刈沼儚理 1
がたん、と車体が揺れる。潰れてかすれた車掌の声が車内に響いた。
「次はー、終点ー、終点ー」
駅名は言わなかった。普段だったら細かいことでも気になってしまってどうしようも無いはずの自分が、今はまるで思考能力を根こそぎ奪われたみたいにどうでもいい。おれはぼーっとつり革につかまって、まわりを見回した。
やけに老人が多い。若者はほとんどいなくて、変に孤独を感じて、同年代はいないものかと、車内の隅々まで探してみたが、いない。最後に窓に視線を戻すと、少し天然パーマの入った髪の若い男が映っていた。おれだ。まったくもって冴えない。
それなりに空いているのに、おれはつり革につかまって立っていた。通学の時のくせだ。席を譲ったりするのが嫌だから、電車に乗る時はいつも立っているのだ。
窓に映った他の人をざっと見渡すと、一人だけ女の子がいた、それ以外は皆老人で、不気味なほどに誰も一言も発さない。なのに表情はやすらかで、笑っているようなそうでないような、一言で言ってしまえば幸せそうな、顔だ。
だが、その女の子だけは、悲しげな面持ちで窓の外を見ていた。
親とはぐれてしまったのだろうか、声をかけようかどうか迷っていると、また車掌の声が響き渡る。まるで何百年何千年前からアナウンスをしてるみたいに、くたびれている。
「まもなくー、終点ー、終点」
やっぱり駅名は言わなかった。
おれは、いつも乗り換えていた駅とは違うな、寝過ごしたか、なんて考えながら、カバンも何も持って来てないことに気付いた。というか立っているのだから、立ったまま寝れるほど疲れていないのだから、寝過ごすわけがないのだ。限界まで働いたサラリーマンじゃあるまいし。まず今は何時だ、ここはどこだ。
おれは何のために電車に乗っているんだ。
普段からまわりの人間や事象の細かいことが、気になってしまう性格なのに、今は頭にもやが掛かってしまったみたいにどうでもいい。自分のことすら分からずにただただ終点に向かって電車に乗っていた。駅名を示すはずの電子画面は、なぜか数字が書いてあった。
がたん、ともう一度揺れて、電車が止まった。
おれ以外の客はぞろぞろと連れ立って、きちんと並んで下車していく。おれはなんとなく降りたくなくて、しばらくそのまま立っていたのだが、見回りの車掌に「清掃が入りますので」と注意されてしまい、仕方なく降りた。
まわりの人たちはそのまま乗り換えの改札に向かって、歩いていった。おれはここが何ていう駅なのかさえ分からずに乗り換えるのもな、とぼやけた思考回路でなんとか考えながら、駅名の札を探した。
でもいくら探せども、札が見つからないのだ。柱を隅から隅まで見ても、真ん中にぽつんと立っている看板に終点、とだけ書いてあった。ため息をつきながら出口を探すけども、見当たらない。乗り換え改札、と書いてある階段が地下に続いているだけ。
おれはこの不親切な駅にだんだんと腹が立ってきた。老人がたくさん利用するのに、エスカレーターもエレベーターも設置されてないし、さっき見たかぎり結構な人数が利用しているみたいだしな。
もやもやの頭から、おれはおれを取り戻しつつあった。おいおい、ちょっと考えるだけで疑問だらけじゃないか。駅員に文句をいってやろうと、ホームの隅で帽子を目深くかぶってだんまりの男に声をかけた。
「あのう、すみません」
駅員の制服を着ているのは間違いないが、帽子とそこからはみ出たボサボサの髪の毛で、どのくらいの歳なのか、まずちゃんと仕事をしてるのか、分からない。しばらく返答を待っていたが、そのまま黙っていた。無視かよ。
「あの、す、み、ま、せ、ん」
今度ははっきりと目に入るように帽子の奥を覗き込んで話しかけた。すると少しだけ顔を動かして、ようやくおれの方を向いた。
「置物かと思ったよ、なああんた、ここは何て駅なんだ」
しばらくこっちをじっと見たかと思うと、帽子のふちをぐいっと動かした。いや、おれの方を見ているのかなんて分からない。それほどまでに髪が無造作に伸びきっていて、言っちゃ悪いが、汚らしい。ふちに溜まったほこりがぱらぱらと落ちる。
