第一話 否定の契約/Pact of Negation
常に裏切りを予測する者が落胆することはまず無い。
山の奥で生活する。
それはそれだけで修行だ。
日々の営みを行う。
日常と隔絶された場所では、そんな当たり前のことでさえ困難となる。そんな場所で少年は剣に見立てた棒を延々と振るっている。
一度振るう度に風を斬り、一度振るう度に大気を裂く。
その剣舞は芸術的だ。
武芸に興味のない人間が見ても、その流れるような動きには感嘆の域を漏らすだろう。その道に長じた者が見れば息を飲むだろう。それほどまでに、その技は研ぎ澄まされている。
だが、それほどの技を持ってして、その剣舞を振るう彼の表情はすぐれない。
「シッ!!」
呼気を闘気に、覇気を斬撃に変えてただひたすらに舞うように、踊るように。
剣風にあおられて落ちる葉を裂き、心を無にして空を抱く。
そして……
「……何だ?」
普段と違う何かを感じ取って彼はその剣舞をピタリと止めた。
山の気配が違う。
何が違うのかを言葉にはできないが、確かに普段とは違う。何かがこちらへ迫ってくる。そんな気配を感じ取った。
木の棒をだらりと下げる。迫りくる何か備えて。
猪の気配ではない。
あれは山の生き物だ。山の気配に調和している以上、こんな妙な気配を撒き散らさない。生えている木々を破壊して迫りはしない。
破砕音が近づく。もう目視で捉えられる距離にそれは見えている。
「何だ、あれは……」
そしてその異形さに目を見開いた。
それは言うなれば肉の塊だ。多くの肉の塊を適当につなぎ合わせて、生き物のように体裁を整えた何か。
生きているようには見えない。そもそも生きるという意志を感じない。だというのに、機械ではありえない生々しさが生理的な嫌悪を煽る。
それが腕らしきものを振るった。
声も上げず、ただ空気を掻き鳴らし、生木を粉砕する剛腕を振るう。
受ければ死ぬだろう。防ぐこと等叶わない。そもそもアレは、人知の理の外にある存在だ。条理の枠内にいる者に対する天敵だ。その性能からして人に抗えるような物ではない。アレの一撃を耐えるには戦車を用いて尚五分だ。故に
音も無く、彼は木の棒を真横に振り抜いた。
精神は停止している。ありえないものを見たが故に。信じられないものを見て、間近に迫りくる死に対して、その活動を一瞬放棄している。だが、そうであって尚、鍛え上げた肉体は当然のようにその死に対して反応した。
手応え無く、そしてまた音すらなく、その結果に帰結するのが当然だと言わんばかりに手にした木の枝は異形を切り裂いた。
どす黒い血のような物を噴き出す。
振り上げた腕と頭部らしき場所をまとめて斬り飛ばされて、その異形はその場に倒れ込んだ。
重々しい音が響かせながら、周囲に降り積もる葉をまき上げて、そして完全に沈黙した。
「……何だったんだ?」
そんな彼の言葉に対する答えのように、気配が近づいてくる。右手に握る棒を地面に突き立てて、そちらの方に向き直れば、山奥に似合わない少女の姿があった。
「あー、大丈夫っすか? おにーさん」
金髪の少女だった。
見知った学生服を身に纏う、どこからどう見ても今時の少女。
年は彼と同じくらいか、それより少し下あたりだろう。
「……大丈夫では在るけど、何だお前は?」
自然語調が強く成る。
こんな所であんな物と出くわした後。その上この軽い口調だ。警戒するのも無理は無い。だが、彼女はそんな事を気にもかけずに、先ほど彼が両断した怪物を調べ出した。
「ひゃー、すごいっすね。表面の硬度は鋼鉄以上、内部に用いた骨も、筋肉もまた同じくだってのに、見事に両断されてる。おにーさん、何者?」
