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急募! 邪神の左腕!!

作者: みぬま

 ここは魔に属する者が住まう魔界。その中枢である邪神の城。


 赤紫に染まる空には常に暗い灰色の雲が浮かび、時折青白い稲妻が走っている。

 空中には翼を持つ魔物たちが飛び交い、すれ違う者たちは皆異形ばかり。

 耳を澄ませば遠くから、喧嘩っ早い者たちが立てる爆発音やら破壊音やらが絶え間なく聞こえてくる。



 そんな、邪神ヴィリ様が支配する魔界は今日も平和……ではなかった。



「おいっ、そこのお前たち! 今は就業時間だぞ!」


 今日も今日とて、私は休憩時間でもないのに暢気に中庭で談笑している部下たちに檄を飛ばしていた。

 近頃勇者一行が魔界入りしたという情報が出回っているというのに、全く緊張感が足りない。

 ただでさえこの魔界の支配者であり私の上司でもあるヴィリ様の姿が城のどこにも見当たらない事で胃が痛むのに、本来門番をしているはずの熊の獣人たちが中庭で談笑してる姿を発見して、私の胃は更にキリキリと痛んだ。


「わぁ。ツェトリ様、今日も顔が怖いですよ〜。男前が台無しですよ〜」


 注意を受けた黒髪に白いメッシュが入った熊の獣人が、のんびりとした声音でへらへらと笑いながら手を振ってきた。

 何が男前だ。私は女だ! と反論したい気持ちをぐっと押さえる。

 確かに凹凸は少ないし背も高く、動きやすい男物のコートを着用しているせいもあって、見た目で男性と間違えられる事は多々あるが……。


「邪神様の右腕ともあろう御方が、心が狭いですよ」


 続いてもうひとりの赤茶の髪を持つ熊の獣人が、露骨に面倒なのが来たと顔に出しながら追随する。

 否応無しに引きつる頬を何とか抑えて笑みに変え、私は必殺技を使う事にした。


「……勤務態度の評価を出すのは来月だったな」

「わぁ、ツェトリ様の笑顔がまっくろむぐっ」

「さっすがツェトリ様! 邪神の右腕と呼ばれるだけあって勤労精神に溢れていらっしゃる! 配下の鑑! しかも末端の我々まで気遣ってくださるとは、心が広いっ!!」


 何かを言いかけた黒熊の口を素早く塞いで、赤茶熊が先程とは正反対の言葉を捲し立てる。

 そのまま「失礼します!」と勢いよく頭を下げて黒熊を引きずり去ろうとする赤茶熊に、ふと思い立って問いかけた。


「そう言えばお前たち。ヴィリ様を見かけなかったか?」


 この問いに答えてくれたのは、意図的に聞こえない振りをして立ち去ろうとする赤茶熊の手から逃れた黒熊の、間延びした声だった。


「ぷはっ。あー苦しかった! ヴィリ様なら、さっき街の外で勇者たちと戦ってましたよ〜」

「わっ、バカ!」


 ふむ、なるほど。

 ふたりはその事を知っていたにも関わらず、報告もせずに談笑していたという事か。しかも赤茶熊の方は隠蔽すらしようとしていたと。


「わぁ〜。ツェトリ様、顔が大変な事になってますよぉ?」


 全くもって緊張感のない黒熊に、私は極力声が低くならないように気をつけながら笑顔を向けた。


「……黒髪の熊人殿、良く知らせてくれた。これが発見してすぐの報告だったなら、大幅加点対象だった」

「おぉ、それは勿体無い事をしてしまいましたね〜」

「全くだ。今回は遅れながらも隠さず報告した事を考慮して、少し加点しておこう。申し訳ないが、名を聞かせてくれないか」

「やった! ありがとうございます! ルイです!」


 黒熊があっさりと名乗る。

 素直でよろしい。


「うむ、よく覚えておこう。赤茶髪の熊人殿も名を聞かせて貰えないだろうか?」

「うぇっ、いや、えーと……」

「マークですよ〜」

「わーーーっ!」

「うむ、よく覚えておこう」


 黒熊のルイに名を明かされて慌てる赤茶熊のマークの顔を忘れまいと凝視すると、マークは大柄な体を精一杯小さくした。悪い事をしてしまったという意識はあるようだ。これで反省の色も見えなかったら、クビも視野に入れなければならない所だった。


 さて、この場はこれくらいで収めて……。


「ツェトリ様、行くんですか?」

「ああ。ヴィリ様の悪い癖なんだが、決裁期限が過ぎた書類を執務室の目につかない場所に隠すんだ。こうなる事を見越して期限は早い日取りで伝えているんだが、今日が期限の書類がわんさかと出てきてな……」


 思い出しただけでも頭が痛い。

 日々ヴィリ様が書類に目を通しているか確認を取っているのだが、今日はあまりにも処理済みの棚に置かれた書類が少な過ぎて、数える前から書類を隠蔽している事に気が付いた。

 試しに執務室の中を探してみれば書棚の裏から大量の書類が出てきたという……。


 理由は何となくわかっている。

 勇者一行が魔界に入ったと聞いてからというもの、ヴィリ様は完全に浮かれていた。

 口にせずともわかる。あれは新しい玩具を見つけて喜んでいる目だ。

 その時点で嫌な予感はしていたのだが──


 不憫な人を見るような視線を向けてくるふたりと別れ、私は急ぎ街の外へと向かった。

 ヴィリ様が負けるとは思っていないが、あまり遊びに夢中になりすぎて書類に目を通す時間がなくなるのは困る。せめて急ぎの案件だけでも決裁を貰わなければ!




