第五話 殺意の凝視/Killing Glare
何気なく目を向けた暗き一隅が、あなたの見る最後の光景になるかもしれない。
武器と武器を重ね合わせて既に百を越えた。
以後の数を数える事を唯は既に放棄している。
赤熱する思考の手綱を握り、ともすれば勝手に暴走しそうになる思考を制御して、剣を振るう。未だ技量の底を尽くしたとは言わない。自らの全霊を出しきったとは言わない。自分にはまだ余裕がある。まだ切っていない鬼札がある。そう言い聞かせることでギリギリのところで精神の均衡を彼女は保っている。
相手の技量は子どもの児戯に等しい。
基本中の基本、基礎中の基礎、肉体の稼働限界を知り尽くした果ての絶技と呼べるものは何一つ無い。和仁がやっている事は実にシンプルだ。見た物に反応してそれに対して最適の斬撃を持って迎撃する。それを限りなく疾く、限りなく無駄を無くして繰り返している。
見るべきところなど何もない。
特異な技も、得意な技術も、超常の現象も、何一つ無いというのに、唯は彼を打倒出来ない。いや、打倒はおろか間違いなく押されている。
その事実に唯は奥歯をかみしめて、 更に斬撃の速度を上げた。
相手に認識すらさせない、無意識化に働きかけるフェイント、切り返しの際に手首の動きだけで行う軌道変化、間合いをずらす足さばき、それら全てが技術も何も無いただの斬撃によって無効化されていく。
「お兄ちゃん……」
漏れ出た言葉は非難ではない。
その基本しか行わない相手の行動に対する殺意が表出しただけだ。
底を見せない、技を見せない。それは即ち、自身が侮られている事の証左に他ならない。
だが、その侮りも当然として受け止めなければならない。そう唯の思考は冷静に判断している。相手の技量が自分以下だと認識すれば、手の内を隠すことは至極当然のことだからだ。だからこそ、その行為が彼女の勘に障る。
十年。
言葉にすれば短い。
だが齢十六の彼女にとってその年月は自身の半生だ。
その半生を、剣に捧げている。自らの望む、望まないに関わらず、彼女は物心ついた時から剣を握る生を強制されてきた。その事に対して恨み事を言うつもりはない。上霧という一族の悲願を知っている。その宿願を唯は背負っている。その事を誇りに思いはしても、恨むことなどありえない。
だが、それでも、
ただの女子高生として生きる事が出来れば……
そう思う事の何が悪い。
唯は女子高生だ。
世間一般の物差しで測るのなら、華のという冠詞が付く青春の盛り。だが、彼女の背負っている物は、それを容易く犠牲にする。犠牲にしなければならない物だった。
何度も夢見た事がある。
まるでそれは、同世代が願ってやまない事のように。
同級生の男の子が考える、ヒーロー願望。同級生の女の子が願う、ヒロイン願望。
それと同じように彼女は願う。
ただ、皆と同じ生活をしてみたい。
誰に憚ることなく、何に憚ることなく、放課後を仲の良い同級生と過ごし、ともすれば恋もしてみたいと思う。だが、そんな事は叶わない。放課後は自宅に戻り剣を振るい、恋をする暇などなくただ、境界を犯す者を誅する日々から抜け出すことは叶わない。
だから唯が和仁に抱く感情は殺意だった。
その感情の大本は羨望であり嫉妬だ。
自身が望んで叶わない夢を、同じ一族でありながら享受している愛すべきお兄ちゃん。
なのに、彼はその日常を蔑にしている。
唯が望んでなお届かぬ日々の日常を、まるで無価値な物のように切り捨てて、和仁は一人山の奥で棒を振っている。恋だってできるだろう。彼に課せられた責務は無い。彼には与えられた時間がある。なのに、彼はその時間の全てを鍛練なんかに注ぎ込んでいる。
そんな彼に嫉妬せずにいられる物か。
そんな彼を憎まずにいられる物か、兄妹だからこそ余計にその感情は肥大化する。
同じはずだ。お兄ちゃんと私は同じはずだ。同じ親より生まれ、同じ一族の宿命を背負っている筈なのに、何故お兄ちゃんはそれほどのわがままを許される?
