彼という人
屋上での出会い(再会)から三日がたった。
彼は困っていた。
困っているがどちらかというと、悩んでいるという様子であった。
「…――うーぁー…」
教室の片隅――窓際の前から三番目の席で机に顔をうずめて、彼はうなっていた。
彼にしては珍しいことである。
それは自分でも自覚している。
柄にもない声を上げていると思っている。
だが、うならずにしては居られなかった。
「…どうしたんだよ、葵。そんなにうなり声上げてさぁー」
声をかけられて、彼はちらりと声の主を見上げる(机に伏せった状態である)。
親友の、いつも呑気なその声はしかし、いまは呆れたようなそれに変わっていた。
「…いや、別に、なにも…。」
「いや、なにかあるだろ…その様子からして。だから、今俺がこーして訊いてるんだろ」
「あ…そ、うか。俺がうなってたからお前が訊いたんだっけか…」
彼はそののままの意味を繰り返す。
奏はそんな彼の様子に呆れたと、今度はため息をついた。
彼は軽く眉をひそめた。
「なんだよ、そのため息ぃー…。それって、今さっき俺が言ったことに対してのため息かよ?それともなにか?お前、なにか悩みでもあんのかよ」
「いや、特にはないって。俺が葵に訊いてんの、分かる?」
「なにが?」
「だーかーら、なにか悩みでもあるのかって訊いてるんだよ――!頭、悪くなったのか?」
彼はむくりと顔をあげると額に手を置き、目にかかる邪魔な前髪をかき上げる。
そして鬱陶しそうに片目を眇めて、不快に眉をひそめた。
ふと、教室の奴等の視線を感じた。
そちらにゆっくりと視線をやると、男女問わず自分を見ており、こちらを見られたことに気づくと皆が皆一様に固まるものだからおかしい。
それが一体何故なのか分からなかったりするのだが、彼は心の中で、感嘆の声を漏らした。
おぉー!
瞬間的に動かなくなるなんて、うちのクラスのコンビネーションはバッチリだな!
ほんとにこのクラスになれてよかったという呑気な思いから視線はそのままにして笑むと、それを直視してしまった幾人かがその場にクラリと倒れた。
が、そんなことには気づかずに額に手を置いたまま、机にひじをつき、彼は奏と向き合った。
なにか切羽詰った声があちらこちらから聞こえるが、そんなもの気にしない。
奏はニコニコと笑う彼から視線をはずし、一度教室を見渡した。
「ん、どうした?なにか面白いものでもあるの?」
視線を元に戻して奏はひきつった笑顔をこぼした。
「面白いものって…――。いや、何も…。っていうか、お前いまの教室、何も思わないのか?」
「う〜ん…そうだなぁ…。しいていえば、人が鼻血出して倒れてるとか…?うちのクラスって近いうちに劇でもやんの?」
なんだ、気づいてたのか。
そのわけまでは知らなさそうだけどな。
――ていうか、劇なんかやらねぇーよ。
そんな案、いつ挙がったっていうんだよ。
そんなことをする行事も予定も…休まず毎日学校来てるけど聞いたことねーよ、バカ。
「あ。俺が人が倒れてるの知らないとかって思ってた顔だな〜。いくらなんでも気づくって。ばーか」
どうやら、倒れた瞬間は見ていなかったらしい。
しばらくしてさすがに気づいたってクチか――。
周りのあわただしい声をバックミュージックに、クスクスと彼は何がおかしいのか笑い出す。
「何笑ってんだよ」
「今日は貧血者が多いなって思ってね。ほら、みてみろよ」
それ、きっと多分…いや絶対貧血者とかじゃないからとは思いつつも、奏は今度は体ごとそちらを振り返った。
では、奏と彼が聞いている、見ている教室の惨状を――。
「わー、近藤が倒れたぞー!!」
何人かの人たちがばたばたと教室を出て行く。
――先生を呼びにいったのだろう。
近藤は、鼻を押さえてうなっていた。
ちなみに、近藤は立派な体格の持ち主でれっきとした男である。
それとあと、付け足すと、生理的な現象で鼻血は通常出ないものである。
――なのだが、血の気が多いのか近藤は彼を見て鼻血を噴出した。
「う〜ぁ〜〜っ、橘がぁ〜」
「うん、うん、わかってるよ。分かってるからもうしゃべらないで!」
その手を握り締めて目じりに涙を浮かべて笑っているのは、近藤の彼女である。
その彼女も泣いているせいか、はたまた別の要因――近藤が倒れている理由と同じせいなのかは定かではないが、、顔がすごく、すごく赤い。