 街の外に出るなり、派手な爆発音が聞こえてきた。どうやらいつもの音だと思っていた音の一部は、ヴィリ様と勇者たちが戦う際に発生している音だったようだ。


「邪神め、いい加減くたばれ!」

「あっははは! 威勢だけはいいが、まだ我にはかすり傷ひとつ付いてないぞ?」


 満身創痍の勇者一行と思われる人間たちと対峙するのは無傷のヴィリ様。精悍な面立ちと邪神の名に恥じない大柄な体格で勇者たちの前に立ちはだかっている。


 相変わらずお強いが、敵の本拠地を目前にしていきなり最大の敵と遭遇してしまった勇者たちには同情を禁じ得ない。

 恐らく気配を察知して待ちきれなかったヴィリ様が、門番が不在なのをいいことに自ら出向いたのだろう。


 奔放過ぎる上司を野放しにしてしまった事を申し訳なく思いつつ、書類を持つ手とは逆の手に腰に下げていた折り畳み杖を持ち、一振りして展開した。

 そして勇者と思われる青年(他にそれらしき者がいないから勇者と断定していいだろう)と剣を打ち合わせているヴィリ様に素早く歩み寄る。


「楽しそうですね? ヴィリ様」


 そう一声かけると驚き振り向いた勇者を押しのけ、振り下ろされたヴィリ様の剣を杖で受け止めた。

 さすがヴィリ様。軽く振るわれた一撃すら重い。


「ツェトリではないか! いやぁ、久々の人間との戦いは楽しいぞ! お前も加わりたくなったのか?」


 全く悪びれる様子もないヴィリ様に、益々胃と頭が痛くなる。

 背後では「ツェトリだと!? 魔界のナンバー2じゃないか!」と大袈裟に騒ぐ勇者の声。

 私がナンバー2だというのは初耳だな。しかし今はそれを問い質している時間はない。


「いえ、お楽しみのところお邪魔するようで大変恐縮なのですが──」


 私は杖を捻ってヴィリ様の剣を受け流し、すかさず反対の手に持っていた書類をヴィリ様の眼前へと突きつけた。


「こちらの書類の決裁が滞っており大変な迷惑を被っておりますので、一刻も早く目を通して頂きたく存じます」

「むっ! よく見つけたな」


 半身を引いて書類から逃れると、ヴィリ様は剣を水平に薙いだ。私は剣の軌道を読んでギリギリで回避し、杖に魔力を込めてヴィリ様の剣を持つ手元へと振るう。込めた魔力が杖の先から鞭のように伸び、ヴィリ様の手を打ち据えた。


「ヴィリ様の行動も読めずに直属の部下が務まりますか」

「それもそうだな!」


 剣こそ取り落とさなかったものの、多少は痛かったらしい。打ち据えられた手をさすりながらヴィリ様は楽しそうに笑った。

 こちらは全く笑えないのだが。


「ではこうしよう。ちょうどギャラリーも集まってきた事だし、今から我とツェトリで決闘をしようではないか! お前が私に“参った”と言わせたらすぐにでもその書類に目を通そう」


 ギャラリー?


 ヴィリ様の言葉と視線に促されて見回してみれば、いつの間にか空を飛び回っていた魔物たちが上空にぐるりと円を描いてこちらの様子を見ており、地上も周囲を囲うように魔界人で溢れていた。

 私につられて周りを確認した勇者たちが「囲まれた!」「この数、まずいぞ」「私たち死ぬの!?」「これを突破するのは無理です。諦めましょう」などと騒いでいる。その向こうでは、野次馬をしに来た魔界人たちが「ヴィリ様とツェトリ様の決闘だってよ」「マジか、ヴィリ様頑張れー!」「ツェトリ様負けるなー!」などと囃し立てている。


 私はただヴィリ様に仕事をして貰いにきただけだというのに、どうしてこうなった。

 思わず頭痛に耐えるべくこめかみに手を当てると、声援に手を振って応えていたヴィリ様がこちらに向き直った。


「どうだ? この決闘、受けるか?」

「……参ったと言わせればいいのですか?」

「そうだ!」


 私は確認するように問い、言質を取る。賭けにはなるが、ヴィリ様に「参った」と言わせる手段がない訳ではない。

 それに、この手段を用いれば勝っても負けても私にとって悪くない結果になる。


「ちなみに、ヴィリ様は勝利された暁には何をお望みで?」

「そうだな……ひと月ほどバカンスに出かけさせて貰おうか!」


 ほう。そうですか。やはりそうきますか。

 私は思った通りの返答に薄く笑みを浮かべ、すぅっと息を吸い込む。

 そして静かに、底冷えするような声を意識しながら告げた。


「私はヴィリ様が勝つと確信しておりますが──ヴィリ様が勝利された際には、私は私が負けた事によりあらゆる業務が滞ってしまう責任を取って辞表を提出し、城から去らせて頂きます」