「おや、珍しい。何か御用で?」
消え入りそうなほど細い声。
「ここは何て駅なんだ」
「終点、でございます、お客様」
「駅名を聞いてんだよ。終点なのはさっきの車内アナウンスで分かってる」
「あらら、気付いていないパターンですか……だいたいの人はここに来た時点でここがどこだか、分かっているんですけどね」
だったらおれは、分かってない方のヤツってことか。馬鹿にされたようで、嫌な気分を隠せない。たしかに昔から用量はいい方じゃないけどさ。
「あーもうここがどこだかは、いいや。戻るにはどの電車に乗ればいいんだ? そっちの電車が来るのを待てば良いのか?」
反対方面の線路を指差すと、駅員はあきれたように言う。
「ほんとに、何も理解してないんですね」
「なんでお前に馬鹿にされなきゃいけないんだよ、時刻表は」
「ありませんよ」
いくらど田舎にある辺境の駅に来てしまったとしても、時刻表も置いてないなんてサービスが悪いにもほどがある。いまだにこんな私鉄が生き残ってるなんて、ずいぶんと変なところ。
おれは思わず言葉遣いが悪くなってしまう。
「はあ? じゃあ何だよ、ここは駅じゃねえってか」
「言わないと分かりませんか、ぼくは嫌なんですよね、告げた時の顔を見るのが」
すう、と一息吸って、駅員はこう言った。
「あなた、もう死んでるんですよ」
*
駅員はたしかに想像しなかったような答えをぶつけてきた。残念ながら細い声も、誰もいないホームにはよく響くのだ。聞き間違えるはずもない。だけど、おれは聞き返さずにはいられなかった。たぶん、声は震えている。
「どういうことだよ」
「どうもこうも、そういうことですよ。この駅は人生の終点、いわば死んだ人だけが乗れる電車なんです。皆さん、だいたいは車両の中で〝ああ、自分は死んだんだ〟って悟りながらこの駅に来る。こちらの負担を減らすために、あの電車にはそんな不思議な力があるんですよ。あなたには効かなかったようですけどね。時折、自分の死を受け入れられず、納得もできずにぼくに話しかけてくるんですよ」
駅員は遠くを見つめるような仕草で、肩のほこりを払った。
「あなたは、三年と百七日ぶりにぼくに話しかけた、お客様です」
おれはまだ納得できなかった。おかしいだろ、何でいきなりこんな事になったのか、理由も何も分からない。死後の世界なんて、御伽話だ。
「……やめてくれよ、壮大などっきりか何かだろ?」
「だから嫌だって言ったじゃないですか、その顔が。ああ何度でも言いますよ、あなたは死んでるんです、これはまぎれも無い真実です。ほら、乗り換え口を見てください」
そこには小さく、天国線、地獄線と書いてあった。
「ふざけないでくれ」
「ふざけてなんていません」
受け入れる事なんてできるはずもない。だが、そんなおれの思いを打ち砕くかのように駅員は小さな歩幅でてくてくと歩き、おれの頬を思い切りビンタした。駅員にビンタされる乗客なんて、間抜けな光景だ。状況が状況なら笑える景色だろう。だがおれは、まったく、これっぽちも笑えなかった。
痛くなかったのだ。
「夢でもありませんよ」
まるでおれのような人間がこれまで何人も居たかのように、慣れた手つきで駅員は倒れ込んだおれに手を差し伸べた。頭の中に鉛を押し込められたように、目の前が霞んで来た。死、なんて言葉にすればくだらないくらいにあっさりで、一文字で、そして実際それは、死んでみてもくだらないくらいあっさりで、どうしようもない虚無感に襲われて、おれの膝は自重を支えることを諦めかけていた。
「おいおい、なんだよ、これ。こんな若い身体でおれは死んだのか?」
はっと気付いて、おれは駅員の肩を揺すった。
「待てよ、じゃあ今動いてるこの身体はなんだ? ほかのやつらは地獄とか天国とか、降りちまったけど、この空間はなんだ。今ここにいるおれは何なんだ」
