第69話 起動洋館
見渡す限りに広がる薔薇のツルがうぞうぞと蠢き、波打つ。
その光景を前にして、ヘイズメルは呆然とつぶやいた。
「⋯⋯幻術でない事は分かっていたが、それにしてもこれは⋯⋯」
さながら大海を行く帆船のごとく、うねるバラの波に乗り、滑るように移動する館。
動く館。
それが、一夜にして現れた薔薇園の洋館の正体である。
ヘイズメルの見立てから、この薔薇園と洋館が幻覚の類でない事はコウも聞いていたが、まさか物理的に動き回るなど誰が思うだろうか。
「で、結局これは魔法なのか?」
足元を蛇のようにすり抜けていくツルを飛び越し、コウは隣に立つヘイズメルに率直な疑問を投げかける。
「こっちが聞きたいよ⋯⋯いや、魔法である事は間違いないんだが⋯⋯」
上の空にも見えるヘイズメルの支離滅裂な発言に、コウは1人ため息をついた。
目の前の光景に目を見開いて驚いているのはリグルとリムカも同じなのだが、そのうち1人は少し様子が違った。
「おーいリグルー、大丈夫か?」
「⋯⋯はい、大丈夫です」
哀愁漂う表情で、力なくそうつぶやいたリグル。
1人だけ、目に見えて弱った彼の姿には理由があった。
——10分前——
帰り支度を済ませ、ヘイズメルらと共に館の玄関に立ったコウは、見送りにきたクロバとアルトに声をかける。
「それじゃあ、今日のところはこんな感じで」
帰りの挨拶にしてはずいぶんと簡単な言葉に、アルトは不思議そうに声をかける。
「お待ち下さる? まだ大事な事が残っているでしょう?」
「ん? なに? 何かあったっけ?」
今まさに帰ろうとしていただけに、コウの返答は気の抜けたものになった。
「あなたが立てたのは愛の誓約なのよ? 『誓いの口付け』を忘れてもらっては困るわ」
アルトの言葉は、そんなコウの心情に冷や水を浴びせるようなものだった。
もちろん、その要求はコウがアルトと交わした契約、『精神的な愛を与える』を考えれば予想できるものであるが、コウはまさか今日のうちにその段階に達すると思っていなかったのだ。
心の準備が出来ていないといえば初々しい感じもするが、実際アルトの要求のほとんどを言いくるめて切り抜けてやろうと考えてはいたが、コウはまだこのような不可避的なタイミングでの要求に対する対処を考えていない。
ここにきて、コウに出来る抵抗といえば苦し紛れの提案をする事ぐらいのものである。
「⋯⋯手の甲じゃダメか?」
しかし、アルトの重視する愛は、コウの予想を超えて洗練されたものだった。
「構いませんわ、形式的なものですし」
アルトのこの言葉に、コウはその日初めて契約内容が精神的な愛である事に感謝した。
「でも、それは敬愛の印ですわよ?」
続けられたアルトの注意も、もちろんハタツミの代表としてやってきたコウには重要な意味を持つ。
しかし、形式的なものと分かってしまえば幾らでもやりようはある。
「⋯⋯じゃあ、俺の従者のでどうだ?」
コウの従者がアルトに敬愛の誓いを立てる。
形式的に考えれば、それはコウの信頼の表明となり、なおかつハタツミがアルトを受け入れるという意思表示にもなる。
「もちろん構いませんわ、大切なのはあなたの心ですもの」
アルトはコウの提案に笑顔で応じた。
あとは、コウの従者という肩書きを誰に与えるかであるが。
「よし、リグル」
振り返りもせず、コウは迷う事なくエルフの少年の名を呼び、手招きする。
「えっ?」
すっとんきょうな声を上げるリグル。
もちろん彼はこんな展開になるなど頭の片隅にもなかっただろうから無理はない。
リグルが選ばれた理由は単純、この場にいる3人の中で、コウにとって最も親しいのがリグルであり、故に大役を押し付けやすかったからだ。
「大丈夫、大丈夫、英国チックに手の甲にチュッとするだけで良いから。騎士の作法みたいなもんだよ」
この世界に英国はなく、当然コウの言う英国チックの意味はリグルには伝わらないのだが、後半の騎士の作法という部分である程度納得したリグルは緊張した面持ちで頷くと、コウに促されるままにアルトの前に歩み出る。
ぺこりと一礼し、膝をついてアルトの右手を取る様は、幼いながらもなかなか様になっているように見えた。
「ねえ、何を勘違いしていますの?」
