Backrooms 2
第一章 The Lobby
目を開けた。
黄色い壁。
低い天井。
頭上で、蛍光灯が小さく唸っている。
透は、しばらく何が起きているのか理解できなかった。
「……え?」
ゆっくりと身体を起こす。
見覚えのある景色だった。
いや、正確には――
忘れたくても忘れられない景色だった。
黄色い壁。
湿ったようなカーペット。
どこまでも続いているような部屋。
透は立ち上がった。
「……嘘だろ」
周囲を見回す。
誰もいない。
妻も、娘もいない。
そして――佐伯もいない。
「なんで……」
頭の中に、最後の記憶が蘇る。
家に帰った。
妻がいた。
娘がいた。
「パパ、長い間どこまで行ってたの?」
そう聞かれて、
「親友と遊んでたんだよ」
そう答えた。
間違いなく、現実に帰った。
佐伯も、きっと現実に帰っている。
自分が戻ったのなら、佐伯もどこか別の場所で現実に戻ったのだと思っていた。
「……俺、帰ったよな?」
透は呟いた。
「佐伯も……帰ったはずだよな」
誰も答えない。
蛍光灯の音だけが、ずっと響いている。
「じゃあ……なんで?」
透は壁に手をついた。
冷たい。
確かな感触がある。
「俺は……帰ったんだよ」
声が震える。
「家族のところに……」
拳を握った。
そして、壁を強く叩いた。
ドンッ。
「……なんでだよ」
もう一度。
ドンッ。
「俺は帰っただろ!」
さらに強く叩く。
「なんでまたここにいるんだよ!」
何度も壁を叩いた。
手が痛くなってもやめなかった。
そのときだった。
壁が、わずかに揺れた。
「……え?」
透は手を止めた。
壁の表面が、水面のように波打っている。
「何だ……?」
指先を離そうとした。
しかし――
離れなかった。
「……っ!」
壁に触れていた手が、ゆっくりと沈んでいく。
「待て……!」
腕まで沈む。
透は後ろへ逃げようとした。
だが、遅かった。
身体全体が前へ引っ張られる。
「うわっ!」
視界が歪んだ。
黄色い壁が崩れる。
蛍光灯の光が遠ざかる。
そして――
透の身体は壁の向こうへ落ちた。
⸻
「……っ」
床に身体を打ちつけた。
透はゆっくりと顔を上げる。
「……ここは……」
そこには、長い廊下があった。
壁も、床も、どこか不自然に歪んでいる。
まっすぐ続いているはずの廊下が、途中で別の場所と重なっているように見える。
透は立ち上がった。
「……何なんだよ、ここ……」
前にいた場所とは明らかに違う。
そのとき。
廊下の先に、何かが見えた。
扉だった。
白い壁。
その隣には黒い扉。
さらにその先にも――
どこまでも。
無限に続いている。
透は言葉を失った。
「……」
白い壁に黒い扉だけが並ぶ、果てのない廊下。
どちらへ進めばいいのか。
何が待っているのか。
透には何も分からなかった。
ただ一つだけ分かっていることがあった。
ここに来た以上、もう立ち止まってはいられない。
透は、目の前の廊下を見つめた。
そして――
一歩、踏み出した。
第二章 Glitched Hall
白い壁。
その壁に沿うように、黒い扉が並んでいる。
透は、その廊下を歩いていた。
どこまで進んでも、同じ景色が続いている。
白い壁。
黒い扉。
そして、何もない長い廊下。
扉には何も書かれていない。
開けるべきなのか。
それとも、開けない方がいいのか。
透には判断できなかった。
だから、しばらくは扉に触れず、ただ歩き続けた。
コツ。
コツ。
コツ。
自分の足音だけが、白い壁の間に響いている。
「……長すぎるだろ」
透が呟いた。
その瞬間だった。
どこからか、小さな音が聞こえた。
――ポーン。
透は足を止めた。
「……?」
耳を澄ます。
もう一度。
――ポーン。
ピアノだった。
遠くから、誰かが鍵盤を叩いているような音がする。
「ピアノ……?」
透は廊下の先を見る。
何もない。
白い壁と黒い扉が続いているだけだ。
音は遠い。
それでも、確かに聞こえる。
透は音のする方向へ歩き始めた。
一歩。
また一歩。
すると、ピアノの音が少しずつ大きくなってきた。
――ポーン。
――ポーン。
同じような音が、一定の間隔で繰り返されている。
「誰かいるのか?」
返事はない。
さらに歩く。
そのとき――
視界が揺れた。
「……っ」
目の前の景色が、一瞬だけ砂嵐のようにざらついた。
テレビの画面が乱れたようなノイズ。
透は目を擦った。
「今の……何だ?」
もう一度見る。
元に戻っている。
白い壁。
黒い扉。
何も変わっていない。
「……疲れてるのか」
そう呟いて、再び歩き出す。
すると今度は、別の音が混じってきた。
――♪……
何かの声。
ピアノではない。
古いテレビから流れてくるような音だった。
透は立ち止まった。
耳を澄ます。
昔のテレビで流れていたような、古い広告の声。
何を言っているのかまでは聞き取れない。
