第十話 暗黒の儀式/Dark Ritual
薄明の空に浮かぶ眼よ、我らに視力を与えよ。
我が捧げものを取り、我らに力を与えよ。
我らが力を夜の涙に変えよ。
夜の森、月明かりだけが互いを照らす道しるべのように輝くその場所で、二人の男は互いににらみ合っている。様子見の時は過ぎ、互いの実力もほぼ出そろっているというにも関わらず、彼らは互いに動かないでいる。
「……何で気付いた? 気付かせるようなへまは踏んでないつもりだったんだが……?」
「お前の仕草で気付いたわけじゃないさ。今のお前と普段のお前の所作に共通点を見つけられたって訳じゃない」
「なら、何故だ? 後学のために聞いておきたいね」
「ナハト……つまりお前の名ナハトは、ドイツ語で夜の意味を持つ。信也も読み方を変えれば深い夜だ。まさかとは思ったがな、お前ほどの技量をもつ男が呼び名に自分の名前を連想させる単語を用いるとは思えなかったし、何より日常のお前とナハトのお前ではあまりにも、その身にまとう雰囲気が違う……」
「……ならば俺とは断定できないだろ? だが、お前の言葉には確信があったぞ。……そもそも俺はそのリスクは織り込み済みでナハトを名乗っていたんだ。そうたやすく見抜かれると、自信をなくすぜ?」
「そう、その違いすぎる雰囲気ゆえに俺はお前をナハトだと思ったんだ信也。お前は忍だ。忍であるなら、普段の様子と仕事の際の仕草をまるで違うものに仕立て上げていたとして、何の不思議はない。完璧が過ぎたな信也。何もかも完璧に共通点のない存在なんぞあり得るものか、あらゆる符号がお前とナハトを分け過ぎている。完全に符合しない存在逆位置の存在ってのは、ひっくり返せば完璧に符合するってことだ。コインの裏と表と同じだよ」
「……なるほどねぇ……まさか隠蔽が完璧であったが故に見破られるなんて思ってもいなかった……。なるほど、いい勉強になったぜ」
「……それだけじゃないがな……」
「ああ?」
眉をひそめた信也に和仁は何も答えず再び木の棒を握りしめた。
話すことは終わり、後は武威を持って蹴りをつけるばかりと言わんばかりに彼は構えた。それに応じるように信也も構えをとる。
空気が張り詰めていく。
重みすら感じるほどに、あまりの圧力に空気が割れそうなほどに。
見つめあって、それだけで、世界が歪むのではないかという錯覚をもたらすほどに。
「何を言いたかった?」
「いや、無粋な言葉だ。表に出す必要はないさ」
「……何だ……悪いな……」
「武器を向けてくる相手に言うセリフじゃないな」
「……違いない」
互いに苦笑を返しあう。
和仁の言葉に信也は彼の言いたかったことを悟る。
それを言葉にしなかったのは、和仁の言葉通り無粋だったからだ。
ナハトという男が刹姫に仕えているその理由。
その理由を悟ったその瞬間より、彼の正体は明白だった。
明白でありながら、それを理由に正体を暴くほど、彼は風雅を解さないわけではない。既にあたりはつけていたのだ、それ以上の証拠を求めるのは蛇足に他ならない。
好きな女を守るために。
本人が口にしないことを、他人が口にすることほど無粋なことはあるまい。
本人がその感情に折り合いをつけているのならば尚更だ。
不意にナハトの姿が掻き消えた。
ナハトに対して集中している和仁の認識の隙間を縫うことによって、消えたように感じさせる高速移動。和仁相手にそれをたやすく行う彼の技量はやはり本物だ。自らの感覚に従い木の棒を後ろ手に回して信也の一撃を受け止めながら和仁は感嘆の息を漏らす。そのままサ斬撃を振り抜くも手ごたえは再び夜陰に消え去った。
「……」
舌打ちが夜の闇に響く。
山中の森という地形を最大限に生かした戦い方。
この山の中を和仁自身、自分のホームグランドだと思ったことはないが、他の場所よりは勝手知ったると思っていた。だが、現実として和仁はナハトに追い詰められている。
なるほど、あいつは忍者だったな。
納得と共に、和仁は迫る棒手裏剣をたたき落とした。
金属をはじいた音が響く。
たたき落とされた棒手裏剣は大地に突き刺さり、即座に発火した。
和仁を囲むように炎が広がり、彼を織りの中へと閉じ込める。
「フッ……!!」
裂帛の気迫ををもって棒を振るう。
ただそれだけの行為で燃え盛る炎を吹き散らし……
「チィ!!」
舌打ちを一つ。
目の前に迫るナハトの姿に神経を集中させる。
衝撃が和仁を撃ち抜いた。
「我が祖に希う。愚かなる調べ、遥かなる永久、届かぬ位階に至らんことを欲す」
朗々と詠唱が響く。
月明かりを受けて、舞い踊りながら少女はその詠唱を続けている。
一歩踏み出すごとに韻を踏み、流れるような動きは彼女の肌に玉のような汗を浮かばせて、わずかに染まった頬の朱は、彼女の高ぶりを指し示す。
原始宗教の祈祷にも似たその光景。
それを蓮は興味深く見守っていた。
止めることなどせず、ただその心の命ずるがままに。
そもそも止めるつもりなんて彼女にはない。
彼女は自らの興味の抱くがままに振る舞う。それは今にしてもそうだ。