 思いの外よく響いた私の言葉に、一瞬にして周囲が水を打ったように静まり返る。

 ヴィリ様も目を見開き、硬直していた。


 その静寂の中、勇者たちのひそひそ声が漏れ聞こえてくる。


「仲間割れか?」

「そう言えばツェトリとかいう奴、さっきジェインの事をかばったわよね?」

「あれはかばったと言うより割り込んだという感じだったが」

「……素敵」


 最後の一言は謎だが、どうやら勇者たちもこの状況についてこれずに動きあぐねているようだ。

 確かに間に割って入ったのは私の方だが、状況をややこしくしないためにもそのまま大人しく見物しているか、さっさと人間界へ帰って欲しいものだ。


「本気か、ツェトリ」


 ようやく口を開いたヴィリ様の声は、背筋が凍り付くほど低かった。俯き、微かに肩を震わせている。

 お怒りになったのだろうか。しかし私は私でこんな毎日が続くくらいならいっそここで負けて、その責任を取って田舎に引っ込むのも悪くないと本気で考えている。

 なので「本気です」と迷わず返答すると、勢い良くヴィリ様が顔を上げた。目には大粒の涙が浮かんでおり、その表情はまるで捨てられた子犬のよう。


 予想外の反応に私は引いた。ドン引きだ。

 邪神ともあろう御方が、なんて情けない顔をするんだ。完全に自業自得だろうに。


 そんな事を考えている間に、もの凄い速さで駆け寄ってきたヴィリ様は私に取り縋っておいおいと泣き出した。


「何故だツェトリ! お前は私の右腕ではないか!」


 邪神の右腕。そのつもりではいたが、最近はその自信すらへし折れそうだった事にこの人は気付いているのだろうか?

 周囲からは「ツェトリ様がヴィリ様を泣かしたぞ!」「ツェトリ様ひどいっ」「ヴィリ様に謝れー!」という声が聞こえてくる。意味がわからない。


「……ヴィリ様、ご自分の胸に聞いてみて下さい。これまで私が何度お諌めしても聞いて下さらなかったのはヴィリ様です。それはつまり、私がヴィリ様の右腕として相応しくない証拠」


 声は優しく。しかし私の顔は今、さぞ冷えきったものとなっているだろう。

 その証拠にか、ヴィリ様がびくりと身を竦ませて怯えた表情を浮かべている。


「私も今悟りました。私がすべき事は、これ以上周りに迷惑をかける前にここを去る事だったのです。ヴィリ様が気持ちよく仕事が出来るよう環境を整えられる者こそが、ヴィリ様の側近くで仕えるのが一番なのですから。そうです、それが一番なのです。ああ、私は愚かでした。今ここでヴィリ様と決闘する理由すらなかった」


 半ば棒読みに近い調子で淡々と畳み掛けると、私は持っていた書類を震えるヴィリ様に優しく手渡した。反射的に受け取ったヴィリ様に微笑みかけると杖を畳み、腰のホルダーに戻す。


「こうしてはいられません。一刻も早く辞表を書いて参ります故」


 これはまたとないチャンス。善は急げだ。

 何故今まで辞めるという思想がなかったのか、自分で不思議に思いながら踵を返す。


「まっ、待て。待ってくれ! 聞くから! これからはちゃんとツェトリの言う事を聞くから!!」


 必死な形相で追いすがるヴィリ様に、私は足を止めた。あからさまにほっとした顔をするヴィリ様に、絶対零度の一瞥を投げかける。「ひっ」とヴィリ様が引き攣った声を上げた。


「本当に?」

「ほ、本当だ! 本当だとも!!」

「では証として、今からその書類全てに目を通して下さいますか?」

「通す! 待っていろ、一瞬で済ますから!」

「駄目です。やはり私は腹心失格です。しっかり目を通して下さらないのであれば、見て頂く意味がありません」

「見る! ちゃんと見るから見捨てないでくれ!」

「本当に?」

「本当だ! 本当だとも!!」


 会話がループしかけたところで私は「ふむ」と顎に手を当てた。


「では今すぐ城に戻りましょう。私の見ている前で、しっかりと目を通して頂けたら信じて差し上げます」


 こくこくと激しく頭を前後させるヴィリ様から視線を外すと、今度は戸惑いの表情でこちらを見ている勇者一行に目を向けた。

 ん? ひとりだけやけに嬉しそうな顔でこちらを見ている女性がいるな……。

 気にはなるが、今はそんな事よりも業務が滞らないようにしなければならない。なので、彼らに一声かけておく事にした。


「お急ぎのところ申し訳ありませんが、ヴィリ様には仕事が山積みでして。一旦お引き取り願いたいのですが」

「なっ……俺たちがどれだけ苦労してここまで来たと思ってるんだ! 先に決着をつけさせろ!」


 威勢よく前に出たのは勇者だった。

 既に全身ズタボロなのに、気力は失われていないようだ。さすが勇者と言うべきか。


「そう言われましても、こちらは魔界の運営に支障を来す案件ですので……あっ、いい事思い付きました。このまま一緒に城まできて頂いて、ヴィリ様の仕事が終わるのを待って再戦するというのはどうでしょうか。それならもう一度ご足労頂く手間が省けますよね」


