煙花三月~上野山茶屋先にて~
タイトルの【煙花 三月】は、李白の詩【黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る】の一節から。【煙花】とは春霞に煙る花の様子を表しています。
やがて訪れる春の息吹を感じて頂ければ幸いです。
掛け茶屋の軒先に腰掛け、淹れたての熱い茶を啜っていた。
この辺りは目立って人通りがあるというわけでもなく、緑豊かな大ぶりの枝々が競うように道を挟んで、こちら側の茶屋のある方までに張り出し、乾いた小道に斑になった影を落としていた。
梅の咲く季節に入り、鶯のお浚い声が可笑しく耳に届く頃合いになっていた。未だ弱々しいながらも日の差し込む日中は暖かかった。心持ち、まだ風は冷たいが、やがて南方からの便りを近いうちに運んで来るに違いない。そんな時分だった。
あらゆるものが蠢き出そうとする春。
勘解由も木々の青々とした柔らかさにつられるようにどこか心が浮き立ち、家にじっとしていられなくなって散歩に出てきたのだった。
朝の内に清水寺へのお参りを済ませると、ぶらぶらと足の赴くままに不忍池の辺りを歩き、池之端の辺りで昼近くになって、この茶屋で一服となった。
水面には立ち枯れて茶色になった葦がびっしりと生い立ち、その中を鴨や赤い足をした海鳥どもが忙しそうに水の上をなにやら掬って食べていた。
弁天堂を抜け、緩やかになった円い小道を半ばばかり行くと、遠く小高い上野山の中腹に、東照宮の五重塔が見えた。芽吹き出した淡い緑を背景に紅い塔が一層抜きんでている。
勘解由は酷く懐かしい思いに囚われた。体内を流れる血の奥の方で、心地よく、長い間忘れていた記憶が滲み出て来るようであった。
それは、現実には存在しない、しかし、勘解由の中にはっきりと刻みつけられている幾つもの印象の一つだった。
ふと、遠く離れた故郷の景色が――――――それは、母の話と幼いころの記憶の断片から、勘解由が自分で作り上げたものであったのだが――――――目の前に浮かんでいる気がした。
そうして、一刻ばかりも経ったであろうか。散歩に身体が温かくなると、たちどころに小腹が空いていたのを思い出して、近くの茶屋に入ったのだった。
今時分、客は殆どいないらしく、前垂れを付けた女たちも盆を膝の上に乗せて、退屈気に店先の小道を窺っている。がらんとした茶屋の中で、時折、右奥に置いてある茶釜が、吃驚したような声を立てて、店の主に準備万端と知らせていた。
暖簾のすぐ下に設えられた長い床几に腰を掛け、黄粉と餡子の付いた団子を頬張りながら、木々の向こうに見え隠れする不忍池の光る水面を眺めていた。
火照った頬に心地よい風が吹いている。
水鳥の鳴き声が、光る水面にこだましていた。
ふと聞こえてきた人の足音に、勘解由は紅い毛氈の敷かれた床几から、茶屋の外に首を伸ばしてみた。
すると、左の坂下の方角から、急ぎ足で駆けてくるものが見えた。
両刀を腰に差した明らかに侍と見える男で、茶屋の前でちらとこちらに一瞥をくれたが、そのまま前を通り過ぎようとした所、二間ばかり行った所で、突然、前にのめるようにして地面にへばりついた。
その転び方が余りにも豪快であった為、一瞬、勘解由は何が起こったのかと思ったのだが、何のことはない。気が急いているのか何かで小石にでも躓いたのだろう。
それにしても、その見事な転びぶりに思わず不謹慎ながらも笑いが込上げてきた。悟られまいと袂で顔を覆ったが、勘解由は、すぐにその笑いが消えて行くのが分かった。転んだ筈の男が、地面に倒れたまま動かなかったのだ。
勘解由は素早く辺りを窺うと、まだ黄粉の付いていた指を舐め、倒れている者の元へと走り寄った。肩を揺り動かしても何の返事もなく、抱きかかえて起こしてみると、まだ二十歳にも満たないかと思われる程の若い男の顔が陽の光を浴びた。気を失っていて、引き攣った顔には脂汗が滲んでいた。 勘解由は、正気に戻す為に男の頬を強く叩いてみたが、ぴくりともしなかった。そこで、その男を肩に抱えると、休んでいた茶屋へ引き返し、主に頼んで空いた奥座敷に入れてもらい、男を横たえた。
面倒なことに巻き込まれるのは御免だということで主には渋い顔をされるかもしれないと思ったが、思いの外、気さくに応じてくれた。今まで手持無沙汰であった女中たちも急に目の覚めるようなことが店先で起き、怖いながらも興味をそそられるように勘解由のいる方をちらちらと覗いていた。
勘解由は茶屋の者に手伝ってもらい、敷いた床の上に一先ず男を横たえさせると、女中の一人に水を頼んだ。
床の中の若い男の顔には疲れの色が滲んでいた。どこかからの旅の帰りらしく、着物や短袴は埃に塗れていた。
ふと先程の男の足から解いたばかりの脚絆と草鞋に目を移した。