しかし、対するアルトのこの反応はこうも予想外であった。
リグルの手を払いのけて手を引いたアルトは、訳がわからないといった様子のリグルに、当然のように言い放った。
「格好だけのあなたの愛を、私が信用すると思って?」
それだけ言うと、アルトはカツンと自らの右足を示した。
しばしの静寂。
「なんで靴に!?」
不意に気がついたリグルの素の問いかけに、アルトは不思議そうに首をひねる。
「あら? ご不満?」
靴への口付けとなると途端にハードルが上がる。
「いや⋯⋯だって、汚いじゃないですか」
リグルの汚いという言葉に呼応して、クロバから見たこともないほどに強烈な殺気が溢れ出す。
しかし、クロバの殺気にリグルが気づくより早く、アルトの声がそれを押しとどめた。
「汚い⋯⋯そうですわね」
リグルの言葉に納得したような表情でアルトは頷く。
しかし、アルトの考えはリグルとは全くの逆であった。
「確かに、あなたの薄汚れた唇が私の足に触れるなんて、到底許される事ではありませんわ」
あっけにとられた一同の中で、アルトはクロバからそれを受け取ると、笑顔で振り返る。
「じゃあこれになさい」
突き出されたティーカップ。
「これならすぐ洗えますし、なんなら捨ててしまっても問題ありませんわ」
靴に比べればはるかにマシと言えるだろう。
しかし、事態の好転に反してリグルの心はより強く打ちのめされたのだった。
——
薔薇のツルが滑り抜けた下から現れた樹木が、まるで仕掛け絵本を開くように起き上がり、周囲の景色と調和していく。
つい先ほどまで見渡す限りの薔薇園だったそこは、なんの変哲も無い、朝日の差し込むよく整備された山道が一本通る山中に戻っていた。
「狸に化かされたってのはこんな感じなんだろうな⋯⋯」
端的に感想を述べたコウに対し、幾分か平静を取り戻したヘイズメルが魔道士らしい理知的な感想を述べる。
「空間を圧縮して下敷きにしていたんだろうが、本当に、冗談のような魔法だよ、必要な魔力量はもとより、単純な術式構築でさえ魔道書何冊分になるか分かったものではないよ」
ヘイズメルの言葉に、コウは思い出したように問いかける。
「ああ、そういえば、魔道書の方は出来てんのか?」
そのコウの問いかけに、ヘイズメルも自身の苦労を思い出したのか、憎しみを込めた瞳でコウを睨みつけながら、引きつったような笑みを浮かべて応える。
「⋯⋯昨日やっとね。正直に言って、よくあんな術式を思いつくものだよ、そしてよくもあんな面倒な術式を我々に押し付けてくれたものだ」
恨み節に満ちたヘイズメルの言葉に、コウはへらへらと人ごとのように笑いながら応える。
「なに、理屈が分かればそんなにややこしいもんじゃ無いだろ? あの起動洋館みたいにややこしい装飾まで組み込んでねえし」
ヘイズメルにも異論はあるだろうが、コウに何を言ってもはぐらかされる事を知っている彼は荒く息をついてその異議を飲み込んだ。
「ふん⋯⋯確認したければ日が昇ってから組合に向かうと良い、必要なければ⋯⋯そうだな、今日の午後には住民の避難が終わる、君達がきっちり時間を稼いだのなら間に合うだろう?」
要点だけ伝え、最後にちょっとした嫌味を交えて、ヘイズメルは説明を終えた。
「ところで君、ゼルカトリアに大打撃を与える策というのは結局なんだったんだい?」
不意に話題を変えたヘイズメル。
彼の言葉がコウとアルトの契約の話である事に気付くまで、コウはしばしの時間を要した。
しかし、気付いたところでヘイズメルが満足できる答えが返せる訳ではない。
「あ⋯⋯聞いてなかった」
なにせ、コウはその策をアルトから聞いていないのだから。
「⋯⋯君ね、いい加減にしたまえよ? なんだい、じゃあ君は急ぎの用がある私を散々屋敷に拘束しておいて、よく分からない曖昧な約束を取り付けただけだっていうのかい?」
最大級の怒りが込められているのだろうが、震えるヘイズメルの声には凄みがない。
その反応をいい事に、コウはそれまで以上にへらへらと笑いながらヘイズメルの肩を叩いて返答した。
「まあ、仮にもあのクロバのご主人様なんだ、やる事はやるだろ」
無責任極まりないコウの言葉に、ヘイズメルは言葉を失った。