ピアノ。
テレビの広告。
そして、時々入る砂嵐のようなノイズ。
どれも廊下の奥から聞こえてくる。
透は歩き続けた。
進むほど、音は大きくなっていった。
――ポーン。
――ポーン。
「……近づいてる」
テレビの声も、少しずつ大きくなっていく。
そしてまた、視界が歪んだ。
今度はさっきより長かった。
白い壁が砂嵐のようにざらつき、黒い扉の輪郭まで崩れていく。
「うわ……!」
透は壁に手をついた。
数秒後。
景色が元に戻った。
荒い息を整える。
「……何なんだよ、ここ」
そのとき。
廊下のずっと先に、人影が見えた。
透は動きを止めた。
誰かが立っている。
人間のように見える。
だが、距離が遠すぎて顔が見えない。
分かるのは――
スーツを着ていることだけ。
黒っぽいスーツ。
白いシャツ。
そこに人が立っている。
「……人?」
透は慎重に近づいた。
人影は動かない。
ピアノの音が続いている。
テレビの広告も聞こえている。
そして、また視界が砂嵐のように乱れた。
「……っ」
目を閉じる。
数秒待ってから、目を開ける。
人影はまだいる。
透は警戒しながら、一歩ずつ近づいていった。
人影は何もしない。
逃げもしない。
襲ってくる様子もない。
ただ、白い壁と黒い扉が続く廊下に立っている。
透はさらに一歩近づいた。
すると――
人影が、ゆっくりと顔を上げた。
透は息を止めた。
その顔は、まだ見えない。
ただ、スーツを着た人間がこちらを見ている。
ピアノの音が、さらに大きくなる。
テレビの広告の声も、耳元で聞こえるほどになっていく。
そして――
また、視界が大きく歪んだ。
ザザッ――
白い壁と黒い扉が、砂嵐の向こうへ消えた。
————————————
人影は、まだそこに立っていた。
白い壁。
その壁に並ぶ黒い扉。
そして、その先に立つスーツ姿の人間。
透は、ゆっくりと近づいていった。
「……あんた、誰なんだ?」
返事はない。
人影は、ただこちらを見ている。
その瞬間。
――ポーン。
ピアノの音が鳴った。
さっきより近い。
そして、古いテレビの広告のような声も聞こえてくる。
『――今なら――』
ザザッ。
音が途切れる。
『――ぜひ――』
また途切れる。
透は眉をひそめた。
「……何を言ってるんだ?」
一歩進む。
すると、音が大きくなった。
――ポーン。
――ポーン。
ピアノ。
テレビの声。
そして、砂嵐のようなノイズ。
全部が重なっていく。
透は耳を塞いだ。
「うるさい……!」
それでも音は消えない。
むしろ、頭の中に直接響いてくるようだった。
目の前の景色もおかしくなっていく。
白い壁が波打つ。
黒い扉が伸びたり縮んだりする。
廊下そのものが、映像のように乱れている。
「……何なんだよ、これ」
透は立っていられなくなり、壁に手をついた。
しかし――
触れたはずの壁が、指の間から崩れた。
「……え?」
砂のようなものが指先からこぼれていく。
慌てて手を離す。
元に戻っている。
「……俺がおかしくなったのか?」
そのとき。
前方の人影が、少しだけ動いた。
透は顔を上げた。
人影がこちらへ近づいてくる。
「……!」
しかし、歩いているようには見えない。
景色が歪むたびに、少しずつ距離が縮まっている。
一度。
二度。
そして――
人影が目の前に現れた。
透は思わず後ずさった。
けれど、その人影は何もしない。
ただ、スーツ姿のまま立っている。
顔は、最後まで見えなかった。
「……あんたは、何なんだ」
返事はない。
代わりに――
ザザザザッ――。
視界が完全に砂嵐に覆われた。
「うわっ!」
透は目を閉じた。
耳元で、ピアノの音が鳴る。
テレビの声が聞こえる。
そして、何かが崩れるような音。
「……っ!」
透は壁を探した。
手を伸ばす。
何もない。
足元も、分からない。
まるで身体だけが、どこかに浮いているようだった。
そして次の瞬間――
足元に、確かな感触が戻った。
「……!」
透は目を開けた。
目の前に、白い壁がある。
その壁に黒い扉。
さっきまでと同じ景色だった。
「……戻った?」
透は周囲を見回した。
人影はいない。
音も消えている。
静かだった。
あまりにも静かだった。
透はゆっくりと歩き出した。
一歩。
二歩。
その瞬間――
足元が沈んだ。
「……え?」
床が、水面のように波打つ。
「待て……」
透が後ろへ下がろうとした。
しかし、足が床に沈み込んだ。
「うわっ!」
身体が引っ張られる。
白い壁が歪む。
黒い扉が遠ざかる。
「またかよ……!」
透は必死に手を伸ばした。
何も掴めない。
そして――
身体全体が床の中へ沈んだ。
視界が真っ白になる。
次の瞬間。
冷たい感触が、全身を包んだ。
「……っ!」
透は反射的に息を止めた。
身体が水の中に落ちていた。
必死に水面へ浮かび上がる。
