知らなくてもいいこと
ぽつぽつと、雨が降ってきていた。
大降りではなく、まだ小降りだった。
これからもっと降るのだろうかと、彼は思った。
「日曜日に雨かぁ。なんかテンションさがるなぁ…」
普段からテンションが高くない彼のテンションがこれ以上落ちてしまったらどうなるのだろう。
自室の机にべったりと頬をくっつけて、彼は窓の外をじぃ〜と眺めている。
「退屈だなぁ…。何もすることないし、何もしたくないけど。…退屈だ」
耳鳴りがするくらいに部屋は静かだ。
外は雨の音だけだし、部屋には一人しかいないのだから当たり前である。
「ああ〜、ホントに退屈だよぉ…」
彼はふぅとため息を吐き出す。
実はこれが今日初めてのものではなく、もうすでに連続でつきだして一時間はたっていた。
キィ…――。
ゆっくりとドアが開いた。
彼は机に頭を預けたまま、のそりと首をドアのほうへとめぐらせる。
その視界には1人の少年が映っていた。
「にぃちゃん、あのね…」
おずおずとした口調で喋りだしたのは先月七歳になったばかりの彼の弟である。
彼は目許を和ませて、口を開いた。
この弟は遠慮がちで言いたいことを上手くいえない子だ。
だから、言いたいことを促してやる人が必要なのだ。
「ん、なんだ?どうした、涼」
「ぁ、あのね…にぃちゃん…」
「…ん〜、一緒に遊んで欲しいのか?」
そう言うと弟は首を横にぶんぶんと振った。
「そういうんじゃないんだ。あのね、たいくつなんだよ。とくになにかしたいわけじゃないんだけど…」
彼は目を数回ぱちくりさせた。
「じゃあ、お兄ちゃんと一緒だな。お兄ちゃんも退屈なんだ」
今度は弟が幼子特有の大きなその目を数回ぱちくりとさせた。
彼は可愛いなぁと破顔する。恐らく知らないだろうが、そういう彼も可愛いなーと他人に破顔されてしまう対象である。
「そうなんだ…。じゃあさ……」
「うん?」
「じゃあさ、おれとアイスかいにいってくれる?」
駄目かなと上目遣いで聞かれた彼は、少し逡巡したあと快く答えた。
「いいよ。買いに行こうか、涼」
弟は彼に満面の笑顔を見せた。
「うん!!」
――雨が降ってるけれど、お兄ちゃんと一緒に行くか――。
「じゃあ、いってくるね、おねえちゃん!」
「うん。行ってらっしゃい、涼」
弟は長靴をはいて立ち上がった。
そして、玄関までわざわざ見送りに来てくれていた姉を振り返り、嬉しそうに笑う。
ふと、弟の隣に立っていた彼と目が合ったと思った途端、彼がにやりと、いやらしげに笑う。
姉は鬱陶しげに目を伏せた。
「かわいそうにね、聖美さん」
「――何がよ、葵くん」
「なにがって…。だって、聖美さん一緒に行きたいんじゃないの?」
「別にぃ…」
「意地張っちゃってぇ…。誘ってもらえなくて拗ねてるんでしょ?」
すると、姉に睨まれてしまった。
彼はクスリと一笑した。
そんなことくらいでは彼はおくさない性分であった。
だから、そうして姉の睨みをさわやかに受け流して見せると、弟の手をぎゅっと握って玄関の外へ出て行こうとした。
その時だった。
「おねえちゃんも、いっしょにいく?」
彼は目を軽く瞠った。
彼は目線を少しだけ落とすと、一つため息をつく。
彼の視線の先には自分と繋いでいないほうの右手があって、弟は彼と繋いでないもうひとつの手で、姉の手を握っていた。
姉は驚いているようだった。
何故なら、引っ込み思案の弟が自らの意思で一緒に行こうと誘ったからで――。
「いっしょにいってくれる?」
「……うん」
姉はもちろんと返事をした。
彼は小さく舌打ちをする。
「チっ。二人だけで行くはずだったのによ…」
誰にも聞こえないように小さく舌打ちしたつもりが舌打ちした相手には聞こえずに、別に聞こえなくても良かった弟にだけ聞こえていたらしく、
「おねえちゃんもいっしょにいっちゃだめかなぁ…?」
不安気に聞かれて、彼は弟がそういうならばとしぶしぶとだが頷くざるをえなくなった。
「いい、よ……」
「やったね!おねえちゃん、いっしょにいけるぞ!」
「うん。一緒に行けるぞぉ!ねぇ、葵ぃ〜」
ニヒヒといやらしい笑みを浮かべた姉が馬鹿にした仕返しとばかりにわざとらしく視線を送ってくる。
彼はふんと顔をそらしただけで姉に対しては何も言わなかった。
