雨は毛布のように
しとしと雨が降っている。
傘はない。
まだ梅雨には早いけど、四月末のこの季節でも長雨になって、何日もすっきりしない天気になることがあるみたいだ。
俺の学校の近くの住宅街。
同じ高校の生徒たちも、素知らぬ顔で通りすがる。
時々「傘も差さずに何やってるんだろう」って、こちらを見て通り過ぎる人もいる。
俺は家のすぐ下にある石段に座って、風景をぼんやり眺めている。
空気は湿っぽく蒸しているのに、寒気がして、腕を体に巻き付けた。
そうだ、神崎先生のこと考えよう。
でも、考えた途端に寂しくなって、涙が込み上げてくる。
「――何してんだ、清宮」
「……えっ。…先生?」
神崎港。俺のクラスの担任の先生。
「どうした?」
「え…えっと……鍵、落としちゃって…俺、鍵っ子だから家に入れなくて」
信じられない。今、先生のこと……。
「俺の部屋にくるか?」
「えっ?」
「この近くだから。鍵、開くまでなら待っててやるから」
嘘。うそみたい。
「……うん…えっと、お邪魔する……」
俺はこぶしで目をこすった。駆け足で先生に近づこうとしたけれど、焦っているのか緊張のせいか、俊敏には行動できなかった。
先生は紺色の折り畳みの傘を持っていて、相合傘でほんのちょっとの間、歩いた。
なだらかに続く坂道を上る。道路はアスファルトで舗装されていて、右足と左足が交互に前に出るのを見つめていた。先生のことは意識しすぎて、全然見れなかった。
先生のうちはこじんまりした二間のマンションだった。結構年数がたっていそうだけど、中に入るときれいにリフォームしてあった。
靴を脱いで、フローリングに敷いてあるこげ茶のラグに座る。ソファもあるけど、なんだか申し訳ないので…。
「何か飲むか」
「え、」
「コーヒーとか」
「あ、あの、コーヒー飲めない…」
「じゃあココアにするか」
「うん」
「インスタント」
「へ、平気……」
先生がキッチンに立って、電気ケトルでお湯を沸かしてくれる。
「ほら」
ココアを差し出された。
「ありが、と」
ひと口すする。
あったかくて、お腹が落ち着く。
「落ち着いたろ」
「……うん」
「お前、なんで泣いてたんだ。家に入れなくて、か?」
「うっうん、あの…ちょっと小さいころのこと思い出して……何でもない」
不自然に会話を切り上げたせいで、気まずい沈黙が流れた。
「…俺、昔からどんくさくて、小さいころなんか叱られたりして家閉め出されることがあって、だから」
早口でまくし立てたけど、先生は疑っていないようだった。
「そうか」
先生。
先生のこと何も知らなかった。
こういうお家に一人暮らししていること。
結構きれい好きなこと。だって、部屋がすごく片付いている。
それから、いつも不愛想だけど、すごくやさしいこと。
先生のこといつも見ていたんだ。
先生は知らないと思うけど、体育館で整列して校歌を歌うとき、みんなの口元みて、むすっとしてたね。みんなちゃんとなんか歌わないから。
この間、先生が廊下で俺の落とした万年筆を拾い上げて、刻まれた文字をぼそっとつぶやいたとき、ものすごくびっくりした。
(…シュン)
(……!)
(お前のか?
(えっ?! え、うん!)