「……はぁっ!」
顔を水面から出す。
荒い息を吐く。
周囲を見回す。
そこには――
水に沈んだ部屋が広がっていた。
第三章 Overflow
冷たい。
それが、最初に感じたことだった。
透は水の中にいた。
「……っ!」
反射的に手を動かす。
身体が沈んでいく。
何とか水面を探し、必死に上へ泳いだ。
「――っ、はぁ!」
顔を水面から出す。
大きく息を吸った。
「……はぁ……はぁ……」
しばらく、その場から動けなかった。
肺に空気を入れることだけに集中する。
やがて呼吸が落ち着いてきた。
透はゆっくり顔を上げた。
「……ここは……?」
周囲を見回す。
部屋だった。
四角い空間。
壁も天井もある。
しかし、そのほとんどが水の中に沈んでいる。
水面は透の胸のあたりまであった。
照明はない。
窓もない。
部屋の奥も、薄暗くてよく見えない。
透は壁に手をついた。
「……また、とんでもない場所に来たな」
服が重い。
靴の中にも水が入っている。
透は一度、壁に背中を預けた。
目を閉じる。
さっきまでいた場所を思い出す。
白い壁。
黒い扉。
ピアノ。
テレビの声。
そして、あのスーツ姿の人影。
「……何だったんだ、あれ」
答えはない。
ただ、水面が小さく揺れている。
透は水の中を覗き込んだ。
濁っている。
茶色とも灰色ともつかない色。
底が見えない。
「……深い」
手を水の中に入れてみる。
何も触れない。
もう少し深く沈める。
それでも何もない。
「底まで……見えないのか」
透は手を引き抜いた。
そのとき――
水面の向こうで、何かが揺れた。
「……?」
透は動きを止めた。
水面を見る。
何もない。
波紋だけが、ゆっくり広がっている。
「……気のせいか」
透は周囲を見回した。
部屋の壁に沿って、出口を探す。
一面。
何もない。
二面。
何もない。
三面。
何もない。
そして、四面目。
「……あった」
水に半分沈んだ扉。
透は近づいた。
扉の周りには、水が溜まっている。
その向こうに何があるのかは分からない。
透は取っ手を握った。
冷たい。
ゆっくり回す。
カチャッ。
鍵は掛かっていなかった。
透は扉を少しだけ開けた。
ギィ……
水が扉の隙間から流れ込む。
その先は――
青かった。
「……青い?」
透は扉の向こうを覗いた。
そこには、青く染まった長い空間が見えていた。
しかし、すぐには出なかった。
まだ、この部屋から離れるのが怖かった。
透はもう一度、水の中を見る。
濁った水。
見えない底。
何が沈んでいるのかも分からない。
もし、この下に何かがいたら。
そう考えた瞬間。
水面が――
ほんの少しだけ揺れた。
透は息を止めた。
「……」
動かない。
何も起きない。
透はゆっくり扉へ向き直った。
そして、もう一度だけ水面を見る。
やはり何も見えない。
「……考えすぎだ」
透は自分に言い聞かせた。
扉をさらに開く。
青い空間から、冷たい空気が流れ込んできた。
透はその向こうへ足を踏み出した。
その瞬間――
背後の水面で、
何かが水の中を横切った。
透は振り返らなかった。
振り返る勇気がなかった。
そのまま扉の向こうへ進んだ。
————————————
扉を抜けると、空気が変わった。
冷たい。
水の中にいたせいか、それとも別の理由なのか。
透はしばらく、その場に立っていた。
背後を見る。
さっきまでいた水没した部屋がある。
扉を閉める。
ギィ……。
音が響いた。
透は前を向いた。
「……青い」
壁も、床も、天井も。
どこを見ても青かった。
濃い青ではない。
薄暗い青。
まるで水の中にいるような色だった。
廊下は長い。
どこまで続いているのか分からない。
透はゆっくり歩き始めた。
コツ。
コツ。
足音が響く。
壁には何もない。
窓もない。
扉もほとんどない。
ただ、青い空間が延々と続いている。
透は何度も後ろを振り返った。
さっきの水没した部屋へ戻る扉は、もう見えなくなっていた。
「……戻れないのか」
少し不安になる。
それでも、進むしかない。
歩き続ける。
時間の感覚がなくなってきた頃だった。
遠くに何かが見えた。
「……?」
明かり。
今まで何もなかった廊下の先に、暖かい色の光が漏れている。
透は足を止めた。
「人がいるのか?」
期待して、すぐに打ち消す。
ここで誰かに会うとは限らない。
慎重に近づいていく。
光が大きくなる。
そして――
廊下の先が開けた。
「……え?」
透は立ち止まった。
そこにあったのは――
ホテルのロビーだった。
大きな空間。
中央に置かれたソファ。
受付カウンター。
壁に掛けられた時計。
赤い絨毯。
そして、色ガラスから差し込むような光。
透の心臓が跳ねた。
「……まさか」
見覚えがある。
いや。
見覚えがありすぎる。
「……テラーホテル?」
あの場所。
