感覚は、間違いなく
シャツに袖を通したセナは、コウへの礼と一杯の水を求めて、久しぶりに部屋の扉に手をかけた。
——
階段に一歩踏み出したセナの耳に、階下の喧騒と聞き慣れた2人の声が届く。
「まったく、ウォズワンドの連れてきた傭兵連中はてんで頭がなってないわい」
苛立ちをあらわにするゼルドロの話は、高額な報酬を要求してきた傭兵団に対する愚痴。
「まあ、武器を持つ理由は人それぞれだからな」
それをなだめるコウは、唄うように続ける。
「国のため、正義のため、仲間のため、家族のため」
「その中に、金稼ぎのためや娯楽のためが混じってたってどうって事はない」
「結局同じ人殺しだ」
冷たく吐き捨てたコウの言葉は、鋭い氷の針となってセナの胸を刺す。
「⋯⋯なんじゃ、こっちを落とす流れかい」
ゼルドロの不満げな文句に対し、コウはまさかといった声音で返す。
「いいや、俺は人殺しが悪い事だとは思わないぜ」
コウのその言葉に、セナはぴたりと身動きを止めた。
「だってそうだろう? 王や英雄も、結局は何人もの屍の上に立ってるんだからな」
「人々を助けたから賢王? 悪を滅したから英雄? そうかもしれない⋯⋯だが人殺しだ」
ゼルドロも口を閉ざし、次第に喧騒も止み、コウの流暢な言葉だけが階段の上段にいるセナの耳まで届く
「武器を取る理由も様々、殺す理由も様々、だがそんなもんは殺された側は知る由もない」
そう断じたコウは、少し声色を変えて続けた。
「だからこそ、結果が全てなんだ」
人を食ったような飄々とした語り口から一転して、面と向かって心をぶつけるようなまっすぐな言葉。
わざとらしい事この上ない変化だが、それでもその言葉は少しもかすれる事なく2階のセナに届いた。
「何をなすか、何のために生きるのか、殺してきた命の数だけ、その決断は重い。それを投げ捨てるか活かすかは、その人間次第だがな」
コウのその言葉が、セナの心に大きな変化を与えた事は言うまでもない。
「おっ⋯⋯どうした?」
少なくとも階段を降りて酒場に現れた時、セナの表情はそれまでのどれとも違う、どこか吹っ切れたような鮮やかなものだった。
「ううん、ちょっと散歩」