「久しぶりの仕事なんですから、耳元でぎゃあぎゃあ言わないでくださいよ。虚体ですよ、いわば魂。人間界では幽霊とか、言ってるみたいですね」
駅員はおれのジーンズのポケットを指差して言う。
「ここは善行と悪行の数を計る場所、だった」
「だった?」
「大昔のことですよ。えんま大王も、きちんと存在していたんです。でも人間界と同じでこちら側、名前なんてない死後の世界は、ああ人間は冥界とか呼ぶんでしたっけ。冥界の方も少しずつ便利になりましてね。今ではあなたのポケットに入ってる、ICカードが善行と悪行を自動で記録してくれる。あとはそれを下にある改札にピッとタッチするだけで、簡単に天国と地獄の振り分けも済んでしまいます」
慌ててポケットを探すと、たしかにカードが入っていた。銀色に光っていて、表面には味けのない印字で名前が書いてあった。
>刈沼 儚理
おれは印字をなぞりながら、どこか懐かしい気持ちになった。
「かりぬま、はかり……俺の名前か?」
何かに納得したように駅員はうなずいた。
「ああ、なるほど。あなたは死ぬ寸前に記憶を無くしたんですね。ならぼくに話しかけてくるのも無理も無い、過程を知ってれば誰もが電車の中で諦めますからね、普通は。でもおめでとうございます、シルバーカードは天国行き、確定してますよ」
今の時代に珍しい、と付け加えて駅員は口角をわずかに上げて、少し微笑んだように見えた。でもおれはまったく納得できなかった。名前も、死んだ理由も忘れて、はい天国です、なんて言われても全然、気持ちよくなんかない。
だいたい、善行なんてした覚えがない。おれはいつも、ただ、臆病で慎重なだけだった。
「死んだ理由とか、書いてねえのか、このカードには」
裏面や側面をなで回してみるが、きらきらと輝くだけで反応はない。
「残念ながら、無いですよ。人は死ぬとき、自分がいなくなることを何となく認識して、それで納得するんです。あなたみたいのは特例なんです。ほら、次の電車がきます、混む前に早く改札に行った方がいいですよ」
「納得できない場合は?」
おれは駅員に詰め寄った。終わらせてたまるかよ、なんて思いが自分の中に芽吹き始めてるのが分かった。らしくもないが、今までの臆病を清算するかのように、この世界でのおれは活動的で、何だか皮肉だな、なんて思う。せめて自分の納得できる死を、おれはしたい。
駅員がすこし言いよどんで、目をそらしたのが分かった。
「何か手があるんだな?」
「いえ、その」
「頼むよ。せめて自分が死んだ理由くらいは知りてえんだ」
しばらくうんうんと悩んで「めんどくさいんですよね」とか「ぼくはあんまり気が乗らないのですが」などと吐きながら、自分のポケットから手帳を取り出した。
「げえ、一時間後とはまたタイミングの良い……言っておきますけど、それなりの覚悟が必要になりますよ。禁忌がたくさんあるんです」
天国や地獄に行ってしまったら、それこそ覚悟もくそもない。方法があるのなら、それに従わない理由はない。
「大丈夫だ、どんな方法なんだ」
「きまぐれで、逆方面の電車が出るんですよ。それに乗っていったん現世に戻って、自分の意味を探してくる事ができます。どうしても納得できない人、まああなたみたいな人のためにある特別措置みたいなものです。人は自分が存在していた意味を、無くしたくないんですよ」
「そいつに乗せてくれ」
おれは迷うことなく答えていた。なんとなく、自分は大事なものを現世に置いて来てしまったような気がしたのだ。それが今、らしくない行動に出ている理由でもあった。
記憶じゃなくて、心臓がそう言っている。
*
「ええと、天国や地獄に行くのと同じで、そのカードが必要になります。ここから現世は遠く離れているので、それなりに通貨として善行分が引かれます。よほどの人でなければ地獄行きの確率はかなり高くなりますよ、もともとよみがえりなんて褒められたものではありませんから。ああ、ちなみにあなたは心配ないですけど、そのカードが最初から真っ黒だったりするとそもそも乗れません」
「かまわない」