佐伯と一緒に入ったホテル。
彫像。
ボイラー室。
そして――
佐伯が自分を逃がしてくれた場所。
「……戻ってきたのか?」
透はロビーを見回した。
ソファ。
受付。
絨毯。
どれも、あのとき見たものとよく似ている。
透は恐る恐る中へ入った。
「……」
静かだった。
あのときと同じような静けさ。
透は受付カウンターへ近づいた。
そこに置かれた時計を見る。
――止まっている。
「あれ……?」
前のホテルでは、時計は動いていた。
透は眉をひそめた。
周囲を見回す。
壁の色。
照明。
ソファの配置。
よく似ている。
けれど――
少しずつ違う。
「……違う」
透は呟いた。
入口の位置が違う。
受付の形も違う。
そして、何より――
あのときあったはずの階段がない。
「……ここじゃない」
透はようやく気づいた。
同じホテルではない。
似ているだけだ。
「……紛らわしいんだよ」
少しだけ安心した。
佐伯がいるわけではない。
あの場所に戻ったわけでもない。
ただ、よく似た場所だった。
透はロビーの中央まで進んだ。
そのとき――
カチッ。
どこかで音がした。
透は振り返った。
誰もいない。
「……?」
受付を見る。
何もない。
もう一度、音がした。
カチッ。
今度は――
ロビーの奥から。
透はそちらを見る。
暗い廊下が一本伸びている。
その先には、扉があった。
そして扉の向こうから――
微かに、
甘い花の匂いが漂ってきた。
透はしばらく、その扉を見つめていた。
ここもまた、別の場所へ繋がっている。
そう直感した。
透はゆっくりと歩き出した。
————————————
透は、ホテルのロビーの奥へ進んでいた。
甘い匂いが、少しずつ強くなっている。
目の前には、一枚の扉。
透はゆっくりと取っ手に手を伸ばした。
カチャ。
扉が開く。
その瞬間――
視界いっぱいに、ピンク色が広がった。
「……花?」
部屋の中は、花で埋め尽くされていた。
床。
壁。
天井。
どこを見ても、ピンク色の花が咲いている。
透は入口に立ったまま、しばらく動かなかった。
「……さっきの水の部屋とは、全然違うな」
花には、ほとんど動きがない。
風もない。
なのに、甘い匂いだけが部屋中に漂っている。
透は慎重に中へ入った。
足元の花を踏まないように、ゆっくり進む。
そのとき――
頭上から、小さな音がした。
カサッ。
透は顔を上げた。
「……?」
天井には、花がびっしりと広がっている。
何も見えない。
「気のせいか……」
透は再び歩き始めた。
カサッ。
今度は、少し後ろ。
透は振り返った。
やはり何もいない。
ただ、花が揺れている。
「……誰かいるのか?」
返事はない。
透は歩く速度を上げた。
すると――
天井の花の間を、何かが移動した。
ほんの一瞬だった。
黒い影。
四本の脚。
「……!」
透は立ち止まった。
見間違いかもしれない。
そう思った。
しかし、その直後。
天井の花が、ゆっくりと揺れた。
何かが這っている。
透は息を殺した。
視線だけを動かす。
だが、何も見えない。
完全に隠れている。
「……どこだ」
透は後ろへ下がった。
その瞬間――
頭上の気配が消えた。
「……?」
静かになった。
透は恐る恐る天井を見る。
何もいない。
「……いなくなった?」
そう思った。
しかし。
それは、消えたのではなかった。
透の視界から、自分の姿を隠しているだけだった。
見えない何かが、壁を伝って移動している。
ゆっくり。
音を立てずに。
透は、それに気づいていなかった。
「ここから出ないと……」
透は部屋の奥へ進んだ。
そのとき――
頭上から、かすかな音がした。
カサッ。
透は振り返らない。
また音。
カサッ。
今度は、すぐ近く。
透は足を止めた。
「……」
何も見えない。
けれど、確かに何かがいる。
そして――
透の真上。
天井を這っていた何かが、ゆっくりと身体を下へ向けた。
鋭い鉤爪が、花の隙間からわずかに見える。
黒く硬い皮膚。
大きな口。
それでも、その姿はほとんど見えない。
透はまだ気づいていなかった。
何かが、真上から近づいている。
あと少し。
もう少し。
そして――
透の真下へ回り込んだ。
次の瞬間。
「――――――ッ!!」
部屋全体を震わせるような、巨大な叫び声が響いた。
「うわあっ!」
透は耳を塞いだ。
花が一斉に揺れる。
廊下の向こうから、何かが走ってくる音が聞こえた。
一つ。
二つ。
それ以上。
「……何だよ、これ!」
透は逃げた。
叫び声に反応して、何かが集まってきている。
透は出口を探した。
「どこだ……!」
花をかき分ける。
右。
左。
見つからない。
背後から、複数の足音が近づいてくる。
「……っ!」
透は必死に走った。
すると――
花の向こうに扉が見えた。
「……あった!」
透は扉へ飛び込んだ。
バタン!