「それはこちらのセリフだ。何だそれは? 何より、何だお前は? 篠馬の制服ってことはあそこのか?」
彼女の態度に若干いらつきながらそう返すと、彼女は納得の表情を浮かべた。そして、にこやかに自己紹介を始める。
「おおっと、自己紹介まだでしたね。私の名前は烏丸蓮。私立貝原学園の一年生っす。おにーさんは?」
「……上霧和仁。お前と同じとこの二年だ」
「おお、やっぱり同じ学園の先輩でしたか。どっかで見た事あったんですよね、その筋肉の付き方」
「あ?」
妙な判別の仕方に和仁は眉根をひそめた。
どこかで見た事があるというのなら理解はできる。同じ学園に通っているのなら、どこぞで出会っていたところで不思議ではない。だが、筋肉の付き方で判別されるとは、流石に予想外だった。
「ところで、見られちゃった……どころかぶっ倒されちゃったんですよね私の作品。そんな人を、一般人ってするのは流石に無理がありますし、かと言っておにーさんからは、こっち側の匂いもしない。こんな山奥で、何やってるんだーって興味と疑問は尽きませんけど……その身体も中々惜しいですし……ふむ、どうです先輩、非日常って興味ありません?」
ぶつぶつと呟いて、最後に自身の納得できる答えに行きついたらしい。にかりと笑って蓮は和仁に手を差し出した。
「退屈な日常を捨て、血で血を洗うスリルあふれる非日常。その世界への入り口っすよ? どうっすか? 興味ありませんか先輩?」
そんな彼女の様子に彼は沈黙した。怪物の屍を調べて尚、何でも無いかのように振る舞うその姿は、間違いなく異常者だ。異常な状況に親しみ、異常な環境を日常としている間違いなく外れた物の態度。その態度が彼女を本物だと否応なく理解させる。
これは、その世界で生きている怪物だ。
間違いなく超常の世界で生きている存在だ。この悪夢のような状況を当然のように受け入れているまごう事無き狂人。
成程、その言葉は魅力的だ。
日常に飽いているような、それこそ異世界、魔法使い、世界の裏側、即ち非日常。そういった物に憧れているような夢想家にとって彼女の言葉は毒だろう。甘美な毒。毒と知りながら飲み干すことさえ躊躇わせない程に、甘美で抗いがたい誘惑を宿す言葉。その言葉に和仁は
「興味なんてない。非日常なんていらない」
拒絶の意志を示した。
彼女の眉根が僅かに跳ねた。断られるとは思っていなかったのか、はたまた他の理由か彼には解らないが、少なくとも彼女の思惑からは外れたらしい。
「……こんな所で木の棒を振るってるんだから、非日常に対して強い憧れでも持ってると思ったんすけどね、もしかして自分、外しましたか?」
「ああ。生憎だったな」
踵を返しながら端的に返した。
事実として和仁は非日常に対して憧れ何ぞ欠片も抱いていない。何せ彼が目指す物は日常の中にある物だからだ。だからこそ非日常に足を踏み入れないかという問いは的外れだ。その問いをするならば逆に……
「なら先輩、私の話を聞いてくれないのなら、その日常が崩壊する。そう言えば?」
嫌らしく彼女はそう言った。
その言葉に立ち去ろうとしていた足を止め和仁は蓮の方を振り向いた。ニヤニヤと笑みを浮かべながら、彼女は先ほどと変わらず手を差し出したまま。
「……卑怯な奴だなお前」
「失礼っすね先輩。ただの忠告じゃないっすか。非日常を知るってことは、非日常から知られるってことと同義っすよ?」
「その元凶がよくもまあぬけぬけと」