はあ、と駅員がため息をついた。おれは駅員とホームのへりに座って、現世に行くためのルールについて説明を受けていた。死後の世界にもいろいろな決まりがあって、ついつい関心してしまう。駅員は一定のタイミングで「ちゃんと聞いてますか?」と確認をとっていた。案外、親切なやつなのかもしれない。
自分が死んだ事については、納得はしていないが、理解はした。夢にしては理路整然としすぎていたし、考えてみればおれは夢なんて見ないたちなのだ。それに、受け入れずに錯乱しても、現世に戻る権利とやらを失ってしまうかもしれない。
「それで、ここからがやっかいなのですが……せっかく現世に戻ってもほとんどの場合、自分の身体がもう使い物にならないんですよ。病気になってたり、動けないほどの老体だったり、ばらばらに殺されてたり。だから死んだ理由になった最重要な、一日。そこに向けて、現世行きの電車は発車します。言ってしまえば、過去に戻るわけです」
くれぐれも、と付け加えて駅員は続けた。
「結末を、変えようなんて思わないでください。その二十四時間は……まあだいたいが死ぬ直前の景色をもう一度見ることになるんですが、あくまで納得するための期間です」
「変えようとしたら、どうなるんだ?」
「未来を無理矢理ねじ曲げようとしても、同じ結果で収束するんです。いえ、収束するようになる、と言った方が正しいですかね。始めから全てがそうだったかのように、組み立て直される。世界はですね、誰が決めたか分からないけれども、そういう風にできてるんです。だから愚かで、意味がないことはせずに、ちょっと自分の過去を覗いて、それで終わりにしてください。分かりましたか?」
「ああ、分かった」
おれはうなずいた。別に死んだこと自体を無かったことにしたいわけじゃない、若くしてこっちに来たのも運命だったのだろう、仕方ない。でも自分の存在してた時のことも忘れて、思い出もないまま、何も分からないままなんて、嫌だ。
「あとはまあ当然なのですが」
駅員は、腕時計を見ながら説明を続ける。
「それと、こちらの世界についての発言、つまり一度死んでいることをばらしたりしたりするのもNGです。詳しくはこちらの現世用パンフレットに書いてあるのですが……」
がさがさとポケットから丸まった紙くずを取り出して、広げた。おれはつい「もう少しちゃんと管理しとけよ」と言ってしまったが、無視された。
「要するに現世に影響を与えなければいいのです、干渉せず、を念頭において行動してください。もしここに書いてある禁忌を犯してしまった場合、最下層、無間地獄へ直通運転でむかう特別快速があなたを迎えにいきます」
「二十四時間の期限は、関係なしに?」
「関係なしに。前回戻った方は、残念ながら過去に干渉してしまい、その列車で連れてかれました。ぼくは何度か見てますけどね、あの電車だけ、旧式なんです。真っ黒で、汽笛の音は恐ろしい獣の咆哮みたいで、行き先の無間地獄は……ああ想像しただけでおぞましい」
駅員は両手で自分の肩をかかえ、獲物として狙われた小動物のように震えはじめた。おれはそこがどんなに恐ろしい場所か想像もできないけど、死んだ後の世界なんて、興味は無かった。こう見えて根っからの理系なのだ。死ぬのが怖いやつが、あの世だとかを勝手に妄想してるもんだと思っていた。
まあ、こんな世界がほんとに存在したのは予想外だったけどな。
「ちなみに何かイレギュラーが起きた場合、こちらで調整をかけさせてもらいます」
「調整?」
「例えばさっきの、こちらの世界について何か喋ってしまった場合。現世の人間に、こんな世界があることが知れた状態で過ごしてもらっては困ります。この……特例を望む人でごったがえしてしまうでしょうから。その場合、記憶に調整をかけるんです。要するに、不自由が無い程度に忘れてもらうってことですかね」
「ふーむ、なるほどな」
たしかにそうなったら、多くの人が善行をかき集めてから死ぬだろう。それはそれで悪くはない気がするけど、駅員の表情は渋い。過去に何か面倒なことがあったのだろうか。