 我ながら名案だ。

 そう思って提案すると、勇者たちが訝しげな表情を浮かべた。周囲からはぼそぼそと「ツェトリ様、疲れてるんだな」「ああ、普段のツェトリ様なら敵を懐に入れるなんて事はしないだろうに」「それとも何か策があるとか?」という声が聞こえてきた。

 策などないし、疲れてはいるが判断力が低下しているつもりもない。


 何故こんな事を言い出したのかと問われれば、理由は単純だ。

 一刻も早くヴィリ様に仕事を片付けてもらいたい。その障害になる勇者たちを大人しく引かせたい。しかし引かせるための労力が惜しい。


 それほどまでに決裁待ちの書類が溜まり、業務が滞っているのだ。


「皆の者、客人を迎えるが危害は加えるなよ! わかったら各自持ち場に戻れ! 速やかに戻らない者は私が確と顔を覚える。来月の評価に響くものと思え!!」


 時間が惜しい。とにかく惜しい。

 私が声を張り上げて周囲を睨め付けると、野次馬で集まっていた面々が蜘蛛の子を散らすように去っていった。

 よし。


「ではヴィリ様。戻りましょうか。勇者たちもついてきて下さい」


 そう告げて、私は先頭に立って歩き出した。




 ───こうして私は、勇者一行を大人しく待たせつつ、ヴィリ様に仕事をさせる事に成功した。






 勇者たちが現れてから数日が経過した。

 ヴィリ様は真面目に働いてくれてはいるが、やはり勇者たちが気になるようでそわそわしている。

 それでもまだ仕事が進んでいるだけいいのだが、部下たちのサボり癖は一向に直る気配がない。


 今日も二階の渡り廊下から中庭に視線を遣れば、いつぞやの門番二人組が勇者たちと仲良く談笑していた。確か、ルイとマークだったか。

 また注意しにいかねばならないのかと思うと、どっと疲れが押し寄せてきた。渡り廊下の手摺に肘を付きながら中庭の様子を眺めていると、知らず知らずの内にため息が漏れる。


「はぁ……誰か私の代わりに仕事してくれないかな。いや、もう手伝ってくれるだけでもいい。いやいや、いっそ手伝ってくれなくてもいい。この荒んだ心を癒してくれる愛玩動物でもいいから現れないだろうか」


 と、無意識に零したところで我に返る。

 私は一体何を言ってるのだろうか。

 自らが発した言葉を反芻すれば虚しさが増して、再び深いため息を吐いた。

 しかし無意識に零れ出た言葉は、自らも自覚できていない本心のように思える。


 疲れてるのかな。疲れてるんだろうな。

 私は手摺に凭れて脱力し、改めてため息を漏らした。



「──よろしければ、わたしがあなたの願いを叶えましょうか?」



 不意に背後から声がして全身が粟立ち、大急ぎで振り返った。

 そこに立っていたのは、勇者一行のひとり。城へ招待した際に勇者一行の中で唯一楽しそうにしていた女性だった。


 背が小さく、ふわふわと柔らかそうなラベンダー色の髪。くりくりとした大きなヘーゼルの瞳。

 やや幼い印象を受ける外見ではあるが、立ち居振る舞いの落ち着き具合から見た目通りの年齢ではないと推測している。服装も人間界で神に仕える者が着用するような、見る者に神聖な印象を与える白を基調としたローブを身に着けている。


 それにしても、全く気配がしなかった。

 この私に気配を察知させないとは、ただ者ではない。


 警戒する私とは裏腹に、彼女はふわりと柔らかい微笑みを浮かべた。


「うふふ。やっとお話しできました。わたし、ずっとあなたとお話しがしたかったんです」

「私と、話しを?」

「ええ」


 女性は頷きながらすっと手を差し出してきた。


「わたしはフアルと申します。あなたのお名前は、ツェトリ様でよろしかったでしょうか?」

「そう、だが」


 差し出された手をまじまじと見つめていると、女性……フアルはやや強引に私の手を取った。どうやら握手を求められていたようだ。

 何と無しに手を握り返すと、フアルはぽっと頬を染めた。


 ……ん?


「実はわたし、ツェトリ様に一目惚れしてしまったようなのです。もしよろしかったら、お友達からでもいいのでお付き合いして下さいませんか?」

「ほあっ!?」


 ド直球で告白されて、私は一瞬ドキッとしてしまった。

 こんなにふわふわで愛らしいものから好意を寄せられてドキッとしない者などいないだろう!

