好きな人
『ちゃんと、その人のことを知ったら…もしかしたら、その人が案外好い人かもしれないから』
振り返った先にいた志穂が何か裏があるように微笑んだ。
『そうか…?』
それに対して、奏はあまり興味がなさげな素っ気ない返事をした。
あれはどういう意味だったんだろう。
「おはようございます、奏君」
にこりと笑ってこちらに挨拶をしてきたのは、見るまでもなく声を聞いただけで判別できてしまうほど親しくなった志穂だった。
奏は軽く笑って、手を振っただけだった。
あれから三日経ったが志穂とはあまり喋ってはいない。
先程のような軽いものなら何度かあったが、それでもやはり先程のように自分から何故か立ち去ってしまう。
奏は首をかしげながら、教室へと入って行った。
その後姿を見送った志穂は口元に薄い微笑を浮かべながら、身を翻し、二年とは別方向の一年教室のほうへとゆっくりとした足取りで向かった。
そして、昼休み。
彼が珍しく四時間目終了とともにそそくさと教室を出て行こうとしていたところを奏は何気なく呼び止めた。
「おう!どこ行くんだ、葵」
彼はあからさまに鬱陶しそうな表情で振り返ったが、気にしない気にしない。
これも彼の不器用なりの友情の証だと思って受け止めておかないと、いちいち気にしていたらこんな彼とは親友やってられない、緊急なら別だが…とそこはちゃんと割り切っておく。
彼は呼び止められた出入り口で一旦立ち止まって、だが通行の邪魔になると考えて廊下へ出て奏を手招きした。
そのちょいちょい加減が可愛い。
「超ラブリーだよ!!」
奏が彼の元へ向かう際にそんなことを考えていると、変な単語が聞こえて顧みればちょうどすれ違った男・近藤がそんなことを言ってその場で鼻血をたらしていたもんだから、ぎょっとした。
少し…いや、かなり焦った。
一瞬自分の考えていることが口から漏れてしまったのかと思って、どくりと心臓が跳ね上がった。
別に近藤のようなやましい事を考えていたわけではないが(近藤は彼女もいて多分………ノーマルなはず、だ)、少しギクッとしたのもまた事実。
とうとう倒れてしまった近藤を認識した生徒達は『またか!』『またか!!』『また橘かっ!!!』と、口々に言って彼のほうへと視線やれば…――はい、アウト。
鼻血を出しつつ倒れて身悶える近藤のように醜くはなかったが、近藤の周りに集まった男子達も同じ症状に見舞われる破目になった。
「おのれ、橘め…!」
「くそっ。近藤のせいで油断した!」
そう言い訳やら捨て台詞やら吐きながら、鼻を押さえた男子達の手の隙間から防ぎきれなかった赤い雫があふれ出す。
全然効果、迫力なしっ★☆!
こんな事態の要因を作ってしまった奏は「あっちゃー…」という面持ちで、その様を足を止めてげっそりとしたため息ともに情けない姿の男子達への言葉を漏らす。
「お前ら、それでも男かよ。哀れだな」
そしたら、そういったのが聞こえたのか、倒れている奴等が怒りと羞恥に顔を赤くして全員で一斉に声を合わせて見事な突っ込みを入れた。
「お前こそ男かよ!!そんな可愛い面しやがってッ!」
プチ…。
そんなあからさまに何かが切れる音を聴いた者は生憎ながら、ただの独りもおらず、そして不意に災難は降りかかった。
ドカ、ボコばきメキメキッ!!
しぃーんと、一瞬静まり返った教室に一分ほど嫌な音が響き渡った。
「ふぅ…哀れな奴等だ」
奏は手をパンパンと払って、眉間に深々と皺を刻むとポケットに手を突っ込んだ。
奏が後にした教室には、彼を見て出した血とはまた違う血を余計な突っ込みで流した者が大勢倒れていたという。
本当に憐れだ。
哀れで憐れ過ぎる。
いくら老若男女だれかれ構わず虜にさせる絶世の美少年とはいえ、相手は所詮男。
その男相手に男の第二の人格が目覚めないのがまだ唯一の救いだが(中には数十人いるのだが)、ちょっとした仕草や表情を見ていちいち赤面したり、鼻血を出したり、倒れなくてもいいだろう。
じゃあ、そんな魅惑の彼の近くで常に居て、いろいろな面を知る自分はどうすれば良いのだろう…異常なのか?――最近、周りの奴等を見ていて馬鹿らしくも真剣に考えてしまう自分が居る。
けれど、やはりよく考えてみろ。
いくら美少年であっても所詮男相手に悶えるなど、普通にありえないことだ。
ましてや、ここは男子校ではなくちゃんとした共学。
男子も女子も混同して通える学校のはずなのに、女子相手にならまだともかくとして(女子相手でもまず滅多にそんなことは起こり得ないのだが)、同じ性を持つものにときめくってどうだろうか。
男の沽券にはかかわらないのか…これは。
『そんなもの、この学校で彼を見た瞬間からどこか遠くへ消えてしまったよ…by近藤。』
ああ。
本当に可哀想にと、奏は心の片隅で思いながら、止めていた足を進め彼の元へたどり着いた。
彼は廊下の壁にもたれながら、どうしたんだと、今までの事の成り行きを見ていたくせに分からないらしく奏に尋ねてきた。
奏はちらと哀れなクラスメイト達を肩越しに振り返って苦笑いを浮かべると、
「近藤がまた鼻血出したんだよ」
と正直に言った。
すると、彼は眉をやや下げて心配そうに言った。
「そうか。また貧血か…。近藤って奴、あんなガタイの良い、俺と同じ高校生とは思えないようなマッチョな体してるのに、意外と弱いんだな」
彼の指すものとは別の意味で言えば、確かに近藤は弱い。
こう意思というか、男の理性というか…沸点辺りが低そうだ。
まぁ、ある意味で言えば、近藤という男は男の性に忠実なのだ。
「……………そう、だな」
奏は一瞬どう答えようかと迷ったが、あえて差しさわりのない返事を選んだ。
別に近藤が鼻血を出して倒れた本当の理由を知らせずとも、勘違いさせていてもいいだろう。
彼をよこしまな目で見たあいつが悪い、近藤!
