(2)
花栄はあの日から、ベランダに飛び移って来ることがなくなった。
夜中に屋上で空を見上げているのはいつものこと。花栄と話したくなったらベランダに出て、屋上の花栄に話しかけた。なんとももどかしい距離が私と花栄との間にある。でも花栄はその距離を詰めようとはしなかった。男だから? 女だから? だったら男に生まれたかったと思うくらい、花栄との距離が寂しく思えた。
小学6年のある日、花栄は私に読んだ本の話をした。
UFO好きの花栄は、UFOだけではなく、他のあらゆる“不思議”に惹かれていた。
あの時、花栄が惹かれていたのは、異次元の存在だった。
「その本、私も読んだよ」
それは児童図書に分類される本だった。題名は覚えていない。ただ、抽象的な光を当てたような挿絵を覚えている。
「角を三つ曲がったら、元の場所に戻るだけじゃないの?」
角を三つ曲がり、その先から新しい世界へ旅立つ物語。新たな世界が目の前に広がる。それは異次元と呼ぶ別世界らしいのだけれど、私にはそれが楽しいものには思えず、そんなことが起こるわけないと、始めから否定的な意見を持った。
でも花栄は違う。物語の主人公と一緒に異次元へと誘われ、数々の難関を経て、難題を解き、友情と、裏切りと、すれ違いをし、求めたものを知り、我が物とする。異次元は花栄の中で真実となり、真実を求めるように、本の話をした。
「でもさぁ、その子の家の周りに家が建っていないってのもありえないし、万が一隙間があって回れたとしてもさ、三つ角を曲がって行ってみたところで、家の前に出るだけで終わるんじゃないの? そこに異世界への扉があるって考えられないけどなぁ」
ため息と共に吐き出した言葉は、私の中にある真実だった。
「たとえば本当にあったとして、異世界に旅立ったとしてさ、その世界が良い物だとは限らないでしょ? 何にも起こらない、今と変わらない現実がそこにあったら、物語なんて始まりもしないのに」
花栄は何て言ったのかな。私には私の現実があって、その現実から逃げる方法はなくて、距離の空いた花栄でさえ取り戻せないでいるのに、その他の夢物語なんて必要とは思えないものだった。
花栄はぼんやりとしている。つかみどころのないその性格は、夢の中に生きていると思わせる。現実世界よりも、夢の中で生きていたいと思っているのかもしれないと、その頃の花栄は、花栄独特の世界が、花栄を取り巻いていた。確実に私はその中にいない。私は花栄の話し相手でさえなかった。花栄は夢を語る。それを聞くのは私であろうが、私でなかろうが構わない。ただ隣の家に私がいたからにすぎない。それが夢の住人であった方が、花栄の気持ちを惹きつけられたのかもしれなかった。
中学に上がり、花栄は本当に遠くなった。
男女の境が曖昧だった小学校とは違い、中学は男女の差が顕著に表れる。
幼馴染だからといって仲良く話をすることもなく、男は男。女は女。話せばそれは男女ということになる。
男の子の成長の加速について行けなかったのかもしれない。
相変わらず花栄は夜中に屋上で空を見上げていた。でももう、ベランダに続く窓を開けることはなかった。
私は花栄を男とし、花栄は私にあった話し相手としての存在も忘れている。
花栄が初めて彼女を作ったのは、中学2年の夏だった。
何のことはない、花栄はただの“男”だった。
花栄の彼女は可愛くて、頭の良い、同級生の女の子だった。
一緒に帰って行く姿を見た。お昼に中庭でお弁当を食べている姿も。休みの日に、自転車で出かけて行く姿も。
ごく普通の男女だった。
夢に生きていた花栄の姿は欠片もなく、ありふれた“男”そのものの姿に、なんとなくがっかりしたのもその頃だった。
私は夜中に花栄の家の屋上を見る癖を止めた。