すぐに扉を閉める。
外から物音が続いている。
透は扉に背中をつけた。
「……はぁ……はぁ……」
しばらく動けなかった。
やがて、音が遠ざかっていく。
透はゆっくり顔を上げた。
そこには、暗い廊下が続いていた。
そして、その先に――
階段があった。
「……階段?」
透は近づいた。
下へ続いている。
どこまで続いているのか分からない。
それでも、あの部屋に戻るよりはいい。
透は階段を下り始めた。
一段。
また一段。
周囲の空気が変わっていく。
花の匂いが消える。
代わりに、消毒液のような匂いが漂ってきた。
「……病院?」
階段を下りきる。
目の前に、白い壁。
古びた廊下。
そして――
壁に掛けられた、古い案内板。
透はそこに書かれた文字を見た。
MILITARY HOSPITAL
「……Military Hospital……?」
透は、その先に広がる病院の廊下を見つめた。
また別の場所に来てしまった。
透はゆっくりと、その廊下へ足を踏み入れた。
そして、背後の階段を見上げる。
そこにはもう、誰の姿もなかった。
第四章 The Military Hospital
消毒液のような匂いがした。
透は、古びた病院の廊下に立っていた。
「……病院、なのか」
壁には、ところどころひびが入っている。
天井の一部も崩れていた。
床には何かの液体が広がっている。
透明なものもあれば、赤黒く変色したものもあった。
透はできるだけ踏まないように避けた。
「……何があったんだよ」
病院として使われていたことは分かる。
しかし、今ここに人の気配はない。
ナースステーション。
診察室。
病室。
どこを見ても、長い間使われていないようだった。
透は廊下を進んだ。
そのとき――
ミシッ。
頭上から音がした。
透は反射的に立ち止まる。
「……?」
天井を見る。
ひび割れた天井。
その隙間から、木の枝が突き出している。
「木……?」
どうして病院の中に木があるのか。
透が考えていると――
バキッ!
突然、天井の一部が崩れた。
「うわっ!」
透は横へ飛び退いた。
大きな木の枝が床に落ちる。
ドサッ!
「……危な……」
透は落ちた枝を見つめた。
もし、そのまま歩いていたら直撃していた。
透は天井を見上げた。
ここは安全ではない。
何かに襲われるだけじゃない。
建物そのものが崩れようとしている。
透は慎重に歩き始めた。
そのとき――
「……こんにちは」
声がした。
「……!」
透は振り返った。
誰もいない。
廊下だけが続いている。
「……誰?」
返事はない。
少しして――
廊下の端に、白い服を着た女性が立っていた。
透は息を呑んだ。
病院の職員のような服。
けれど、その姿はどこか薄い。
「……あなたは?」
女性は何も言わない。
ただ、透を見ている。
透が一歩近づく。
女性の姿が少しずつ薄くなる。
そして――
消えた。
「……幽霊?」
透はしばらく動けなかった。
しかし、襲われたわけではない。
むしろ、ただそこに現れて、消えただけだった。
この病院に関係する霊なのかもしれない。
透はそれ以上考えないことにした。
「……悪い人じゃないなら、いいか」
その直後。
ガタンッ!
近くの部屋から大きな音がした。
「……!」
透は身構えた。
部屋の中を覗く。
誰もいない。
しかし、床に置かれていた椅子が動いていた。
ゆっくりと。
まるで誰かが押しているように。
ガタン。
また動く。
透は後ずさった。
「……これは、さっきの幽霊とは違う」
椅子が突然、こちらへ飛んできた。
「うわっ!」
透は避けた。
椅子が壁にぶつかる。
ドンッ!
透は廊下を走った。
「……何なんだよ!」
背後から、物が倒れる音が続く。
病院の中にあるものが、勝手に動いている。
棚。
椅子。
医療器具。
何かに操られているようだった。
透は角を曲がり、別の廊下へ逃げ込んだ。
そして――
「……はぁ……」
壁に手をついて息を整える。
ここには、無害な幽霊だけではない。
物を動かす何かがいる。
それは、さっきの幽霊とは別のものだ。
透はゆっくり歩き始めた。
すると――
「……誰かいる?」
今度は、はっきりと人の声だった。
透は顔を上げた。
「……人?」
廊下の先。
そこに、一人の青年が立っていた。
リュックを背負っている。
服装も普通のものだった。
青年は透を見ると、驚いたように目を見開いた。
「……人だ」
透も同じだった。
「……あんた、ここに来たのか?」
青年は小さく頷いた。
「はい……大学生です」
その言葉を聞いて、透は少しだけ安心した。
この場所に、自分以外の人間がいる。
「俺は白石透」
「俺は……」
青年は少し迷ってから、名前を名乗った。
「三上です」
二人はしばらく黙って見つめ合った。
そして三上が、静かに言った。
「……ここ、危ないですよ」
透は頷いた。
「……知ってる」
天井から落ちた木の枝。
突然現れた幽霊。
勝手に動く椅子。
この病院では、何が起こるのか分からない。
三上は廊下の奥を見た。
「……この先、もっと危ないです」
透はその視線の先を見つめた。
暗い病院の廊下。
その奥から――
何かが倒れる音がした。
二人は同時に黙った。
————————————
「……ここから出よう」
三上が言った。
透も頷いた。
「うん。とにかく、この病院から離れた方がいい」
二人は来た道を戻ろうとした。
しかし、すぐに足を止めた。
後ろから――
ガタン。
何かが倒れる音。