 しかし残念ながら、私は女だ。恐らく彼女は私の性別を勘違いしている。早々に訂正して、正気に戻してあげねばなるまい。


 私は咳払いひとつ。「あ、あー」と軽く声出しをしてから真実を告げた。


「折角の好意ではあるが、私は女だ。友人ならともかく、恋人にはなれない」

「えっ」


 フアルは目を大きく見開いた。

 そのまま微動だにしなくなった彼女に、私は申し訳ない気持ちで一杯になる。


「こんな(なり)をしているから勘違いさせてしまったのだな。申し訳ない。だが私は正真正銘女で、それに──」

「おっ、お姉様だったのですか!?」


 ……は?

 私は自分の言葉を遮って発せられたフアルの言葉に目を点にする。


「何を言ってるんだ? 私に生き別れた妹などはいないはずだが」

「そうではありません、 精神的な意味でのお姉様です! あぁ……素敵。こんなに格好良いお姉様と出会えるなんて!」


 うっとりと自分の世界に旅立ってしまった様子のフアルに困惑し、私はどう返答すればいいのかわからないまま固まった。

 正直頭に浮かんでいる言葉は「何言ってるんだ、この娘は」だった。


「お姉様!」

「ツェトリだ」

「ツェトリ様っ! わたし、仕事は結構出来る方だと思います! 国王様に邪神討伐を言い渡されて腰が引けていた勇者の尻を引っ叩いて旅に連れ出したり、強敵に遭遇するとすぐ逃げようとする戦士を教育して強敵を前にしても戦えるようにしたり、戦いに参加しようとしない魔法使いを魔物の群れに放り込んで戦わせて誉めておだてて自信を付けさせたり、ここまで来る間も結構頑張ってきたので忍耐力や根気にも自信があります!」

「……それは、大変だったな」


 思わず我が身と重なって見えてほろりときてしまう。

 フアルも瞳を潤ませて「わかって頂けますか」と嬉しそうに目を細め……と思ったら、何かに気付いた様子でカッと目を見開いた。


「はっ! もしかして、わたしがツェトリ様に惹かれたのは似たような立場だったからかも!? あの邪神ヴィリを屈服させた精神攻撃は惚れ惚れするくらいお見事でしたもの!」


 その時の事を思い出しているのか、フアルは空中を見上げてほぅっと感嘆のため息を吐いた。

 そんなに見事だっただろうか。あの時の私はただ疲れ果てて半ば捨て鉢になっていただけなのだが、こんな風に誉められると悪い気はしない。


「ありがとう、フアル。そう言ってもらえると私の苦労も報われる気がするよ」

「まぁっ。どなたもツェトリ様が苦心されている事に気づかないのですか?」


 この言葉に私は視線を中庭へと投げた。つられてフアルも中庭を見下ろす。


「あの通りだ。なかなか部下が仕事に真剣に取り組んでくれず、何度注意しても直らない」

「そうなのですか……って、あぁっ! ジェインたち何やってるのかしら! 迷子になるたびに親切な魔界人さんに部屋まで送って貰ってるから、ふらふら歩き回ってこれ以上迷惑かけるなって言っておいたのに!」


 ちょっと失礼しますね、と告げて、フアルは手摺に飛び乗った。かと思ったらそのまま中庭に飛び降りた。

 一瞬の出来事、しかもフアルの予想外の身軽さに驚いて、つい見送ってしまった。慌てて手摺から身を乗り出すと、綺麗に着地したフアルの髪が風に持ち上げられたかのようにぶわっと浮き上がる。


「あーなーたーたーちー?」

「フっ、フアル!?」

「やばっ! 見つかった」

「だから部屋から出るの止めようって言ったのにぃ〜!」


 勇者、戦士、魔法使いの驚きと嘆きの声が次々と上がる中、フアルは手にした杖をそれぞれの頭に打ち据えた。結構痛そうな音がしたけど、あれは大丈夫なんだろうか。


「もう我慢できません! わたし、このパーティから抜けます!!」


 正に先日の私と似たような言葉を口にして、フアルは地面を蹴って私の隣に音もなく着地した。というよりも、舞い降りたと表現した方が良さそうだ。

 何だ今の跳躍力は!


 フアルの脅威の身体能力を目にして得体の知れなさに再び警戒しかけたが、肩を震わせているフアルに気が付いてすぐに警戒を解いた。

 耳に届いたのは、しゃくりあげる声。


 わかる。

 言っても言っても通じず、伝わらず、理解されない苦しみは痛いほど理解できる。


 私はそっとフアルの肩に手を置いた。


「ふっ、ふふふ」


 私はそっとフアルの肩から手を離した。

 わ、笑っているのか?