先ほど教室を出て行ったひとりが戻ってきた。
「おい、保健室に連れてこう!もう保健室には先生呼んであるから」
なんという情けない話だろうか。
そんなことでいちいち生徒の面倒を見る破目になる保健の先生も可哀想に…――両者とも気の毒だ。
「おう、わかった。行くぞ近藤、立てるか?」
それに近藤は緩慢にうなづく。
「じゃあ悪いけど、誰か付き添ってやってくれないか」
「は、はい!あたしが行くよ」
そう言ったのはもちろん、近藤の彼女である。
「あと、何人いる?」
「まだ十人はいるぞ!」
「マジかよ、今日のは特にすごかったからなぁ」
男子は十三人。女子が十五人。計二十八人である。
これでは午後の授業が出来るのか…心配である。
そのうち十三人が重症で、鼻血ぶーだ。
残りの十五人は皆女子だ。
鼻血を出したのは男子だけで、女子は人が大勢いる前で鼻血など考えられない――恥ずかしいと思ったのか、全員何とか気力と根性とで鼻血はまぬがれていた。
幸せを得た代償として、教室に残っていた奴等(只今、休み時間中)は、ほぼ倒れてしまったのだった。
皆、一時の眼福を味わったのだ。
これくらいの代償であの幸せが得られるのであればいくらでも払ってやろうではないか。
まさにこのクラスのコンビネーションはバッチリだった。
単純にただバカなだけだったのかもしれないが。
「なぁ、今さらって気もしないでもないんだけれど…さぁ」
何か言いたそうにしているが、歯切れが悪い親友の背を押すかのように彼は言葉をつむいだ。
「何だ、いいたいことがあるのならはっきりと言えよ」
「――お前、さっきまで何うなってたんだ?」
「え…ああ、あれね…。自動販売機にな、好きなジュースが三本あったんだよ。だけどな、そのうちの一本が売り切れてて…。人間ってちょうどないものを欲しがるって変なとこ、あるじゃん?俺もな、そのなかったジュースが飲みたくなってしまって――」
「はぁ…?なんだよ、そんなくだらないことかよ」
「くだらないって…。俺にとっては立派なため息の出る原因なんだぞ?それをお前がくだらないって決めることじゃないだろーが」
やけに説教ぽく言い諭す彼に適当に相槌を打っていると、担任を呼びに出て行った何人かが、その担任を連れて戻ってきた。
「うっわ、こりゃぁ…また、ひどく派手に鼻血撒き散らしたもんだなぁ」
呆れに混じって、半ば感嘆の声が担任から漏れる。
カリカリと後ろ頭をかく三十後半の担任は未婚の独身でさっぱりもてない男だ。
ちなみに、この担任もこの教室の奴等と同じでその場に居合わせれば生徒同様、授業中であっても彼の微笑を見てしまうと鼻血だらだらである。
担任の威厳はどこへやら…。
そんなものクソくらえだ!
美しいものを見るのにそれが邪魔だと言うのならそんなものいくらでも捨ててやるさ!
そんなこんなで担任の威厳はとうの昔に消え去ってしまった。
「橘ぁ〜、お前サービスしすぎだぞ?相変わらず罪深い男だなぁ」
急に話を振られたが、彼には意味がさっぱりである。
クラスのやつらの会話を聞いていたときも思ったのだが、そもそもとして、自分は全く関係ないのではと、思うのだが…。
首を傾け、意味は分からないがと思いつつ、彼はそれでもとりあえずと曖昧に頷いておいた。
「はぁ、わかりました。」
その隣で奏は目をふせた。
「はぁ…」
心の中だけで奏はつぶやく。
コイツ、ぜんぜん分かってねぇーな…――。
彼は周りに頓着しません。
だから、周りに無駄な愛想は振りまきません。
ですが、何故か皆に愛される要素に溢れた得なお方です。
近藤にはちゃんと彼女がいますが、それでも彼を見ていると、つい気持ちが揺るぎそうになるみたいです…アブノーマルな世界に旅立ちそうになるみたいです(苦笑)。
それを必死で繋ぎとめているのが健気な近藤の彼女というわけなんですよ。
同じ男を見て鼻血など情けない、それはどうだろうかということは彼を目の前にしては通用しないのです!
因みに彼が好きなジュースというのは、桃ジュースと野菜ジュース、あとアロエドリンクです。
彼は意外に健康に気を遣うタイプなんですよ(ちょっと遣いすぎてたまに家族に怒られる。野菜中心に食べて、肉をあまり食べないから)。