悔しかったのだろう。
彼は傘を持つと、玄関を出た。
「よし、行くぞぉ!アイスを買いに」
弟は姉の手をひぱって、傘を開いた。
「うん!!行くぞぉ」
三人は雨がぽつぽつと降る外を歩き出した。
一番下の弟は大好きな上の二人の手――右手に兄の手を、左手に姉の手を握り締めて歩き出した。
ぽつ。
パタパタ…――。
雨粒が絶え間なく空から降ってくる。
冷たさから身をかばう傘をさして歩いている彼は、身を濡らそうとする粒を鬱陶しがることもなく、その音を楽しみに変換して歩いていた。
ぽつぽつ…――。
パタパタ…――。
また、傘が雨粒を弾く。
その音が心地良いと思いながら、彼はゆったりとした足取りで地面にぶつかって、はねていく雨を見ていた。
大雨ではないが、小雨でもない雨。
弟と手を繋いでいると、その歩幅にあわすという癖がしっかりと身についている彼と姉は、今回も自然弟にあわすという形になっている。
弟にとっては晴れの日にははけない長靴がはける雨の日が特別であるようだ。
ばしゃばしゃと雨を弾いて、水溜りの中にも突っ込んでいく。
「あんた、今回も鼻歌歌ってるわよ。…気づいてた?」
「あ……」
彼は雨の音に聞き入ってると、我知らずの内に鼻歌を歌ってしまうという変な癖がある。
どうやら今回もその癖が無意識に働いていたようだった。
そして、いつもそれを彼に気づかせるのが姉の役目なのだ(別に決まっている訳なのではないが、ただ単に毎回指摘していたのが姉だったというだけの話であるのだが)。
彼は不愉快そうに顔をひそめた。
「もう、喋っちゃ駄目じゃん。せっかく、いないと思えたかもしれないのにぃ…」
「あんたもしつこい子ね、葵。諦めなさい。涼が自ら進んで、私を誘ったんだから!」
勝ち誇ったように笑う姉を横目にじろりと一瞥すると、涼と繋いでいないほうの左手を彼はぎゅっと――いや、ぎりりと姉の手を力いっぱい握り締めた。
「っ!!?」
姉は突然のことに舌を噛んでしまった。
力いっぱい握り締められた右手より、自分で思い切り噛んでしまった舌のほうが痛い。
涼に気づかれないためにうめき声こそは出さないが、顔は抑えようもないジンジンとした痛さに顰められている。
彼は姉が顔をしかめさせたのは、力いっぱい握りこんだ手のせいだと勘違いして、クスクスと実の姉を嘲笑う。
姉はそれを少し涙目で受け止め、毅然としたまなざしで彼を睨み返す。
だが、彼はそれをまたしても鼻で笑うだけだった。
「葵ぃ〜…それ以上笑うと、お姉ちゃん怒るわよ――?」
「今はどうですか――怒ってますか?」
挑戦的な態度で、彼は尋ねてくる。
「……どうかしら。あまりしつこい男はもてないわよ」
彼と姉の間――素直で愛らしい弟を真ん中に挟んでバチバチと見えぬ火花が飛び交う。
「そうですか…。あー。でも、どうでしょう――俺に言い寄ってくる女が絶たないんですけど」
普段鬱陶しいぐらい近づいてくる女は大抵彼に間違った自己満足な脳内的妄想を抱いている。
彼は縛られることが大嫌いな性分だ。故に彼が自ら女に近づくことはまずない。
付き合うことになるのは彼がぼーぅとしていて話を聞いていないからであって、決して好きだという感情があったわけではないのだ。
自分と彼女の心が同じだっということは一度だってないのだが、彼は色々な女と無駄に付き合ってきたことを初めて今日、少しだけ感謝する。
これは余談だが、姉はしつこくてはっきりとしない男が大嫌いなのだ。そして彼がそれに当てはまるかといえば否である。
どちらかというと彼はあまり物事にも他人にも頓着しない、執着しない人間だ。
涼と姉だけは例外だったりするが、姉とは涼を取り合ってきた仲なので邪魔な奴と認識されており、姉にだけはしつこかった。
本当の意味でのもてるということを自覚している訳ではない彼だったりするので、『付き合ってた人がたくさんいるってことをもてるっていうのかなぁ』と思っていた。
「へぇ、そうなの?でも、それってただのお友達ってことなんじゃないの?言い寄られてるって、それ、自己過信なんじゃないの」
彼は渋い顔をした。
姉はほぉ〜らと、満足げに目を眇める。
だが、次の瞬間、姉は我が弟の言葉に耳を疑うこととなるのだった。