二人は振り返らなかった。
「……走ろう」
三上が言う。
二人は廊下を急いだ。
病院の中は、どこへ行っても同じような景色が続いている。
ひび割れた壁。
剥がれた床。
天井から伸びる木の枝。
そして、時々聞こえる物音。
「……出口、どこだよ」
透が呟く。
「分かりません」
三上が答える。
「俺も、ここに来てからずっと探してます」
「どれくらいいるんだ?」
「……たぶん、何時間か」
三上は少し考えてから言った。
「でも、この場所では時間がよく分からなくなります」
透は黙った。
そのときだった。
床に何かが落ちているのが見えた。
「……紙?」
透が拾い上げる。
古いメモだった。
紙は黄ばんでいる。
ところどころ文字が滲んでいた。
透は読んだ。
そこには短い文章が書かれていた。
『ここから出たいなら、手術室を探せ。』
透と三上は顔を見合わせた。
「……手術室」
その下にも、続きがあった。
『手術台に横になれ。』
さらに、その下。
『目を閉じろ。』
三上が眉をひそめる。
「……これ、本当に信用していいんですか?」
「分からない」
透はメモを裏返した。
何もない。
「でも、他に方法がない」
二人は手術室を探し始めた。
しばらく歩くと、廊下の突き当たりに古い案内板を見つけた。
その中に――
OPERATING ROOM
と書かれている。
「……あった」
二人は慎重に扉を開けた。
中には、古い手術室があった。
中央に、二台の手術台。
照明は消えている。
部屋の中には、他に何もない。
三上が手術台を見る。
「……これに寝るんですよね」
透は頷いた。
「たぶん」
「……怖いですね」
「俺も同じだよ」
透は手術台の横に立った。
そして、ゆっくり横になる。
冷たい。
硬い。
何のために使われていたのかを考えると、あまり気分はよくなかった。
三上も隣の手術台に横になった。
「……準備できました?」
「……ああ」
二人は天井を見上げた。
何も起きない。
透はメモに書かれていた言葉を思い出す。
目を閉じろ。
「……じゃあ」
透は目を閉じた。
三上も目を閉じる。
静かだった。
病院の物音も聞こえない。
幽霊の気配もない。
ただ、暗闇だけがある。
透はじっと待った。
数秒。
十秒。
それでも何も起きない。
「……本当にこれでいいのか?」
そう思った瞬間――
身体が、ふっと軽くなった。
落ちているような感覚。
けれど、怖くはなかった。
そして――
音が消えた。
透はゆっくり目を開けた。
「……?」
そこには、病院はなかった。
目の前に広がっていたのは――
白く、広い空間。
無機質な壁。
長く続く廊下。
そして、どこか現実離れした静けさ。
透は身体を起こした。
「……ここは?」
隣を見る。
三上も目を開けていた。
二人は何も言わず、目の前の空間を見つめる。
第五章 Modern Hall
目を開ける。
白い。
透は思わず目を細めた。
「……眩しい」
目の前には、真っ白な壁。
天井も白い。
床も白い。
廊下の先まで、白い光で満たされている。
「……病院じゃない」
透はゆっくり身体を起こした。
隣では、三上も起き上がっている。
「ここ……どこですかね」
「分からない」
透は周囲を見回した。
さっきまでいた病院とは、まったく違う。
物音もしない。
何かが勝手に動く気配もない。
ただ、明るすぎる。
「……でも」
透は少しだけ息を吐いた。
「さっきよりは安全そうだな」
三上も頷いた。
「俺も、そう思います」
二人はしばらく歩いた。
廊下の途中に、何も置かれていない広い場所があった。
二人はそこに座った。
透は壁にもたれた。
「……少し休もう」
「はい」
しばらく、二人とも何も話さなかった。
久しぶりに、落ち着いて座っていられる。
透は三上を見る。
「三上は……いつからここにいるんだ?」
三上は少し考えた。
「正確には分からないです」
「そうか」
「大学から帰ってる途中でした」
透は顔を上げた。
「……俺もだ」
「え?」
「会社から帰ってる途中だった」
三上が透を見る。
「じゃあ……」
「たぶん、同じだ」
二人は顔を見合わせた。
普通の場所にいた。
それなのに、気づいたらあの黄色い部屋にいた。
そこから先は、ありえない場所をいくつも通ってきた。
透は自分のことを話した。
黄色い部屋。
水の中。
ホテル。
佐伯との出会い。
そして――
帰還の門。
「……佐伯って人と一緒だったんですか?」
「そう」
透は頷いた。
「ずっと一緒だった」
三上は少し黙ってから、自分の話を始めた。
「俺にも、一緒に来たやつがいます」
「大学の友達です」
「最初から一緒だったのか?」
「はい」
三上は頷いた。
「大学から帰る途中、二人でここに迷い込んで……そこからずっと一緒でした」
「俺たちも、いろんな場所を通りました」
「それで……最後に帰還の門を見つけたんです」
透の表情が変わった。
「帰還の門……」
三上は頷いた。
「でも、そこで分かったんです」
少しだけ間が空いた。
「帰還の門は……一人しか入れない」
透は息を止めた。
その言葉を聞いた瞬間。
あのときの佐伯の顔が頭に浮かんだ。
「……一人しか?」
「はい」
三上は俯いた。
「俺たちは、二人で帰ろうとしました」
「でも、無理だった」
「だから……」
三上は拳を握った。
「友達が、俺を行かせてくれたんです」
透は何も言えなかった。
「俺は嫌だって言いました」
「でも、あいつは……」
三上は少しだけ笑った。