「大丈夫だ、わざわざ禁忌とやらを犯す必要もねえし」
「……その言葉を聞けてよかったです。ぼくもあの汽笛の音は、聞きたくないので。さて、あと五分ほどで現世行きの列車が来ます」
駅員は自分を尻を軽くはたきながら、立ち上がった。
「パンフレットは渡しておきますね。というか、最初から渡すためのものなんですが。だいたい、重要なことは伝えましたけど、まだ小さなルールがたくさんあります。中でじっくり、読んでおいてください。気付かないうちにルールを破ってしまった、なんてことになったらシャレになりませんから」
おれは、渡すためのものならなおさら綺麗にしとけよ、と思ったが黙っていた。ここまで説明してくれた相手を、わざわざ嫌な気分にさせる必要も無い。
「了解、読んでおく」
しばらくして、駅員の言った時間きっかりに列車が到着した。乗って来たものと同じような型で、行き先を示すプレートには現世、と記してあった。分かりやすい。
ぷしゅうと間抜けな音を立ててドアが開く。中には誰も乗っていない、そりゃあそうだよな、と一人で勝手に納得した。中の電子画面には一、と表示してあった。
「じゃ、おれの死にもっとも重要な一日とやらに、行ってくるよ」
駅員はここではじめて帽子を脱いで、足をそろえた。髪はぼさぼさで相変わらず目は見えないが、急にかしこまった口調で言う。
「どうか、納得できる結末を」
「なんだ急に、挨拶みたいなもんか」
ぼさぼさな頭と真面目な態度が、マッチしてないのがやたらとおかしくなって、おれはちょっと笑ってしまう。と、同時にドアが閉まった。
駅員が窓ごしに何か呟いた気がしたが、おれには聞こえなかった。
*
「儚理ー、ちゃんと聞いてる?」
隣で女が喋っている。耳が出るほどのショートカットに、どこぞかの制服。紺色のブレザーが良く似合っている。ほっそりとはしているが体系的におそらく高校生だ。いきなりの女子高生のお出ましにおれはとっさの返事を返せず、おれは自分の存在を確かめるべく、足もとを見た。見覚えのあるようなないような、制服。
「むう、また聞いてなかったなあー、最初から聞いてもらいます!」
「あ、うん」
頬を膨らませて怒ったようなしぐさをする。戸惑いながらも相づちを打つと、綺麗な歯を見せて笑ってから「つまり、オタマジャクシの」と話し始めた。話の内容は不思議だったが、綺麗な子だ、と思わず見とれてしまう。言ってしまえば、好みのタイプ。
「オタマジャクシの尻尾はプログラムされてるってわけ。アポトーシス、細胞死。人間も常にここはいらないなあ、って細胞が自分から死んでくじゃない。でもわたしは思うんだよね、カエルは尻尾ついてた方が可愛いし、便利じゃないかって。ほら、カエルが泳いでるところを想像してみて……ね?」
「あ、ああそうだな」
適当に話を合わせるが「ね?」なんて言われてもおれはカエルには興味なんて無いし、アポトーシスなんて単語はとうの昔に忘れていた。はずなのだが、脳みそがくすぐられているような、懐かしい気分になった。
女は歩道の白線をなぞるように歩きながら、続ける。
「泳ぐときに足を使うより尻尾ですいすいー、ってやった方が断然楽だと思うんだよね。だからあのプログラムはたぶん失敗なんだよ。大昔のカエルの先祖が、うっかりミスタイプしてできちゃった失敗作。でもだからこそ、跳ねることを鍛えて彼らは頑張ってるんだよ。先人のせいにしないって、偉いヤツらだよ、カエルは」
ひとしきり語って満足したのか、ふんと鼻息を鳴らした。正直なところカエルの頑張りについてはあまり興味もなくて、「人間は先人のせいにすること、多いもんね」と返そうとも思ったけど話がさらに長くなりそうだから、やめておいた。
「確かに、偉いやつらだな」
「でしょでしょー。やっぱり儚理は分かってるなあ」
にししー、と笑って女はおれの腕に飛びついてきた。花のような良い香りがして、びっくりして振り払ってしまう。
「おい! こんな道ばたで」