彼は渋い顔から困惑げな顔、そして何か気づいたようなそれに変えて口を開いた。
「そっか…!聖美さんの言うとおりだよ!言い寄られてるんじゃなかったんだ、あれは…――。俺が1人になると好きだとか、抱いてとか、格好良いとか…か、可愛いとか……――。たまにすごい赤面モノのこととかも言われたり、されたりしたけれど、あれは全部俺の自己過信なるものだったんだね!!」
「………ん――?」
姉は耳がおかしくなったかなと瞬時に思ってしまった。
「あれ、どうしたの?聖美さん、聖美さん…?」
先ほどまでとは打って変わって本当に朗らかに笑う彼は、難しい顔をした姉を覗き込んだ。
「聖美さんってば!」
姉は元の世界に戻ってきた。
どうやら自分でも気づかぬうちに夢の世界の一歩手前にまで旅立ってしまっていたらしかった。
「…え、ぁ…な、何かしら…?あ、葵くん」
「何かしらって、それはこっちの台詞だよ。どうしたの、なんか挙動不審だよ」
心配そうに気遣ってくる良い子に戻った我が弟に、なんでもないと答えてとりあえず笑っておく。
しばらくして、姉は意を決した様子で口を開いた。
「あ、葵はさ…あの、その…何…――誰かとやっちゃったことってあるの、かなぁ?」
彼は不思議そうに首をかしげながらそれでも答えた。
「ん〜。やっちゃったって、何を?」
質問に質問を返すという返り討ちにあったが。
とっても答えにくい、すごく質の悪い質問返しにされたが。
姉はくっと声を漏らした。
これは知らないのかもしれない。
これはまだなのかもしれない。
では自分は自分で墓穴を掘ったのか。
どう答えたらいいものか…――。
このパターンは親が子供に『赤ちゃんはどうしたらできるの?』と訊かれて言葉に詰まるというパターンではないか。
まだ子供だったなら、『男の人と女の人とが愛し合って、結婚したらできるんだよ』と答えられるのだが、如何せん十七の男の子にそんなことを言っていいものか。
いや、言っても信じないと思いたいのだが、我が弟はあっさりと何の疑いもなしに信じてしまうという可能性が高い。
この歳でそんなことを教え込ませていいものか、信じ込ませていいものか。
上の弟に解放されたばかりの左手片手で頭をおさえながら、何とか答えようとする。
しかし、何度も開きかけた口は何も紡ぐことなく、何かを喋ろうと思うのに何を言えばいいのか分からないのだ。
「聖美さん、やっちゃうって何?…知ってるんだろ」
何も知らない弟はそうして姉をどんどん追い立てていく。
姉はぐるぐると頭がおかしくなってきて、ついには変な汗までかいてきた。
口の中が乾いていく。
ごくりと生唾を飲み込むと、姉はひとつ深呼吸をした。
「ぉ、男の人と女の人とが体を重ねること…。葵、気をつけてね?私の言ったことでちがったんだってなんか納得しちゃってたみたいだけどさ、葵のさっきのは確実に言い寄られてるんだと思うから…。女の人って時にはすごい力を発揮するから」
心配そうに顔を翳らす姉も時にはすごい力を発揮する同じ女である。
「そ、そうなんだ…。ん、でも言われてみればそうかもしれない。もっと気をつけたほうが良いね、俺」
何を思い出して言っているのか――少し恥ずかしそうだった顔が見る見るうちに赤く、りんごのように染まっていく。
「――何を思い出してるの?」
姉は彼の顔を凝視しながら、訊いていいものかと思いながらも聞きたいという欲望、または好奇心には勝てずに恐る恐るとだが口にする。
「――……」
彼はなんとも曖昧な顔を作ったが、しばしの沈黙のあと、やがて答えてくれた。
雨がぽつぽつとまだ降っている。
彼は雨音に耳を傾けながら、前を見据えてさらりと言った。
「昔付き合ってた人にね、無理やり服を脱がされたことトカあったなぁーって思ってね…。あの時はとって喰われるかと思ったよ、本当に」
「…………っ!?」
彼の言葉が右から左へと通り過ぎていった。
その声音があまりにも静かすぎて、姉は『へぇ、そんなこともあったんだ』と相槌を打ちかけて、『ん、何かおかしかったぞ』と言葉が頭を反芻すればもう驚きの域を越している。
肩がわなわなと震えてくる。
我が弟の言葉によって、衝撃の事実を悟らされた。
自分より年下なのに、もしかして自分より人生経験豊富?!