ギャーギャー、昼時に騒がしい教室の連中を放って、その原因と要因を作った彼と奏は足早にその場を離れた。
「で、何?俺呼び止めたんだから、それ相応の理由があるんだよな?」
心地よい…だが、ややきつめの風が吹く10月下旬の屋上で彼は中央あたりに腰を下ろし、奏も同じようにそこへ腰を下ろした。
秋も半ば過ぎ冬に近いとはいえ一日の中で一番日がきつい昼時に屋上へ出てくる者はおらず、彼と奏以外誰一人として見当たらない屋上は静かだ。
彼は無表情に空を見上げながら、奏が言葉を発すのを待っている。
奏はただ単に呼び止めてみただけとは今更に言い出せずに、一つ話題を提供した。
「葵さ、やっと好きな奴出来たんだろ。それってさ、誰?」
彼は相変わらず空を見上げたまま、無表情でしばらく無言だった。
そして、十分が経過した頃、奏が『教えてくれないか』と諦めかけたとき、彼はおもむろに口を開いた。
「奏に好きな人はいるの?」
「え…」
ほんの少しまだ残っていた期待を膨らませたのに、予想外な問い返しをされて奏は目を瞬かせた。
その様子を横目で捉えた彼が聞こえていなかったのかと思ったのか、それとも焦れたのか再度繰り返す。
「奏は、好きな人とかいないの?」
「恋愛の対象外ならたくさんいるけど、恋愛面ではまだ、かな」
「そうか…。なら、俺もまだ教えない。そっちが何もよこさないのに、俺だけが喋る必要なんてないもんなっ!」
彼はにぱっといたずらっ子のような笑顔を浮かべた。
「それは俺に好きな女が出来るまでは教えない、ということか?」
「ああ。そうだよ」
今度は完全に期待を壊された奏は自分にいつ出来るやも分からぬ好きな人を脳裏に思い浮かべようとするが全然その像すらもつかめなくて、まだ当分先になりそうだなと、全身を思いっきり脱力させたのだった。
「…あ。奏」
ひとりたそがれていると、彼が何か思い出したような小さな声を上げた。
奏が『何?』と、面を上げれば彼は満面の笑みを浮かべて爽やかに言い放った。
このとき、正直嫌な予感がしなかったかと言えば嘘になる。
そして予感は奏が耳を塞ぐよりも早くに的中した。
「奏、俺おなかすいちゃった。何か買ってきてよ。もちろん、奏のおごりで!」
「……………………」
奏が嫌そうに口元を歪めれば、彼は大変見下したような目で口端を吊り上げた。
『俺の貴重な昼休みを奪ったんだ。俺は昼休みを削られることを承知の上で親友であるが故にむげに出来ないお前に付き合ってやったんだ。お前が買いに行ってくれたっていいだろ、なぁ?』と、言うような声がこの無言で笑う彼から聞こえたような、気が…した。
…あ。
美人のこういった鬼畜そうな表情は迫力がありすぎて怖いが、彼はこういう表情も似合うね。
奏がそう思ったのは束の間の現実逃避で、すぐさま意識を引き締めるとしぶしぶとだが女王様…いえ、魔王陛下の命令に従ったのだった。
「はい。もちろん、喜んで行かせて頂きます。魔王陛下」
「俺は魔王じゃない!!」
去り際にふざけて敬礼したら、彼はむっと眉を寄せて怒鳴ったが奏はクスクスと苦笑しながら、屋上を一旦後にした。
今回大変怪しかった志穂さんですが、彼女は一体何を企んでいるのでしょうね。
奏は彼を大変大事に思っています。
近藤や他の男子見たいに鼻血は出しませんが、可愛いなーとかって思っています(奏は幼い頃から女顔と付き合ってきているのでそこらへんには免疫があるようです。でも、奏に女顔がなくたって多分大丈夫なんでしょうね。奏はノーマル)。
彼の幸せをいつも願っているような良い子ちゃんです。
またぼちぼちとマイペースに更新させていただくことになると思いますが、どうぞ最終回までお付き合いくださいませ。