「ご、ごめん。でも儚理、いつもは許してくれるから」
女は悲しい顔をして、うつむいた。おいおい、生前のおれはこんな可愛い女と歩くような実の入った青春を送っていたのか。記憶を無くしたのが悔やまれる。ポケットの中から携帯を取り出し、時間を確かめると、午前八時を回ったところ。
一緒に登校して腕を組むほどの仲。要素としては充分だ。おれは少し迷ったあげく、遠慮がちに口を開いた。
「まあ、つき合ってる……しな、おれら」
ちょっとした賭けだ。
「そうだよー、だからほら腕の一つや二つ、組んだっていいでしょ。でもいちいちそんな事言うなんて珍しいね、何かあった?」
死んだんですよ、なんて禁忌だろうとそうじゃなかろうとおれには言えない。それほどまでにこの女は幸せそうに、腕を組み直してくるのだ。しかし、どうやら正解だったらしい。この女とおれは生前につき合っていた。なかなかやるじゃないか、おれ。
「いや別に、ちょっと寝不足なだけ」
「寝不足は良くないね、脳細胞が回復しないよ」
くだらない言葉をかわしながら、並んで歩いた。おれはまず、現世の記憶を少しでも取り戻したいと思っていた。なるべく手がかりを集めていかなければならない。今日、二十四時間のうちに死ぬのなら、それまでに忘れた事はなるべく、思い出しておきたい。
しばらく隣の女と会話すると、心臓が跳ねるように喜ぶのが分かった。無くした記憶はたくさんあっても、気持ちまでは変わらないようだ。
「じゃあ、また昼休み」
「おう」
どうやらおれは、この女が本気で好きだったらしい。
*
学校についてから分かったのだが、ものに関する記憶は抜けていなかった。自分の教室も分かったし、授業も不自由なくこなす事ができた。おれから抜けていたのは、自分と、他人についての記憶だけ。
おれは疑問を覚え始めていた。死に関するもっとも重要な二十四時間だというのに何のドラマも起きる気配がない。ひたすらに平凡な日常だ。こんなんでほんとに自分が死んだ理由なんて分かるのか、なんて考えていると、隣の男が話しかけてきた。サル顔で眉は凛々しく、短く刈り上げた髪はまさに日本男児。
いつの間にか一時間目が終わっていて、教室は喧騒に包まれていた。
「なあなあ、今日もお前、弥祈ちゃんと登校してただろー? はあ、羨ましいったらありゃしない……まあ、お前くらいしかあいつの相手はできないと思うけどさ。彼女作るコツとかあんなら教えてくれよおー」
おれの彼女はどうやら弥祈という名前らしい。ああ、この男のおかげで助かった、名前を聞くのはさすがにまずいと思って、分からずじまいだったのだ。感謝をこめて、返事。
「お前もモテそうじゃんか、大丈夫、すぐにできるよ」
「……なにその余裕、褒めてるつもりなのか知らねえけど、すっげー腹立つぞ。あーあ、これだからリア充は! 散れ! まだ寒いけどなあ、もうそろそろ季節の変わり目なんだよ、青い春がやってくるんだよ。儚理なんて、春の桜とともに、散ってしまえ!」
「うっわ、わけわかんねえ」
「俺のご高説が理解できないと? お前あれだぞ、ソクラテスの名言とかで検索して、調べてみろ。だいたい俺と同じようなこと言ってるよ」
「例えば?」
「あ、あーあれだ。ブルータスよ、お前もか! とか」
「詳しくはおれも知らないけど、それは絶対ソクラテスじゃないのは分かる」
「でも裏切ったのも間違いないだろうが。彼女欲しい、欲しい、なんて言ってた仲間だったはずの儚理はリア充たちの集団に混じり、俺の精神を攻撃した。そうだよ、誰が言ったかなんてどうでもいいんだ。俺が言いたいから言ってるんだよ、青い春のまっただなかで叫んでるんだよ。儚理、お前もか! 散れ!」
ちょっと良く分からない理論で反抗してくる彼は、冗談だと分かるように身振り手振りを大げさにしていた。おそらくおれとは仲が良かったのだろう、こんな風に言い合うのは関係が悪かったら到底できない。それに「青い、といえば葵ちゃんって最近可愛いよな、六組の」と続ける彼は、なんとなく、良いヤツ感がにじみ出ている。