「む、昔付き合ってた人って誰…かな?私も知ってる人?」
「うん。知ってるも何も俺を脱がせて喰わんとしたのは、聖美さんの友達の松本瑛子先輩だよ。…あれ、知らなかったの…?」
ガビーン…――!
変な効果音が耳をつく。
先程よりも更に信じられない衝撃事実が彼によって告げられる。
あの、大人しくて可愛らしいあの瑛子が、自分の弟を喰おうとしただなんて…。
小さい弟を挟んでその隣でいる彼は何事もなかったように(それは当たり前であろう。彼にとってはもうかなり昔の過去の話であって、整理された過去の出来事なのだから)、雨音を楽しんでいる。
その証拠に何かの鼻歌を歌っている。
前々から誰かに襲われはしないかと心配していたが、まさかもう襲われていただなんて(しかも彼の姉である聖美と同い年の瑛子に)。
貞操は無事なのかしら。
男の子なのに、何で貞操は無事かしらトカ、変な心配をしなくちゃいけないの。
操はトカ、そんなのは無粋だから訊けないけれど、せめて貞操の無事だけは(健全なちゃんとした男の子としては奪われることなんて普通はないんだけれど)、確かめておきたい。
「だ、誰かに変なこと、されたりしてない…?べたべた触られたりとか、もまれたりとか…」
何を言ってるのだろうと、姉は自分がこの話を展開させているのだと知ってはいるが思う。
「聖美さんは心配性だなぁ…。そんなことはないよ、一度だって」
「…なんで?襲われたり、するんでしょう?」
「うん。襲われたりとか、ホント、情けないんだけどよくある。けどね、『ぁ、もう駄目かも』って思ったときに必ず、誰かが助けに来てくれるんだよね(女の子ばかりだけれど)」
「なんで、場所分かるの?」
「それは、そこ――襲われるところが今まで全部学校だったからなんだよ。だから、助けに来てくれるって言っても偶然通りかかっただけだと思う。じゃないと、誰かが俺のあとをつけてきてるとか?…はは、そんな訳ないよなぁ」
「――多分それ後者じゃないかな」
姉はぼそりと言った。
だから彼には聞こえていない。
冗談こそが本当だと、彼が気づくことはおそらく一生ないだろう。
「にぃちゃん、コンビニついたよ!」
弟が彼を見上げて笑う。
彼はそっかと笑って弟の手を引いて店内へ入って行く。
姉も弟に手を引かれ、それにつづく。
姉の今日の収穫→涼が自らの意思で自分を誘ってくれた。
葵を襲った昔の彼女が、自分の――大人しくて可愛い容姿をもつ友達だと知った。
人生、知らなくてもいいこともやっぱりあるのだと知った。
彼は実の姉をライバル意識しています。
小さい頃はそれはもう『お姉ちゃん、お姉ちゃん』と、聖美さんの後ろを追いかけていましたが弟が生まれた途端、お姉ちゃんっ子は卒業して、立派なお兄ちゃんになったんです!
彼は唯一弟の涼を溺愛しており、妹同然に扱われていた結もまた涼を本当の弟のように…つまりは兄弟同然に接しています。
姉は今ではすっかりライバル意識されてしまって少しどころかかなり寂しさを感じていますが、可愛いもう一人の弟に彼同様骨抜きにされています(笑)!
ビジュアル面で言えば、やはり皆から愛される…だけど、本人自覚なしの彼が一番で二位は綺麗な聖美さん。三位は末っ子の愛らしい涼。