先生が俺を名前で呼んだ。空想の中では何度も考えていたけれど、本当に呼ばれるなんて思いもしなかった。すごく緊張して、でも嬉しくて、心臓がバクバクしていた。
あんなに幸福なことって最近なかった。
でも今は先生の部屋にいる。思いがけなく。
もう、何をどうしたらいいのか分からないくらい緊張している。
「……で?ココア五杯飲んで帰ってきたのか?」
親友の柊浩二が、あきれ果てた顔で俺を見る。
「うん…」
四時限目が終わり、教室は昼休みになり、クラスメートたちは昼食の準備にいそしんでいる。
「お前、その潔癖症どうにかしな。そうしないと先生と恋人にはなれねーぞ」
「こいっ、こい?! な、何言って…、」
浩二が顔の前でハエでも払うように手をパタパタさせる。
「あーハイハイわかってます。でもマジでひどいからお前。こないだのだって…」
「う……」
こないだの、とは、クラスの男の友達内で下ネタで盛り上がっていた時のことである。僕が顔をタコみたいに真っ赤にしてそこを抜けだしたら、浩二にそれを見とがめられたんである。
「修行僧かよ、お前」
「うう」
「ちゃんと考えろ。自分のことだろ」
「…うん……」
浩二は、いつも何くれとなく気を使ってくれる。
親友だ。
今日も、購買であぶれた俺の為に、メロンパンと焼きそばパンを進呈してくれた。
「美味しい? 春」
もぐもぐ食べながら返答する。
「うん! サンキュ」
「うん」
浩二はなんだか変わっている。
ふらっと俺を訪ねてきて、「何?」と訊くと、困ったようなはにかんだような顔でしばらくだまりこくって、結局どうでもいいような話――お前の好きな本を貸してくれ、とか――をしていったりする。
あのとき何か思いつめた表情だったけど、どういうわけだろう。
焼きそばパンを食べながら、窓の外を見る。
また小雨が降っていて、少しだけ明るい曇り空が、広くぽっかりとあいた校庭の上に広がる。
教室のざわめきは遠くなる。
初めて先生を見たとき、びっくりした。
自分の持ってないものを、全部兼ね備えていたから。
大人で、冷静で、物静かで、体育の先生でスポーツ万能、知的で(それは眼鏡のせいもあるけれど)カッコいいし、女子からは憧れの目を向けられ……。
こんなお兄さんがいたらいいのに。僕は一人っ子で…。
そんな風に思ったのが最初だった。
それが恋だと気付くのに、少しかかった。
いつもいつも目で先生を追っていて、あまりそんなことはないけれど、偶然に目が合うと頬が燃えた。ドギマギして、息が苦しくて、体中が「すき」って叫ぶみたいだった。
男の俺が男の人を真剣に想うなんて、おかしいかな。だから、誰にも打ち明けていない。浩二にはバレているようだけど。
この間の雨の日、ちょっとメソメソしたのには理由がある。
俺には父親がいない。正確には生き別れた。
ついこの間両親が離婚して、高校入学ののちに母親に引き取られたからだ。
先生はいつもやさしい。
だけどそれは、先生たちの間で、俺が家庭で寂しい思いをしている、という共通の認識があるからだろうな。そう思ったらなんだか、泣けてきたんだ。
学校から家に帰ると、部屋が暗くて居間のテレビだけついていた。
「母さん?どうしたの?」
母さんはうつろに、居間で洗濯物の山に囲まれていた。
それは途中までたたんでやめてしまったもののようだった。
「……春」
「暗いから、電気……」
「暗い方が落ち着くの」
母さんが細い声でつぶやく。
何も言えなかった。
結局俺は何もできないんだ。母さんを立ち直らせたいけど、俺には無理だし、父さんを以前のように、元に戻すこともできない。
俺は、役立たずだ。
黙って部屋に入り、鍵を閉めた。
誰かに助けてほしい。でも、みんな自分のことで忙しくて、他の人間のことはかまっていられないんだ。母さんも、父さんも。俺だって……。
翌日の朝起きてみると、洗濯物はたたまれていたけれど、母さんは黙りこくっていた。俺が話しかけると「ええ」「いいえ」「そう」とはいうものの、母さんの方から僕に話しかけることは一切なかった。俺は重苦しい気持ちに耐えながら、適当に朝ご飯を食べ、学校へ向かった。
「お前、顔色悪いぞ」
浩二が俺を気遣ってくれる。
「…そう?」
「顔真っ白だぞ。次の時間休んで、保健室いって寝て来いよ」
「ううん。次っていったってホームルームだから、でる……」
「馬鹿!」
浩二が強く言って、俺の手首をつかんだ。
「来い」
「え?」
「いいから」