ああ、許せない。
許せるはずが無い。
お兄ちゃんが居てもいいのなら、私だってその立場に居ても良かったはずなのに。
嫉妬が思考を奪う。
憎悪が募る。
だけど、それだけなら彼女だって耐えられた。
その瞳を緑に染めても、その瞳を殺意に濡らすことは無かったのに。
だというのに……
「許せない」
遂に、和仁の斬撃が唯の斬撃を上回る。
唯の斬撃の悉くを放つ前に迎撃し、攻めに転じ始めている。
もし、和仁が真剣を用いていたのなら既に敗北していただろう。
捌き切れなかった斬撃を唯は身体で受け止めながらそう思う。
そして、受けた一撃の威力を利用して再び距離を取った。
「許せない。許せない。許せない……」
受けた一撃はそれほどの威力は無かった。
骨を砕く威力も、肉を裂く切れ味も。
その一撃の精度を持って唯は和仁の意図を悟った。
つまり、唯は和仁に手を抜かれている。
彼は、日常にその身を置く一般人だ。
その実力が一般というカテゴリより逸脱していても、その精神までは外れていない。そんな彼が、如何に殺意を抱いているとはいえ、肉親を殺すことなんてできない。痛めつける事もまた同じくだ。
故にその一撃に致命は無い。
その一撃は加減されている。
その事が、唯のプライドを粉々に砕いた。
「……唯……」
距離を取った唯に、苦り切った表情を向けながら和仁は声をかけた。
その色は間違いなく降伏を促している。お前では勝ち目など無いと、だから早く降伏しろと。
「あ、やっちゃった」
「何がだ?」
和仁の言葉を聞いて、楽しそうに蓮が呟く。唯を見る目が喜悦の色に染まっている。その視線に嫌な予感を感じ問い質した。
「ふふふ、見てれば解るっすよ。解らないのなら……まあ、それはそれで良いんじゃないっすか? 所詮は人の家の話っす」
ケラケラと彼女は笑う。
その態度にこれ以上の質問を無意味と断じて、和仁は再び唯に視線を向けた。
視線を外していた致命的な隙も、問題にならない程に和仁と唯の実力には隔絶した差がある。不意打たれて尚、剣撃を持って抑えられるだろう。そしてその態度が、唯の理性を切った。
「ふざけるな……ふざけないでよ……」
「……何がだ?」
呟かれるのは呪詛だ。
その理由を和仁は理解できない。
その理由を理解できたのは、後ろから見ている蓮だけだった。
その呪詛に陶酔すら感じている。亀裂のような笑みは更に更に深く成っている。
「私は……私は剣を握ったんだ。お兄ちゃんみたいな御遊びじゃない!!」
「……遊びだと……」
「遊びよ!! お兄ちゃんは何も捨てていない!! 剣を振るうために何かを切り捨てた訳じゃない!! なのに、なのに!!」
激するまま吼えて、唯は剣を振るう。
思考は激情に落ちても、その斬撃は怜悧な色を保っている。
十年刻み込んだ斬撃は、その精神状態に左右されること無く、彼女の最善を疾駆する。
だが、その一撃も和仁には届かない。
届く前に霧散し、届く前に花と散る。
それが、更に彼女を激させた。
「ふざけるな!! 何も知らない癖に……何も捨てていない癖に……何にも学んでいない癖に!!」
唯が吼える。
その内の感情のままに。
それでも届かない。
感情を爆発させて、肉体のリミッターを外して、それでも彼女の殺意は和仁には届かない。繰り返しのように、剣撃が剣撃を弾き返す。届かない。まるで届かない。天蓋の枠組みの中では、彼女の斬撃は全て無為に還る。故に……
「無為に伏したる我らが墓標!!」
呪を唱える。
その身に宿す災厄の引き金を引く。
合するたびに激しく、高らかに。
「無為足る至上、無為たる血脈、万象の外様たる理に誓う!!」
それは詠唱だ。
自らの妹が謳うそれに和仁は驚愕した。
自身の家が特異な剣術を伝承している事は知っていたが、魔法なんて物を扱う事までは知らなかった。
「上霧の一族。戦鬼を生む一族。そもそも、戦いにおいて魔法は有効無比。ならば、実戦的な剣術を伝える一族が、魔法を使える事に何の不思議があるっすか?」
後ろから聞こえる蓮の言葉。
間違いなく、和仁に対する嘲笑の言葉。
それを聞き流して、和仁は唯の一撃を捌く事に全霊を傾ける。
魔法に関する造詣など和仁は持ち合わせていない。故に、彼に出来る最善は、唯の詠唱が完結する前に彼女を打倒することに他ならない。だが、こと、ここに至って位の技の冴えは、今まで見せて来た物とは桁が違う。肉体のリミッターを外し、人の稼働性能限界を越えた領域の斬撃を繰り出し続けている。
それを捌く。捌く。捌く。捌く……
「故なく、意義なく、ただ狂いて、忘我を謳え。わが身を贄としても!!」
呪が形を成す。
詛が、唯の体を変質させる。
鮮やかな黒髪は白銀に染まり、瞳は黒から紅に、硬質に響く音は、彼女の肉体の悲鳴か、爪は伸び、両手で持っていた刀を片手で軽々と振るう。見切りの速度が加速し、最早未来予知でもしているのではないかと疑う速度に至っている。
「殺す!!」
宣言は一度。
その銀髪を靡かせて、唯は和仁へと迫る。
人知を越えた速度。
一歩ごとにアスファルトで舗装された道路を踏み砕き、右手には刀を握り、左手の爪を刀の刀身ほどにまで延ばして、唯は和仁に疾駆した。
それに相対する逡巡も僅かに和仁は棒を握り締める。
その速度が人外の領域にあることは理解している。
その力が枠組みから外れた物であるという事もまた理解している。
それでも。
「ああ、来いよ唯」
揺るがず、騒がず和仁は唯を迎え撃った。
交わる視線。
交わす斬撃。
狂い舞う銀髪も、大気揺るがす斬撃も、その五つの爪さえも、彼には見えていないかのように、ただ冷徹に自らの技を振るった。
6/21 感想で指摘されていた部分を修正。