「あはは、おれさ」
「ん? どうした」
君が何ていう名前か知らないんだ、とも、今日死ぬかもしれないんだ、とも言えずに、おれは日の光を柔らかく反射するグラウンドを見ながら笑って言う。
「すげえ、楽しんでたんだな」
「はあ? なにそれ、気持ちわる」
気持ち悪いとはなんだ、と抵抗しようとしたところで、次の授業をつげる鐘がなった。
*
何事も無いまま、昼休みに入った。おれは授業中に携帯をいじって、彼女である弥祈の名字や、隣の席の友人についての手がかりを集めていた。メールボックスにはデートの約束や、細胞についての話、今日何があったか、なんて他愛のないことが詰め込まれていた。
自分で打ったはずの送信メールは、いかにも学生くさくて何だか恥ずかしくなった。
>桜田 弥祈 サクラダミオリ
名前を表示したまま、画面をぼうっと見つめてると、後ろから「何をしてるのかな」と、声をかけられた。おれはびっくりしてイスから転げ落ちそうになるが、倒れそうになったイスをしっかり、支えてくれる。いつの間にか昼休みに突入していたらしい。
「どうしたの? 私に会いたくて、仕方なかったのかな」
「……そうかも。細胞レベルで」
「なにそれ素敵!」
そんなおれたちの様子を見て、クラスメイトたちが「おっ、今日もあっついねえ」「ほんと、お似合い」「くそ、裏切りやがって、ユダめ」などと騒ぎ始めた。そんな言葉を笑顔で受け流して、弥祈はおれの手を引っ張る。
「じゃあ行こっか。今日は外!」
「ちょっと待って、おれも弁当」
おれは鞄から弁当を取り出して、いつの間にか、弥祈の手を握り返していた。行き先は言わなくても、なんとなく分かった。屋上にある、貯水槽の横だ。弥祈は「いい天気だけど、まだちょっと寒いね」などと言いながら、座り込んだ。
「私が思うにね、細胞のプログラムには限界があるの。何かに特化した性能を持つと、できるはずのこともできなくなる。ペンギンの泳ぎがあんなに上手なのは、飛べなくなったから。泳ぎたい、って思って一生懸命泳げるように翼を改造したら、ある日いつの間にか飛べなくなってたの。でもまあいいや、お魚美味しいし、って彼らは生きてるの」
弥祈は卵焼きを食べながら、鳥の話をした。
「偉いな。でも鴨はどうなんだ?」
「うーん、それはね。鴨は、バランスの良い振り分けに成功した希有なパターンなの」
まああれは泳ぐと言うより浮いてるだけだしな、と思いながらおれもウズラの卵を口に放り込んだ。どうやらおれの親は料理のセンスはあるらしい。もしくは自分か。
「そう考えると、人間は欲張りだな」
「うん。飛ぼうともするし、泳ごうともするし、猛スピードで走る事もできる。でも、それは誰かの、何かの助けがないとできないことばっかりだね」
「弱いんだよな」
「それもまた素敵だと思うけどね、私が儚理と寄り添ってるのも、弱さがあるから」
「ま、たしかに」
生き返りたくもなるし。なんて、おれはいつの間にか未練を感じ始めている自分に気付くが、頭をぶんぶんと振って、脳内からそんな思いを追い払う。現世にこうやってわざわざ戻ってきたのは、死んだ原因を見るためだけだ。
「話は変わるけどさ、そろそろ、卒業式だね」
「卒業式、か」
どうやら高校の卒業間際でおれはこの世から去ったらしい。どうしようもなく不幸だな、と思ったところで、いきなり、強烈な違和感を覚える。どくどくと血管がざわめいて、脳みそが無くした記憶の一ページをあざやかに書きなぐった。
間違いない。
「儚理、どうしたの怖い顔して。ああー、もしかして心配なんだなー。私たち、大学同じところ受かったじゃん。学部も同じなんて奇跡かも。大丈夫、浮気なんてしないよ」
隣で笑う弥祈を見ながら、おれは懸命にばれないように、笑顔で「ああ、頼むよ」なんて不安定な調子で返した。脳みそはぐるぐると目眩をおこしていた。
合唱したときのピアノの伴奏が、よみがえる。曲目は、旅立ちの日に。
おれは高校の卒業式は、出席したはずなのだ。