「言ってやった……言ってやったわ」


 そんな地の底から迫り上がってくるような呟きが聞こえてきて、一歩後退る。

 中庭の方からは勇者たちの「フアルすまない! もう二度と言いつけを破らないから!」「帰ってきてくれフアル!」「あんたがいないとこのパーティが成り立たないのよー!」という声が聞こえてくるが、フアルは完全無視を決め込んだ。

 勇者たちも私がいるせいか、フアルを追ってこれない様子だ。


「フ……フアル? 彼らを放って置いていいのか?」


 恐る恐る声を掛けると、フアルが顔を上げて私を見上げた。

 予想通りその顔には笑みが張り付いていたけれど、同時に目からはぽろぽろと涙が零れ落ちていた。


「いいんです。ツェトリ様が邪神ヴィリに言った言葉を思い出して、ようやく悟りました。わたしがいるから彼らはいつまでもあのままなんだって。彼らの中に、わたしがいちゃ駄目なんです」


 そう言ってどこか寂しそうに微笑んだフアルの言葉が、ぐさりと私の胸に突き刺さった。

 自分も似たような事を言ったが、結局見捨て切れずにここにいる。

 けれどフアルは自分が彼らを駄目にすると悟り、すっぱりと見捨てる事を決めたのだ。

 その潔さに私は震えた。感動を覚えてしまった。


 私はガシリと両手でフアルの手を取る。


「あなたの気高さに心を打たれた! ここでのあなたの面倒は私が見よう。好きなだけ魔界にいるといい!」

「まぁっ! ツェトリ様、本当ですか!? わたし、精一杯お力になりますから、どうかここに置いて下さいませ!」

「大歓迎だ!!」


 ひしっと抱き合って互いの不憫を嘆き合い、これまでの努力を讃え合うと、私はすぐさまヴィリ様の許へとフアルを連れて行った。

 勇者たちは最後まで騒いでいたが、無視だ無視。

 フアルを泣かせた罪は重いぞ。




「で、その人間を同僚に迎えたいと?」

「はい。フアルほどの人材であれば即戦力になるかと」

「ふぅ〜ん」


 ヴィリ様は私が連れてきたフアルをじろじろと見る。

 いくら魔界の支配者とは言え、少々不躾に見過ぎじゃないだろうか。


「いかにもツェトリが好みそうな愛らしい人間だな。まぁよかろう。許可する」

「ありがとうございます!」


 余計な一言があったものの、許可は出た。

 私が勢い良く頭を下げると、フアルも「ありがとうございます」と頭を下げる。


「これでツェトリの負担が多少なりとも減るなら願ったり叶ったりだ。そのうちツェトリも我が配下から抜けねばならないから、その時が来たら安心して後を任せられるよう、今からしっかり仕事を叩き込んでおけばいい」

「えっ?」


 この言葉に、フアルは私を見上げてきた。

 先ほど言おうと思って遮られてしまったから、ちゃんと伝えられていない事がひとつだけあった。


「あー……その。私はヴィリ様の婚約者故、いずれはこの役目を譲り、退かねばならない。その日までに有望な後任をと探していたのだが、どうにも部下たちからはやる気が感じられず、適任者が見つからなくてな。あぁ、だからと言ってフアルに後任を押し付けるつもりはないから安心してくれ。ちゃんと魔界人の中から後任を探すつもりだ。フアルには今は私のサポートを、いずれは私の後任の者の相談役をして貰いたいと考えている」


 フアルは私の話を聞き終えると、私とヴィリ様を交互に見つつ段々と頬を紅潮させていく。

 熱でもあるのだろうか?


「そっ、そそそっ、そうなのですか!? 有能な配下と尻に敷かれている主君の恋愛事情だなんて素敵!!」

「いや、そういうものではないのだが。何なら本当に婚約も仕事も全てやめて田舎に帰りたいくらいなんだが」


 そう告げると今度はヴィリ様が椅子を蹴って立ち上がった。


「まだそんな事を言っているのか、ツェトリ! 我はこんなにも愛する婚約者を想い、お前の望み通り真剣に仕事をしていると言うのに!」

「いや、そもそも本来すべき仕事をして貰っているだけですので、そこを売り込まれましても」

「もっと誉めてくれてもよかろう!?」

「あー、はいはい。ヴィリ様凄い。素晴らしいお仕事振りですー」

「ひどいっ! ひどいぞツェトリ!!」


 面倒くさい。

 こんな人とこれからも仕事をしていくのかと思うと気が重くなり、将来この人と結婚するのかと思うと先が思いやられる。


「もっとしゃんとして下さい、ヴィリ様。あなたはやれば出来るのにやらないから見くびられるのです。まぁ配下に親しまれているというのは一種の才能だとは思いますが、締める所はしっかり締められるようになって頂きませんと」

「むっ……見くびっている最たる配下がお前ではないか」


 心外だ。


「見くびってはいませんよ。買っているからこそ厳しくさせて頂いているのです。もしお気に召さないようであればお望み通り見くびり、失望し、あなたの許を去りましょう」


 私の言葉に、ぐっと言葉を飲み込むヴィリ様。「ツェトリ様、素敵」と呟きながら、きらきらした目を向けてくるフアル。

 そんなふたりの視線から逃れるように、私は書類棚の前へと移動した。


 処理済みの書類棚には順調に書類が積み上げられており、ヴィリ様が真面目に仕事をしている事がわかる。未処理の棚もさほど山積みになっておらず、順調に処理されているようだ。


