第九話 狡猾な願い/Cunning Wish
彼女は知識を願ったが、それを使いこなす意思を願い損ねた。
決戦の場所は定まった。
それが、彼の良く知る場所であり、同時に今は何もかもが知らない場所へと変わっている事を、和仁は本能的に感じ取っていた。
天上に輝く月は高く貴く、大地を金の光で染め上げている。
何かしらの儀式が行われている。それはその場所の空気が和仁に教えていた。
「……あの忍者さん以外の護衛も罠も無しっすか。……舐められたもんすねぇ」
「……」
蓮の軽口に和仁は答えなかった。
立ちふさがるのがあの男である以上、そんなものは全て無粋以外の何物でもない。ナハトと言う男の真価を発揮させるのなら、罠も何もかもを捨て去った方が確実だと和仁は僅かな交錯で感じ取っている。そしてまたその事を蓮は是としていた。
剣を振るう。その一点において和仁は間違いなく天才だ。人と言う器では支えられない程に極っている。それは戦う事において発揮される技能である。そうである以上和仁の闘争における嗅覚も彼女は信頼している。あのお姫様が何をしようとしているかなど知らない。知らないが
「極った者同士の闘争っすか、ゆっくりと見学してる暇はなさそうっすけど、血沸き、肉躍るっすねぇ」
「……お前がか?」
「無論っす。肉体の究極を目指す魔法使いとして、これ以上見ごたえのある者は無いっすよ」
好奇心で瞳を輝かせながら蓮はそういった。
彼女は剣を扱う者でなければ、戦いに生きる存在でも無い。だが彼女の得意分野はそういう類の物だった。肉体の駆動に関して並々ならぬ英知を蓄えて来た一族故に、その戦闘は彼女にとって宝物庫にも等しい。
どのように身体を動かせば、どのように肉体を駆動させれば、どのように力を伝導させれば、枠組みから外れる程の性能を引き出せるのか、その事を知るために和仁とナハトの戦闘はあまりにも楽しみが過ぎる。
「……お前には先に行って貰うつもりだったんだがな」
「いやはや、それは無理でしょう? ナハトと言う男は先輩が苦戦する程の超人っすよ? ただの魔法使いの私が突破なんてできる訳無いじゃないっすか」
その言葉に和仁は何も返さなかった。
蓮の事を一顧だにすることなく、また迷うことすらなく道の無い山の中へと足を踏み入れる。敵意が肌を突き刺す感覚、ここから先へは行かせないという決意がそのまま刃となって彼等を拒む幻視が見える。ここに何かある事を隠そうとしない清々しいまでの自負が二人を捉えた。
「……それに、相手さんも行かせてくれないみたいですしね」
「……ふん」
ナハトと言う男に付いて刹姫が知ることは少ない。
代々、檻守の一族に仕えて来た者達。
その中でもとびきりの実力を持つ、超人中の超人。
体術等の戦闘技能は言うに及ばず、忍術を基盤とした東洋魔術、他西洋魔術にも精通し、彼女を影に日向に助けてくれる彼女が誇る最高の忍。まさしくもって過ぎたる者。
彼女が知っているのは、そんな形式的な事だけだ。
彼女は知らない。
なぜあれほどの実力者が自分に付き従っているのかを。
なぜあれほどの腕前を持ちながら、魔法使いとしては二流以下の自分に忠を尽くしているのかを、彼女はまるで知らなかった。
長きにわたる血脈に忠を誓っているというのなら、自分の二人の姉に付き従えばいいだけのことだ。自分とは違う、魔法使いとしての才に優れ、悪魔的としか言いようのない程の力を持つ、当代屈指の魔女達。そんな、仕える主として完璧な力を持つ二人を選ぶ権利を持ちながら、何故自分なのか、それをナハトに問うた事は無い。
その質問によって彼が離れていくことを恐れたから。
彼を失う事を恐れたから。
刹姫にとってナハトとは唯一誇れる物だった。
魔法使いにおいて容姿の美しさも、学問の才覚も、世間一般の才覚は何もかもが無意味に等しい。魔法使いに求められるのは意志の強さだ。狂気的と言っても過言ではない程の意志の強さこそが魔法使いに求められる唯一の資質。