舌打ちを一つ。蓮に聞こえるように鳴らしながら和仁は一歩蓮に歩み寄った。彼の苛立ちを示すように視線には険が乗っている。そんな彼の視線を楽しそうに受け流しながら、蓮は彼との距離を詰めるために更に一歩歩み寄った。
見上げる視線と見下ろす視線が絡み合う。不用心を心配しそうになる程の距離に、眼の前の美貌の少女に対して赤らみそうになる自身に活を入れながら和仁は蓮に先を促す。
「それで? 俺にどうしろと言うんだお前?」
「いやいや単純なことっすよ先輩」」
そう言って彼女は笑う。悪魔的な笑みを、蠱惑的な笑みを更に深めて。
「私に協力するか、記憶を失うかの二択。さあ、どっちを選びますか?」
その言葉に和仁は即答できなかった。
協力なんて出来ない。協力するという事は非日常に浸るという事だ。非日常に浸るという事は日常を切り捨てるという事だ。なにせ記憶を失うという一大事がもう片方の天秤に乗せられているのだから、その位のデメリットは覚悟するべきだろう。それは困る。それは許容できない。物心ついた時からの目標を今更切り捨てるなんて、彼には出来ない。
「……嫌な二択だな。他の選択肢は無いのかよ?」
「ねーっすよ。まあ、不運だったってことでどっちか選んでくださいな」
「記憶を奪え」
「あらら、そっちを選びますか。……本当に珍しい人っすね、先輩」
心底驚いた。そんな表情を浮かべて蓮は嬉しそうに笑った。その様子に和仁は溜息をついて、うんざりしている内心を眼の前の彼女に示す。が、そんな彼の様子にも全く堪えた様子を見せず彼女は更に彼との距離を詰める。
最早密着に等しい距離。
その距離でお互いに見つめ合う。
恋人同士でもないのにこの距離に詰められた事に和仁は不快感を露わにするが、それさえも軽く流して彼女は顔を近づける。
「んじゃ、今から記憶消しますけど、自分初めて何すからね?」
何がだ?
そんな和仁の疑問が言葉になるよりも早く、
蓮は彼の唇を自らの唇で塞いだ。
目を見開く。甘く香るそれが彼女の匂いだと気がついて、脳を貫くような水音で、舌をからめられている事に気が付いた。
何を? 何が? 何故?
あらゆる疑問が脳裏を奔る。
見開いた瞳が整った顔立ちの少女の姿が脳裏に焼き付けられて。悪戯っぽく輝く黒い眼に吸い込まれるような錯覚さえ抱く。時間にしておそらく数秒。長くても十秒。だが、感じた時間は間違いなくそれ以上だ。
「あは……興奮しましたか? 先輩?」
「何の……」
言葉が紡げない。
唐突に異様なまでの睡魔が和仁の瞼にのしかかる。
ぐらりぐらりと大地が揺れるような感覚さえ抱く。頭が揺れる。抗えない睡眠への誘惑。
「では、おやすみなさい。次会うときはまた、面識のない先輩後輩で。」
どこか寂しげに蓮はそう言った。
だが、その言葉を最後まで聞きとることはできず、和仁の意識は闇の中に落ちていった。
夢すら見ない夢の中より目を覚ます。
いつも通りの自分の部屋。日付を見れば月曜日。学生にとって何よりも憂鬱なその曜日。だが、そんな事よりも何よりも憂鬱な事が和仁にはあった。
「おはようお兄ちゃん。珍しいね、昨日あんなに早く寝た事もだけど、こんなに遅く起きてくるなんて」
「……ああ、そうだな」
リビングで自分と同じ学園の制服を着込んだ妹にそう言われ、おざなりに返すと、適当に冷蔵庫から牛乳を取り出し飲み干す。そして、即座に鞄を持って学園ねと向かうべく玄関へ。
「ちょっと、お兄ちゃん朝ご飯は?」
「今日はいい。用事がある」
後ろで文句を言っている妹を無視。
ただ、急ぎ足で学校への通学路を風切り歩く。
「記憶、まるで消えてねーじゃねーか……」
途中、口付けられた感触を思い出し、不本意にも僅かに頬を染めた。