「『お前が先に帰れ』って」
透の胸が締めつけられた。
――お前には帰る場所がある。
――行けよ。
あのときの佐伯の言葉が、頭の中に蘇る。
「……俺も」
透が呟いた。
三上が顔を上げる。
「似たようなことを言われた」
「佐伯さんに?」
透は頷いた。
「俺には家族がいるからって」
「俺を帰らせようとした」
三上は何も言わず、透の話を聞いていた。
「俺は……佐伯も一緒に帰るつもりだった」
「でも、あいつは何も言わなかった」
透は俯いた。
「帰還の門が一人しか入れないなんて、俺は知らなかった」
拳を握る。
「もし知ってたら……」
言葉が止まった。
もし、あのとき知っていたら。
佐伯を一人で残したりしなかった。
「……黙ってたんだな」
透は小さく呟いた。
「俺を帰すために」
三上が静かに頷く。
「たぶん、そうだと思います」
「……でも」
透は顔を上げた。
「俺は、帰ったと思ってた」
佐伯も現実に戻れた。
そう思っていた。
だから、少しだけ安心していた。
けれど。
「三上の話を聞いて……」
胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。
「佐伯も……まだここにいるんじゃないか?」
三上は答えなかった。
その沈黙が、答えのように感じられた。
透は立ち上がった。
「……探さないと」
「はい」
「佐伯がまだここにいるなら」
透は拳を握った。
「今度は、俺が助ける」
三上を見る。
「黙って俺を帰そうとしたことも」
「一人で残ったことも」
「全部、直接聞きたい」
三上も立ち上がった。
「俺も、友達を探します」
「帰還の門では、俺を先に行かせてくれた」
「でも、俺だけ戻ってきた」
三上は前を向いた。
「だから今度は、絶対に一人で帰りません」
透は頷いた。
「一緒に、帰る方法を探そう」
「はい」
そのとき――
突然、照明が消えた。
「……!」
辺りが真っ暗になる。
三上が息を呑む。
「停電……?」
透は壁に手をついた。
「動かない方がいい」
数秒。
何も見えない。
やがて――
パッ。
照明が戻った。
「……眩しっ」
透は目を細めた。
白い光が一気に視界へ入り込む。
明るすぎて、目の奥が痛い。
三上も目を押さえている。
「ここ、ずっとこの明るさなんですかね」
「分からない」
透は白い廊下の先を見る。
「でも、長く見続けるのはやめた方がいい」
明るすぎる光。
突然の停電。
どこまでも続く白い廊下。
安全そうに見える。
けれど、ここも普通の場所ではない。
透は三上を見る。
「行こう」
「はい」
二人は歩き始めた。
今度は、置いていかない。
置いていかれない。
それぞれが残してきた大切な人を連れて――
二人で現実へ戻るために。
————————————
二人は白い廊下を歩いていた。
どこまで行っても、同じ景色だった。
白い壁。
白い床。
白い天井。
そして、目を開けているだけで疲れるほどの光。
「……本当に何もないな」
透が呟く。
三上も周囲を見回した。
「部屋もないですね」
「さっきからずっと廊下だけだ」
二人は歩き続けた。
何度も角を曲がった。
それでも、景色は変わらない。
ただ時々、照明が一瞬だけちらつく。
そのたびに、二人は足を止めた。
「……また停電するんですかね」
「分からない」
透は天井を見上げた。
「でも、さっきより多くなってないか?」
「そうですね」
二人は少しだけ歩く速度を上げた。
この場所に長くいるのは、あまり良くない気がした。
しばらく進んだところで――
三上が突然立ち止まった。
「……あれ」
「どうした?」
三上が壁の横を指差す。
そこには、今まで見たことのないものがあった。
白い壁の一部が開いている。
その奥に、小さな部屋があった。
「部屋……?」
二人は近づいた。
中には、壁一面に機械が並んでいた。
モニター。
スイッチ。
配線。
見たことのない装置。
そして、その中央に一つだけ大きなボタンがあった。
透が目を細める。
ボタンの上には、英語が書かれていた。
ESCAPE
「……Escape?」
三上が呟く。
「逃げる……って意味ですよね」
「たぶん」
透はボタンを見つめた。
ここまで来て、初めて見つけた明確な出口らしきもの。
「押してみるか?」
三上はすぐには答えなかった。
「でも……」
「罠かもしれない」
「そうですね」
二人はしばらくボタンを見つめた。
何も起きない。
機械も動いていない。
ただ、そこにある。
透は一歩近づいた。
「俺は押す」
「俺もです」
「……一緒に押そう」
三上が頷いた。
二人はボタンの前に並んだ。
「せーの」
二人が同時に手を伸ばす。
指先がボタンに触れた。
カチッ。
その瞬間――
部屋中の機械が一斉に動き始めた。
「……!」
低い機械音が響く。
モニターが点灯する。
白い光が一瞬で消えた。
透の身体が浮いたような感覚に襲われる。
「うわっ……!」
足元がなくなる。
三上の姿が歪む。
壁も床も天井も、すべてが崩れていく。
そして――
真っ暗になった。
*
目を開ける。
「……っ」
透は床に手をついた。
硬い。
冷たい。
さっきまでの白い床ではない。
「三上!」
「……います!」
隣から声がした。
透は顔を上げた。
そこは、暗い部屋だった。
壁には太い配管が何本も走っている。
天井からは古い照明がぶら下がっている。
遠くから、低い機械音が聞こえる。
そして――
どこかで、水が落ちる音。
「ここ……どこですか?」