ぐいぐい手首を引っ張られるので、自然に体が前に進んだ。
もつれる足で小走りになってついてゆくと、保健室の前に来た。
「失礼します。先生……いないのかよ」
保健の先生は席をはずしているようで、がらんとした保健室には、白いキャビネットとテーブル、本棚にいろんな資料が詰まっていた。ひとつづきの準備室にも、人気が無かった。
「春、お前、ベッドで寝てろ」
「でも……」
「いいから。ちゃんと寝てろよ」
有無を言わさず、そのまま速足でどこかへいってしまう。
俺は仕方なく白いシーツをまくって、硬いベッドで横になった。
浩二の気遣いが、胸にしみた。
朝ご飯を適当にしたからだな。もともとちょっと鉄性貧血で、健康診断があるといつも引っかかるのだ。
と、人の気配がして、僕はそちらに目を向けた。
「…え、先生」
神崎先生だ。
ホームルームの時間なのに……。
「お前、気分悪いんだって? 大丈夫か?」
「先生だってホームルーム……」
「今、柊からお前のこと聞いて。ホームルームは副担に任せてある。眠ったほうがいいのか?」
わざわざ駆けつけてくれたんだ。浩二が、俺にチャンスをくれたんだ。
申し訳なさと嬉しさがごちゃ混ぜになる。
「眠くはないけど、ちょっと、だるい……」
「じゃあ、横になってろ」
先生の体温を感じるくらい、先生がそばにいて、この緊張と興奮を、どうしたらいいんだろう。
「お前、その…」
「……え?」
「最近、ちょっと疲れてないか。この間俺のうちに来るときも、下ばっかり見てたよな」
「……」
「食事とかちゃんととってるのか」
「う、うん」
先生の気遣いが、僕の胸を突いた。なんだか熱いものが込み上げてきて、俺はうつむいた。
絶対泣きたくない。男なのに、めそめそ泣いてなんかいたくない。
だって、俺は母さんを守らなくちゃならないから。
かわいそうな母さんを、助けてあげなくちゃ。
「…親御さんのこと…」
先生が言いにくそうにつぶやいた。
「大変だったな」
俺は場を取り繕おうとした。
「別に、平気。父さんだってあの方がいいんだし……」
「俺は、詳しいことまでは知らないんだ」
「うん……」
「お前から話してくれないか」
「……俺の父さんと、母さん、離婚したの、先生知ってるよね」
「それは聞いている。でも、理由までは……」
「父さんが、精神病で…統合失調症で。先生知らないかもしれないけど、めずらしい病気じゃないって、病院の先生が言ってた……」
「……そうか。お前はそれでまいってるのか?」
「ううん、父さんが入院してからは、そんなに大変なことないんだ」
「おふくろさんは」
「……」
「言いたくなければ、言わんでいいぞ」
俺は歯を食いしばった。
泣きたくない。
なのに、心が先生にしなだれかかりでもするように、「たすけて」っていいたくなる気持ちが喉元まで出かかって、雫が一つこぼれてしまうと、あとはとめどなかった。
先生は手を伸ばして、俺の頭を撫でてくれた。やさしかった。俺は何も言えなかったけど。
先生っていつもやさしい。
世界中の人が、先生みたいだったらいいな。誰も傷つかないで、平和だろうな。
気が付くと、泣き疲れて、どうやら保健室のベッドで眠り込んでしまったようだった。
窓からの景色では分からないけれど、今は白い時計を見ると午後三時。
先生は変わらずそばにいた。
「…ごめん、俺、眠ってた?」
「ああ。疲れが出たんだろう」
「先生…」
そばに、いてくれたんだ……。
「もうそろそろ、帰るか」
「うん」
それから二人で下駄箱のある玄関まで行って、靴を履き替えると、先生がしゃがみこんで「ほら、おぶされよ」と言った。
俺は気が動転して、また顔まで血が上って、必死で顔を振った。
「……いい!!いいから!!」
無理だよ。そんなことしたら俺、死んじゃうよ。
抵抗していたら先生が立ち上がって、こちらに手を差し出した。
「ほら」
うう。
結局手をつながれた。
自分の手汗がすごい。先生、気持ち悪くないかな…。
すぐに自分の家が見えてきて、学校のそばじゃなければよかった、と思った。
俺は先生の手を離して、「ここで、いいから!!俺、平気だから!!」と言った。
「お前、顔真っ赤だぞ…」
「平気!!だから!!」
往来で、先生も面倒に思っているかもしれない。
そう思って唇をかむと、神崎先生が思いがけなく、俺の唇に触れた。
「……!!」
俺がとっさに飛びのくと、先生が「すまん」とだけ言って、手が離れていった。
い、今の、何??