確かに、唯という器は惜しいが、これほどの秘蹟、ここで潰してしまうのはなお惜しい。蓮にとって、必要なのは唯の肉体だけだ。その精神が押しつぶされようが、それこそ、死んでしまったところで、屍さえ残っていればそれでいい。すなわち彼女は最初からそのつもりだった。
「にしても腐ってもオリモリ。術は美しく非の打ちどころがない……刹姫先輩も、器としては間違いなく優秀、完璧な素材、完璧な儀式……なるほど、この儀式は成功しますね……」
となれば、あとは何を降ろすか。何が降りるか……その一転のみに彼女の興味は収束した。後は、と今後のことに思いを馳せる。
「問題は先輩が降ろした神を撃ち滅ぼしたごたごたの際に、唯ちゃんを直して、人として生きてるように見せかけることだけっすが……まあ、何とでもなるでしょう。最悪蘇生してしまえばいいですし……」
思惑を巡らせる。
どう動けば、自らの望む道筋へと至れるのか、そのことに思いを巡らせて、その時を待ち望む。その間にも儀式は進む。踊りはさらに激しく、流れ落ちる汗は既に滝のように、謳い上げられる祝詞はさらに高らかに、その旋律は神に捧ぐ音。その律動は神の捧ぐその身。夜の闇がさらに深まっていくように、月の光がさらに輝きを増していくように、深みへとただ堕ちていく。
「砕けし嘗て、終りし神話、その果てに生まれ堕ちし矮小なる身を捧げて望む。在りし日の器、ここにありて栄華を……来たれ、消え去りし逸話。語り継がれし永遠。我が身砕けることを厭わず」
そして術がなる。
その祝詞をもって、寄り代を基として、捧げられし肉体に神が降りる。
大地が脈動する音が聞こえた。
月の輝きがさらに残酷さを増していく。
夜の闇が、彼女を恐れるように僅かに後退し、そしてそこに神が降りる。
流れるような金髪を覆い隠すようなヘルム。
その豊かな肉体を締め付けるかのようなボディアーマー。
一欠けらの傷もないその手に宿るのは純金に輝くブレイド。
そのすべてが、現世ではあり得ぬ金属で構成された、まさしく持って神の道具。
そう、その肉体を含めて神器はこの世に舞い降りた。
現世の肉体をもって魂を基準に再構築された神の器。
降霊術の極み。神降ろし。
その秘術はここに成り、神代の時よりその器が再び現世に像をなした。
「美しい……ああ、とてもとても美しい。祝福しましょう。神よ。貴方は再びこの世に降り立った」
眼をつむり蓮はそう彼女を祝福した。
それに神は応えない。
何も語らず、何を思うかすら定かではない。
ただ、その場で立ち尽くしていた。
「……手を抜いたな和仁」
「お前が言うなよ信也」
木の棒で受け止められた拳を見下ろしながら信也は和仁に向けてそう言った。
攻めるようなその言葉に、和仁は肩を竦めるだけで答えとして、構えていた棒を下げた。
「……元々そのつもりだったんだろう? 食えない男だ」
「……ばれてたか」
「当然だろ。何年友人やってると思ってるんだ」
そう言って和仁はその場に腰を下ろした。それに応じて信也も地面に腰を下ろす。
「んで、仕込みは上々ってか?」
「ああ、後は上に行って仕上げだ」
「はん……。俺も蓮にしてもいい面の皮だな。結局お前に良いように使われたって訳だ」
「……わりぃな」
「構わんけどよ……結局、お前は何が目的だったんだ? あの檻守先輩に従って、神様を降ろしてそれからどうするつもりだったんだ?」
「別に……特に目的らしい目的はなかった。俺の目的はいつだって一つだ。あの人のやりたいことを助ける。俺はそのために動いている。それ以外の目的なんて無いさ……」
「の、割に蓮を行かせたりしてるじゃねーか。先輩の目的が一番だって言うなら、あいつを行かせないほうが良かったんじゃないのか?」
「……あー、和仁、お前もしかして烏丸ちゃんのことを勘違いしてねーか?」
「……どういうことだ?」
「だってお前、烏丸ちゃん魔法使いだぜ?」
「あ、ああ、それがどうした?」
「魔法使いが、神降ろしの儀なんていう奇跡の塊、神秘の塊、他人の秘術を邪魔するわけないじゃん。最初っから最後まで全部きっちり見ていくにきまってるじゃないか」
「……唯っ!!」
その言葉に和仁は立ち上がった。
そのまま蓮の向かった方向へ走りだそうとする。その前に信也が立ちはだかった。
「待て待て、唯ちゃんは無事だ。寄り代を生贄に捧げたりするような秘術じゃねーよ、やってるのは」
「……蓮の奴。何が貸しにして置くだ。結局全部、自分のためかよ……」
「魔法使いってのはそういうもんだ。烏丸ちゃんの判断は間違ってねーよ。それより、一つ頼みがある」
「……ああ? さすがにそれは虫が良すぎるんじゃないか? お前、人の妹をさらってしかも儀式の道具にしておきながら、俺に頼み事か?」
「虫がいいのは承知のことだ。だが、これはお前にしか頼めなくてね。俺じゃ技量がともかく威力が足りん」
「……お前が?」
「ああ」
その言葉に和仁は言葉を失った。
信也の実力は戦った和仁にはよく理解できている。
にもかかわらず和仁に物事を頼みこんでくるというその事実に、和仁は僅かに眉根を寄せた。
「……話は聞く。お前は俺に何をさせたいんだ?」
「神を……」
躊躇う様にそこで言葉を区切り、そして次は和仁としっかりと視線を合わせて言いきった。
「神を殺してくれ」