「フアル、こちらへ。棚の説明をする」

「あっ、はい!」


 沈黙に耐えかねてフアルに声をかけると、ヴィリ様も椅子に座り直して黙々と仕事をこなし始めた。その横顔は真剣そのもので、日頃の朗らかさが形を潜めて怜悧さが垣間見える。

 支配者としての仕事を的確に、着実にこなせるのは本当に尊敬できるし、この横顔が実は私のストライクゾーンど真ん中だったりするのだが……これはまだ言わない方が良さそうだ。いざという時の最終兵器として温存しておこう。






 フアルが私の直属の部下になって数ヶ月が経過した。


 フアルは大分魔界での生活にも慣れ、仕事も教えればすぐに覚えた。

 しかも時間の経過とともに再び遊びに出たがるようになってしまったヴィリ様を、なんとひとりで諌めたりもしている。

 しかもしかも私に懐いていて、見た目も愛らしく……私からしたら癒し要素満載だ。


 仕事が出来て癒しもくれる。

 優秀な相棒が出来たと、私は心底喜んでいた。




 そんなある日の事。


「フアル! 俺たちと一緒に帰ろう!!」

「嫌です!」


 フアルが抜けて治癒魔法の使い手を失った勇者たちは、ヴィリ様と再戦する事なく人間界へと帰っていった……のだが、この日、勇者たちはフアルを連れ戻そうと再び城に押し掛けて来ていた。


「お願い、フアル。私たち、あなたが今までどれだけ大変な思いをしていたのか考えて反省したの。本当に今更だけど感謝してるし、申し訳ないと思ってる」

「もうあんな苦労はさせないから、どうか戻ってきてくれ」


 切々と訴える勇者たちを、私は離れた所から眺めていた。

 その顔つきはこの城を去った時とは比べ物にならないほど真剣で、真摯で、心の底からフアルに申し訳ないと、自分たちの許に帰ってきて欲しいと思っているように見える。

 しかし。


「そんなの信じられません! わたしが一体何年かけてあなたたちに真剣に取り組んで欲しいと訴えてきたと思ってるんですか! それに今更そんな事を言われたって、わたしにはもう新しい居場所があるんです」


 フアルは頑なに拒み、私に助けを求める目を向けてきた。

 ふむ……。


「勇者たちよ。申し訳ないが、フアルは私の友人であり、今やこの城においてなくてはならない人材だ。勝手に連れ帰られては困るのだが」

「フアルは人間だ。こんな異形で溢れた魔界でいつまでも暮らしていける訳がない」


 ふぅむ。

 私は真剣な表情の勇者の顔を、戦士の顔を、魔法使いの顔を順に見据えた。そしてひとつの提案を投げかける。


「ではこうしよう。フアルを連れ戻したければ、私と戦え。そして勝て」

「ツェトリ様!?」


 抗議の声を上げようとするフアルを制して、私はフアルと勇者たちの間に割って入った。


「どうだ? 勇者たちよ」

「受けて立つ!」


 いきなり勇者は剣を抜いた。

 勇者たちの顔は真剣そのものだ。何が何でもフアルを連れ戻そうという意志が見て取れる。


 知らず知らずのうちに、私の口の端に笑みが浮かぶ。

 これでようやくフアルも報われるのだと、そう思ったら嬉しくなってしまう。

 私は腰のホルダーから杖を抜き出そうと手を伸ばし──


「我が配下に関する全ては我が責任で以て対処する。ツェトリ、どけ」


 上から声が降ってくる。声に応じて私はフアルを背後に庇いながら後退した。

 恐らく渡り廊下から飛び降りてきたのだろうヴィリ様が、先ほどまで私が立っていた場所に着地する。

 ゆらりと立ち上がったヴィリ様に気圧されて、勇者たちが一歩、二歩と後退った。


「よく来たな、勇者たちよ。フアルをかけて、以前つけられなかった決着をつけようではないか!」

「望む所だ!!」


 勇者がいつかと同じように威勢よく、しかし今回はそこに強く鋭い意志を込めて応じる。

 ヴィリ様は不敵に笑むと剣を抜き、私は咄嗟に防御壁を展開した。


 遠くから爆発音が聞こえてくる。

 それを合図に、息が詰まる戦いが始まった────











「はーい、いらっしゃいませ〜」


 陽気な声がざわめくホールに響き渡る。


「このたびは『邪神の城観光ツアー』にお越し頂きましてありがとうございます〜。本日の案内人はこのぼく、ルイと」

「補佐のマークが勤めさせて頂きます!」


 案内人の自己紹介に拍手が返された。拍手を送っている者の大半が人間である。

 以前なら魔界に人間が来る事など滅多に無かったが、今や結構な人数が観光で訪れている。


「まずは簡単な説明から始めますね〜。このツアーは、邪神ヴィリ様と勇者ジェイン様が争いは何も生まないと共感した事で成立した、魔界と人間界の友好条約を発端として開始されたもので〜」