その事を彼女は知っている。
無論、それほどの狂気も、熱も自分が持ちえていないという事も。
確かに世間一般から見れば十二分に狂気的な意志の強さを持っているだろう。だが、それが基準の世界では彼女の意志程度、吹けば飛んでしまうちりも同じ。魔法使いとしては悲しいかな、彼女には才覚は無い。
故に彼女は落ちこぼれだ。
ある程度の力は確かに持っている。千年の年月が刻んだ歴史は、力だけで言うのなら最上位の物を彼女に与えてはいる。だが、それを使いこなすための意志が彼女にはあまりにも欠けていた。
故に彼女は恐れている。
彼が離れて行ってしまう事を。
彼は彼女の誇りだ。
魔法使いの一族の中において、何一つ誇れる者が無い彼女にとって、彼だけが彼女の救いだった。彼女を主として認め、その力を十全に示す彼の姿だけが彼女の救いだった。
だから彼が離れるのだけは認められない。
彼が自分以外に傅くことを認められない。
何より、彼より見捨てられること等、認められるはずもない。
故に……
「ナハト」
「……」
山と呼ぶには小さな、丘と呼ぶには大きく森の深い場所の頂上で、刹姫はいつも隣にいる者に呼びかけた。その言葉に音も無く現れて彼は当然のように彼女の眼の前で傅いた。
その姿に言葉が漏れそうになる。
どうして付き従ってくれるのかを問いたくなる。
未熟で魔法使いとしてどうしようもなく無様な自分に、何故あなたほどの人がと聞きたくなる。そして帰ってくるかもしれない言葉におびえ、別の言葉でその場を切り抜ける。
「……ここまで誰も通さないで」
「御意に」
刹姫の言葉にナハトは一瞬の停滞すらなく是と答えた。
彼女に背を向けて礼を一つ、そのまま闇夜に溶け込むように立ち去って行くその後ろ姿。その姿に手を伸ばしそうになる。声をかけたくなる、命令を撤回したくなる。
本音を言えば傍にいて欲しい。
本音を言えばそれだけでいいのだ。
魔法使いである意味など彼女には無い。
何かを極める意志も、その義務すら彼女には無い。
全て打ち捨ててしまえば楽なのに、彼の姿を見ればそれが出来ない事だと思い知らされる。
刹姫と言う女は魔法使いだ。
二流であろうとも、それ以下であろうとも、そうでなければならない。そしてそれ以上にならなければならない。そう……彼に愛想を尽かされるその時までに。
「……ナハト」
熱を帯びながらもその声には苦みが奔る。
艶を帯びながらもその声には痛みが映る。
彼女は焦れている。
彼女は恋焦れている。
その熱は、ナハトには届いていない。
姿なき狩猟者を相手に和仁は苦戦を強いられている。
斬撃を振るうおうにも相手の姿すら捉えられないのであれば流石に無理だ。
迫る銃弾を五感すべてをフル稼働してどうにかこうにか捌いていく。
知り尽くしたはずの山の中でさえ、今は全て相手の手の内だ。夜の闇が、月の光が、山の影が、全てが彼を殺すための手段となって襲いかかって来ているような錯覚。それほどの技量を持つ相手に和仁は単純に舌を巻く。
「どうっすか先輩、抜けれそうっすか?」
「無理だな。捌くだけで手一杯だ。相手の罠が尽きるまではどうにもならん」
言いながら、竹の罠を切り裂く。そして、その行動の為に踏み込んだ一歩が更なる罠を起動させる。その繰り返しが彼の行動を阻害している。これほどまでに見事に相手の動きを拘束できるのか。そのずば抜けた戦略眼は天蓋の枠組みから外れた和仁を持ってなお、容易に突破できない。
時間がいる。
時間が無いにもかかわらず。
その事を理解しているが故に和仁は歯噛みした。
剣の腕だけではどうしようもない状況。
だが、和仁には剣しかない。
故にこの状況はこのままだ。
他の方策を練るにしても時間が無い。相手はその事を知り尽くしている。
「……」
その事が和仁には引っかかった。
