フェイントの達人
「…あ。」
「……え。」
さわさわと秋の風吹く屋上で二人の男女の声が、重なった。
「えっと…そう、あのときの――…」
目の前の少女を指差して、彼はふわりと笑った。
「……憶えててくれたんだ」
先の言葉に、嬉しそうに彼の目の前の少女は俯き加減でつぶやいたが、生憎と彼の耳には聞こえなかった。
そしてこの後、彼の口からはこの喜びを裏切る言葉が繰り出されることを、この哀れな少女は知る由もない。
――彼はフェイントの達人であった。
「そう、えっと…あのときの――誰だったけ?」
「ぇ……」
少女は我が耳を、疑った。
そして、その場で凍りつく。
それもそうだろう。
分かっていない方がおかしいのだが(いまの言葉からして彼はきっと分かってはいないのだろうことが判明)、彼はこの少女に向かってわざわざ人差し指まで指してあたかも憶えているというような台詞を言ったのだから。
だから、この少女の反応はいたって実に正しいものであった。
だが、彼はそんな少女に軽く首を傾げただけで相変わらずのほほーんと、春の陽だまりを思わせる顔で笑っている(いまは秋なのだが)。
本当に人の気を知らないとはよくいったものである。
「ごめん、俺、どうも人の顔とか憶えるの苦手みたいでさ。よく、名前と頭に浮かんだ人とが結びつかないってことがあるくらいなんだ」
一体いつ誰がそんなことを訊いたのだ。
それともなにか?それは自慢か?
それほど頭に納まりきらないくらいの友人がいるとでも言いたいのか?
単に記憶力が低いだけじゃないのか?
「……」
少女は俯いたまま一言も発しない。
この目の前の少女をどこかで見たような記憶が確かにあるのだが、彼の頭の中にはいまだに整理し切れていない女の顔と名前とが積み重ねられてあり、彼はこれを半ば諦めていた。
要するに、分からなくてもいいかと放棄してしまったということである。
また、彼にとってはこんなことくらいはしょっちゅうなもので、いつしかそれが日常茶飯事に昇格してしまい、憶えておけばよかったと後悔もしなくなった。
そして、今に至る訳なのだが…――。
「う…。」
さすがにまずったかなぁと感じ始めたのか、彼はこの場をしのぐうまい言葉を探しているようだった。
少女にはそんな彼がおかしく映ったのか、はたまたそんな彼が憐れに映ったのか――まぁ、その真相は少女にしか分からないのだが――。
「憶えてないのなら無理に思い出そうとしなくてもいいですから…」
その言葉に、この場を見事に作り上げた張本人殿はひどく救われた。
その証拠にほっと息をついている。
だが、このままではやはり何か悪いと思ったのか、今更ながらの言い訳を口にする。
「ホントにごめんな…。俺、よく人に声をかけられることがありすぎて実は誰が誰とかあんまり憶えてないんだ(大半が女で、しかもそのうちの90%の確率で告白なのだが…)。憶えてないけど、何かひっかかって、思わず指を指してしまったんだけど…」
つまりは全く憶えてないんじゃなくて、そのシルエットがぼんやりと微かに残ってたと…。
「そうですか。それはしょうがないですね…。」
少女はそれについてなんら咎めたりはしなかった。
ただ、俯かせていた顔を上げて少し残念そうに笑うだけだった。
―――ドキン―――。
彼は自分でも珍しいと思う程、その表情にひどく目を奪われていた。
そして、少しの罪悪感を覚える。
―――憶えてて、欲しかったんだ―――
「……」
「……」
「……あの、名前…教えてくれる?」
彼がおずおずそういうと、少女は何故か少し戸惑った風を見せて、やがて嬉しそうに相好を崩した。
頬を見事な桜色に染めて――。
「は、はいっ!」
少女のいい返事に彼は破顔する。
「俺は葵――橘葵」
「私は春日志穂です」
「志穂…か――うん、よろしく!」
「よろしく、です」
「今度は憶えておくね」
そういうと少女は、ホントにほんの少しだけ目を瞠って、そのあとに目尻に涙を浮かべて破顔した。
「はい。私のことを憶えてて下さい」
「分かった。今度は忘れないよ、君のこと」
ヒロイン候補の登場です。
志穂は第1話にて一度彼にフラられていますが、まだ志穂は彼を想っています。
ん〜…。この回の志穂も可哀想ですね…。
思いっきり期待を裏切るような彼との再会だなんて。
でも、まぁ…他人に揺らぐことのない彼の胸がドクンとはねました、一瞬だけでしたけど。
これからどうなるのか…楽しみにしていてくださいね!