 遠くから聞こえてくる間延びした声に、私は小さくため息を吐いた。


 あの後、ヴィリ様が圧倒的勝利を手にすると思っていた戦いは意外にも拮抗した。

 わざと勇者たちに負けてフアルを返そうと思っていた私はハラハラしたものだが、勇者たちが善戦した事でヴィリ様の心境に、そしてフアルの心境にも変化が生まれたようだ。


 結果的にヴィリ様は勇者たちと和解し、勇者と気があったヴィリ様は人間界への干渉をしないと約束する代わりに、人間界からも魔界への干渉をしないようにと持ちかけた。

 しかし勇者ジェインは話の分かるヴィリ様やすっかり魔界に馴染んでいるフアルを見て、今後は敵対するのではなく、友人関係になれないだろうかと提案した。

 面白いもの好きのヴィリ様は即決で勇者の提案に乗った。


 そうしてフアルは勇者たちと人間界へ帰り、その後人間界の総意を確認した上で改めて魔界と人間界の友好について対話が成された。

 友好条約が正式に結ばれたのは、およそ五年前。

 初期の魔界観光ツアー参加者は勇者一行の知り合いばかりだったが、段々と口コミで魔界独特の雰囲気がいいという情報が広まって行き、現在は多くの人間が魔界に観光で訪れている。

 それは逆も然りで、魔界からの人間界ツアーへの参加者も年々増加傾向にある。


 いい事だと思う。いい事だとは、思うのだが……。


 私の仕事は増えに増えていた。

 フアルが抜けて手が足りない上に癒しも失ってしまい、私の心は再び荒み始めている。


「あっ! ツェトリ様!!」


 懐かしい声が聞こえて、私は声の方へと振り返った。

 視線の先にはラベンダー色の髪をした女性。その後ろからは勇者を始めとした彼女の仲間たちがついてきている。


「フアル!!」


 おぉ! 我が癒しの友よ!!

 私は懐に飛び込んで来たフアルを抱き留めて、再会を喜んだ。


「あのですね、あのですね! 今度人間界代表で魔界に駐在する予定の人員が決まりましてね! わたしたちが選ばれたんです!!」

「本当か! それは嬉しいな」

「わたしも嬉しいです〜!」


 ぎゅむぎゅむと頭を押し付けてくるフアルは本当に可愛らしい。

 思わずほのぼのしていると、フアルの背後にいた勇者が咳払いひとつ。私からフアルを引き剥がした。


 おぉ、我が癒しの友よ……。


 悲しみの顔を勇者に向けると、敵対心剥き出しの瞳とかち合った。

 おや? 我々は友好を結んだはずでは?


「フアルは渡さないからな!」


 あ、そういう事か。


「いや、私には」

「我が婚約者よ! ついに我々の婚姻の日取りが決まりそうだぞ!」


 がばっと後ろから飛びつかれて反射的に肘鉄を背後に打ち込んだ。確かな手応えと「ぐぅっ」と苦悶の声が聞こえて振り返れば、ヴィリ様がうずくまっていた。


「ああ、ヴィリ様。申し訳ございませ──」

「婚約者?」


 慌てて謝罪をしようとしたところで、戦士の声が響いた。

 続いて「え?」「男同士で?」「あらいいじゃない、気持ちさえ通じ合っていれば」「ねぇ?」などという声がざわざわと聞こえてくる。

 見遣ればいつの間にか観光ツアーの行列が私たちのいる通路に雪崩込んで来ていた。


「はーい、皆様ー。あちらが我らが邪神ヴィリ様と、その右腕にして婚約者、更に魔界の実力者ナンバー2のツェトリ様です〜。あのふたり、なんやかんやで超仲良しなんですよ! どうやら近々ご結婚されるようですね〜」


 黒熊の獣人ルイの声に、ツアー客たちが「あらぁ、おめでとう」「おめでとうございますー」などと言いながら拍手し始める。

 そんな周囲の雰囲気に流されて、勇者も毒気を抜かれた表情で「おめでとう」と言いながら拍手し始めた。


 私がヴィリ様を助け起こしながら困惑していると、観光ツアーの先頭に立っているルイと目が合った。ルイはへらっと笑い、ぱちぱちと手を打ち鳴らす。


「ご結婚おめでとうございます〜」

「気が早……ん? そう言えば、何故ここにお前がいる? 今日のツアー担当はお前たちじゃないだろう!」


 すかさず指摘すると、ルイの後ろに隠れるようにしていたマークがまずいという顔になり、ルイは更に気の抜けた笑みを浮かべた。


「あらぁ、バレちゃいました?」

「誰が仕事配分をしていると思ってるんだ! 持ち場に戻れ!」


 私の叱責に飛び上がったマークが「すみませんでしたぁっ!」と謝罪しながらルイを引きずって一目散に走り去る。

 というか、ツアー客に混じっているのはもしかして今日のツアー担当のふたりでは────




 その事に気付いた瞬間、私の中で何かが切れた。




 私は傍に立っていたヴィリ様に掴み掛かり、前後に激しく揺すった。


「ヴィリ様! 今すぐあなたの左腕となり得る人材を雇って下さい!! そしてどうか私に心休まる日々を──!」






 邪神ヴィリ様が支配する魔界は、今日も平和だ。

 ……私を除いては。

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