見知らぬ相手。にもかかわらずその技量を正確に把握されている。その事が腑に落ちない。いや、それどころか性格に至るまで完璧に把握されている。そうとでも考えなければこの状況はありえない。
迫りくる数多の罠を、時折混じる相手の攻撃を、それら全てを両断して和仁は一息ついた。そして僅かに考察を巡らせる。そして秒に満たぬ時間で結論を出した。
「解らんな。材料が足りない」
「何がっすか?」
「何故俺の性格が見抜かれているかだ。相手の技量を読み切る位なら、二度交戦した以上ありえるかもしれない。しかしだ、こうまで完璧に行動を読まれている以上、それだけじゃ無はずだ。それこそ性格まで読み切られているとしか思えない」
「……先輩の性格をっすか?」
「ああ」
その言葉に蓮は沈黙した。
外面からは何を考えているのか全く分からない無表情。
いつもは全く絶やさない笑みすら消して、彼女は黙々と何かを考えている。
「先輩はこっち側の人間じゃなかったっす。記憶を弄った際にちっとばっかり読ませてもらいましたからそれは間違いないっす。なのに、性格まで読まれている? 誰も注目なんてしていなかった先輩の性格を、こっち側の人間が読むって言うんすか?」
その言葉に和仁は沈黙した。
そして、僅かに思い至る。
その答えに彼は溜息をついた。
出来る事なら外れてくれと願う答えが、彼の脳裏にうごめいている。
「……蓮、お前は先に行け」
「……は? いやいや、無茶をおっしゃいますね先輩。私に死ねと?」
「……殺させる気は無い。俺がお前を全力で守る。……いや、それ以前にもし俺の考えが正しければ、お前は絶対に殺されない」
「……ふぅん」
にやりと蓮は楽しげに笑った。
和仁が何かに気づいた事についてを彼女は察したのだろう。
その内容が、彼にとって苦悩すべき事実であるという事をだ。
だが、それを口にしない事を彼女は責め立てなかった。
それは和仁のためなどではない。
そっちの方が、和仁が心砕くだろうという、彼女の欲望故にだ。
「……解りました。やってみましょう」
「……頼む」
何かを言いたげに、だが何も言わず和仁は再び棒を構えた。
その姿を後ろで見ながら蓮は呪を紡ぐ。
紡がれた言葉は少なく、また人の発する言語とは思えない音の羅列。
その音の羅列が世界を歪め、彼女の意志を押し通す。
ピキピキと乾いた音が冷ややかな大気に響く。そして、その音が鳴りやむとともに彼女が再び口を開いた。
「行きましょうか先輩」
軽く、まるで散歩にでも出かけるかのような口調で、蓮は死地へと足を踏み出す。
罠は発動しない。
僅かな空白の後に二、三のナイフが彼女に襲いかかる。
金属質な音が響いた。
和仁がそのナイフを弾いた音ではない。
ナイフが蓮の肌に突き刺さり、そして弾き返された際の音だ。
彼女の皮膚は彼女が紡いだ魔法によって、その強度を一時的に鋼鉄のそれにまで引き上げられている。ナハトが本気で放った一撃ならばともかく、とっさに、やる気も無く放たれた一撃では止められるはずもない。
「……いや、そもそも止める気も無かったんだな」
その光景を見て和仁は小さくつぶやいた。
その声には落胆の色が出ていた。
当たって欲しくない、自分の考察が当たってしまった事による落胆の色だ。
その声音に反応したように、ナハトが木々の間から姿を現した。
蓮の姿は既にない。魔法で強化された彼女の肢体は道も無い山の中である事を忘れさせる速度で走らせて、既に夜の闇の中に隠してしまっている。即ち、この場にいるのは和仁とナハトの二人だけ。
「……気付いちまったか」
不意にナハトが和仁に声をかけた。
その声は今までの低い物とは違う、未だに少年っぽさを残した声だ。
和仁が学園でよく聞く声だ。
「……当たって欲しくない願い程良く当たる。本当、人生ってのは儘ならないな……信也」
「……ああ、本当にな」
そう言いながら、ナハトはゆっくりと仮面を外す。
その貌は、普段とまるで同じ、軽薄そうな笑みを浮かべた友と呼んだ男のそれだった。