草鞋は酷く擦り切れていた。恐らく、ここまで暫く飲まず食わずで来たのに違いない。でなければ、あのように急いでいる所で突然倒れたりはしないだろう。何やら訳ありのように思えた。
盥に張った水を女中から渡されると勘解由は手拭を絞り、汗と埃に塗れた顔や手足をそっと拭ってやった。
すると低い微かな呻き声が、男の口から洩れた。
「御気がつかれましたか」
顔を覗き込むと、額に皺を寄せて、若い男の目が勘解由を捉えたのが分かった。
男は首を僅かに傾けた。状況が把握できていないようだ。
「あなた様がお倒れになった傍の茶屋の奥座敷です」
その答えに突然起き上ろうとするのを制して、勘解由は男をそのまま寝かせた。
「どうぞ、御無理をなされまするな。まだ青いお顔をしておいでです。今暫く、お休みなさい」
その声には、有無を言わせないような強い響きがあって、男は観念したのか、そのまま大人しく横になった。
「………すると、ここはまだ、……上野山か」
勘解由の方に顔を向けながら、その男は確かめるように尋ねた。
勘解由は労わるような目をして頷き返すと、開かれた障子の向こうに覗く、不忍池の水面に視線を移した。
「水鳥の鳴き声が聞こえるでしょう。ここは池之端」
そして、まるで幼い子を諭すように、優しい声音で続けた。
「今、ここの者に頼んで軽いものを拵えてもらっています。事情はともかく、まずは腹ごしらえをして、ゆっくりとお休みになることです。幾らお若いからと申しましても、無理をしてはお身体が持たぬでしょう」
「されど」
男が恥ずかしさにか、顔を赤らめた。
「お気になされまするな。これも何かの縁でございましょう」
「………忝い」
そう呟くと男は暫し目を閉じた。
勘解由は、静かに瞑目した男の鼻筋の通った涼しい顔立ちを眺めた。
運ばれて来た粥と梅干をこの若者は美味そうに平らげた。余程腹が減っていたと見える。それだけの食欲があれば大丈夫と勘解由は内心安堵し、思わず笑みを漏らしていた。
不意に漏れた笑い声に、若者は恐縮そうに箸を止めた。
「どうぞそのまま。たくさん召し上がってくだされ。私もこれで安堵いたしました。ここの主には話を付けてありますから、どうぞごゆるりとしていったらよろしいでしょう」
それでは私はこの辺りで失礼すると致しましょう。
襖を開けてそのまま去ろうとする後ろ姿に、若者は慌てて声を掛けた。
「あいや、暫く。この度の御親切、まこと痛み入りまする。何とお礼を申してよいやら。せめて何処のどなたか、お名前をお聞かせ下さりませぬか」
改まった声音を跳ね退けるように勘解由は振り返ると、零れるような笑みを浮かべた。
「そのようなお気遣いは無用です。道中、御無事で」
敷居際で軽く一礼すると勘解由は部屋を後にした。
茶屋の主に礼を言い、少し多めに代金を包んで、念の為、今回のことを外にみだらに漏らさぬようにと口止めをして、茶屋を後にした。
表の店の中は、先程とは打って変わって、一服する人、団子を頬張る人々で賑わっていた。前垂れを掛けた茶汲み女が忙しそうに客の間を行き来し、客の冗談に高い笑い声を響かせている。
店先には気持ちの良い風が吹いていた。
勘解由は深々と息を吸い込んだ。
ふと先程の若い男が倒れていた所に目をやると、何か紅いものが落ちていることに気が付いた。
近寄って手にしてみると、それは小さな守り袋だった。男を運ぶのに懸命で気が付かなかったらしい。 手の中で潰れた小さな鈴がカチリと鳴り、良い香りが鼻先を掠めた。大方、母御にでも貰ったのだろう。
勘解由はもう一度茶屋に戻ると、主にこれをあの若者に渡すようにと頼んだ。そして、自分の懐から、もう一つ肌身に着けていた守り袋を取り出すと、それに添えた。
事情は聞かなかったが、今、あの若者を取り巻くお役目か何かが無事に終えられるようにとの気持ちが起こったのだった。
それから、煌めく斑になった光の中でよく晴れた空を見上げると五重塔を背に上野山を後にした。
勘解由は、道すがら、先程の若者の顔を思い出していた。妙に懐かしいような気がしていたが、あれは、昔、国元で遊んだことのある幼子に似ていたのだ。
負けん気の強い男の子だった。名前は確か、晴隆といったか。
その子も今となっては家督を継ぐかして、城勤めをしていることだろう。
どこぞから嫁を貰って。
あのきかん気の幼子も大きくなったら、あの若者のようになったのだろうか。
何故か、勘解由の胸内を、とうの昔に忘れていた甘酸っぱいような思いが掠めたのだった。
今作品を読んでくださってありがとうございました。
こちらは、その昔、手遊びに書いていたものを発掘しまして、若干の手直しを加えました。
パンダの来日で、一躍脚光を浴びた上野も、昔は、寺社仏閣が建ち並ぶ静かな場所であったと思います。不忍池の周辺には、出会い茶屋などが並んでいたとか。