「…俺じゃ力になれんか」
「……え」
「お前の今、つらい気持ちを助けてやりたい」
「それは……、父さん、みたいに…?」
先生は困惑したような顔をして、「父親にはなれないな」、と言った。
「あのね、先生」
「うん」
「先生といるだけで、俺、すごい嬉しい。先生はいつもすごくやさしいし、寡黙だけどいろいろ気遣ってくれてるの、判るし。そういうの、すごく嬉しい」
息をつかずにそういうと、息が切れた。馬鹿みたいだ。
「ああ、もう。……知らんふりしてようと思ったのに」
そう言った先生の手が伸びて、俺の肩にかかった……と思ったら、引き寄せられ、キスされる…と思い目をつぶったら、単に抱きしめられただけだった。
「せ、先生……?」
「お前が悪い。隙を見せるから」
「先生、」
「ごめん」
そう言うと、先生が離れていってしまった。
「俺、教師失格だな」
首を左右に振った。
「お前、俺のこと好きか」
「……!」
「好きだろ」
「…す、……」
目を白黒させていると、先生がふふっと笑った。
「俺も好きだ」
「…えっ…」
オレモスキダ、っていった?
それ、どういう意味?
……「俺も好きだ」、ってこと?
先生が俺を、好き……?
先生の言葉が頭の中を駆け巡り、それを理解するのに少し、時間がかかった。
「これ以上は、お前が大人になってからな」
大人…。
「……それ、いつのこと?」
「少なくとも卒業してからだ」
「俺、……今がいい」
俺はまたしても泣いてしまった。
「今じゃなきゃ……」
「辛いのか」
泣きながら目をつぶって頷いた。
「…ひ、…ひ……」
「ん?」
「みんな、に、ひ、秘密に、する、から…」
「――」
「…だ、め…?」
「そんな、可愛いこと言うな」
今度こそしっかりと抱きしめられ、先生にキスされた。
思いを込めるような、長いキス。
そして、口元への熱が離れていって、俺は涙をこぼしながら、先生を見上げた。
「泣くなよ。いじめたくなるだろ」
「い…いじめられてもいい…」
「バカ」
もう一度抱きしめられて、キスされる。
「大人になったら、先生、俺と付き合ってくれるの?」
「そうだな」
「じゃあ、約束して」
「ああ」
「も…もう一回、キス、して……」
先生はしばらく、笑っているような困っているような、何かを押し殺しているような顔をしていたけれど、僕を抱き寄せて、深くキスをした。
「んっ…ん…んんっ…」
先生の舌が俺の舌に絡んで、すごく変な気持ちになって、俺はぼうっとした。
「初めてか。キスしたの」
「えっ…?うん、」
俺はほとんどパニックになっていたから、逆に突き抜けて感覚がマヒしてしまい、強烈な刺激は腰から足の先に抜けていったようだった。
「…先生のキス、やらしい」
「男はみんなやらしいんだよ」
「お、俺も男だもん」
「お前、なんか罪悪感もってるだろ」
「…え」
「お前すごいオクテだよな。なんでそんなに怖がるんだ?」
「あ、あの…。…昔…俺が小さなころ、まだ小学生の5、6年のころに、俺…その、痴漢にあって…。誰にも言えなくて、男のくせに情けなくて……」
「情けなくなんかないだろ」
「う……ん。でも……怖くて」
「俺も怖いのか」
黙って目を見開いていると、先生がもう一度言った。
「俺もか?」
「ううん、先生は、全然怖くない…」
「そりゃあ良かった」
「……」
すごくもどかしかった。
先生のこと、こんなに溢れるほど好きなのに。
大好きなのに。
雨が降ってきた。
雨は毛布のようにって、誰の曲だったかな。
雨は高い気温で湿気になり、俺たちが抱きしめあっていると、互いのにおいを強くさせた。先生のにおいは、どこかハーブのような、爽やかですうっとしたいいにおい。俺のにおいは、自分ではわからないけれど。
涙が雨に混じり、俺はいつまでも先生に体を預けて、じっとしていた。
二人とも、黙っていた。
雨音はすべての物音を吸い取って、しばらく俺たちを包んでいるようだった……。
最後まで読んでくださってありがとうございます。今後の創作の励みとなりますので、評価をぜひお願いいたします。