透は周囲を見回した。
配管。
古い機械。
薄暗い照明。
その景色を見た瞬間――
「……ここ、来たことがある」
「え?」
三上が透を見る。
透は壁に手を触れた。
間違いない。
以前、自分が通った場所だった。
あのときも、この薄暗い空間を歩いた。
機械の音を聞きながら、出口を探した。
そして――
「ここは危ない」
透の声が低くなる。
「前に一度、ここを通った」
三上は驚いたように辺りを見る。
「じゃあ……」
「俺が案内する」
透は周囲を確認した。
以前の記憶を一つずつ思い出していく。
「まず、勝手に機械に触らない」
「はい」
「それから、あの辺りは近づかない方がいい」
透が暗い通路の先を指差す。
三上が頷く。
「分かりました」
透は歩き始めた。
前に来たときは、ただ生きて帰ることだけを考えていた。
けれど今は違う。
自分には、この場所を知っているという経験がある。
そして隣には、三上がいる。
「三上」
「はい」
「俺の後ろから来てくれ」
「分かりました」
透は暗い通路へ足を踏み入れた。
以前の記憶を頼りに。
今度は、自分が道を知っている側として――
二人で先へ進んでいく。
第六章Electrical Station
二人は、暗い部屋の奥へ歩き始めた。
足元には細い配線がいくつも這っている。
壁には太いパイプが何本も走り、古い機械が低い音を立て続けていた。
「……ここ、前に来たことがあるんですよね?」
三上が小声で聞いた。
「ああ」
透は周囲を見ながら答えた。
「前は一人だった。何も分からないまま、ここを歩いた」
「一人で……」
「だから、少しは道を覚えてる」
透は前方を指差した。
「たぶん、あっちだ」
二人は進んだ。
しばらくすると、通路は急に狭くなった。
壁と壁の間は、人一人がやっと通れるほどしかない。
しかも、壁から何本もの配線がむき出しになっていた。
バチッ!
突然、目の前で青白い火花が散った。
「うわっ!」
三上が反射的に後ろへ下がる。
「触るな!」
透が腕を掴んだ。
配線の一部が剥き出しになっている。
そこから不規則に火花が飛び、暗い通路を一瞬だけ照らしていた。
バチッ……バチッ。
「これ、危なくないですか?」
「危ない」
透は配線から距離を取った。
「できるだけ壁にも触らないで」
二人は身体を細くして、その脇を通り抜けた。
さらに進むと、今度は天井が低くなってきた。
「……ここ、屈まないと無理ですね」
「うん」
透が腰を落とす。
頭上には太い配管が通っている。
身体を起こせば、頭をぶつけそうな高さだった。
二人は屈んだまま進んでいく。
その途中でも、横の配線から火花が散った。
バチッ!
白い光が二人の顔を一瞬だけ照らす。
三上が思わず目を閉じる。
「怖いですね……」
「止まらない方がいい」
透は前を向いた。
「ここ、長くはないはずだから」
低い天井を抜けると、ようやく立ち上がれる場所に出た。
三上が背筋を伸ばす。
「……やっと普通に歩ける」
透も息を吐いた。
そのときだった。
ガンッ!
背後で大きな音が響いた。
二人が振り返る。
さっき通ってきた入口の扉が閉まっていた。
「……閉まった?」
三上が扉へ駆け寄る。
取っ手を掴んで引く。
動かない。
「開きません」
透も扉を確認した。
何度か押してみる。
やはり開かない。
「……戻れないな」
「じゃあ、進むしかないってことですか」
「そういうことだ」
透は前を向いた。
少し先に、別の扉がある。
二人はそこへ向かった。
透が扉を開ける。
ギィィ……。
その先にも、細い通路が続いていた。
「また狭い……」
三上が呟く。
今度は天井だけではない。
左右から配管が迫り、足元にも細いケーブルが絡み合っている。
さらに奥では、むき出しになった配線が激しく火花を散らしていた。
バチッ!
バチッ!
「……行くしかないな」
透が慎重に足を踏み入れる。
三上も後ろに続いた。
二人が数メートル進んだところで――
カチャン。
前方の扉が閉まった。
「え?」
三上が立ち止まる。
透はすぐに走った。
扉を掴む。
「開け!」
力を込めて引く。
だが、びくともしない。
「また……」
三上が後ろを見る。
来た道も、いつの間にか暗闇に沈んでいる。
そして――
バチッ。
頭上の配線から火花が散った。
その光の中で、通路のさらに奥に小さな隙間が見えた。
透はそこへ目を向けた。
「……あそこから行けそうだ」
「また、あの狭いところですか?」
「たぶんな」
透は屈んだ。
「行こう」
二人は、火花の散る配線の下を抜けるようにして、さらに奥へ進んだ。
————————————
狭い通路を抜けると、ようやく身体を伸ばせる場所に出た。
透は息を吐きながら、周囲を見回した。
「……ここじゃない」
三上が振り返る。
「分かるんですか?」
「ああ」
透は壁を見た。
配管の位置。
照明の数。
床に這っているケーブル。
どれも記憶と違う。
「前に来たときは、こんな場所は通ってない」
「じゃあ、道を間違えたんじゃ……」
「違う」
透は首を振った。
「俺は一人でここを通った。道は覚えてる」
少しの間、二人は黙った。
透はそこで気づいた。
「……もしかして」
「何ですか?」
「ここでは、同じ道が存在しないのかもしれない」
三上が眉をひそめる。
「どういう意味ですか?」
「前に来たときと同じ場所に来ても、同じ道にはならない」
透は周囲を見回した。
「この場所そのものが、毎回変わってるんだ」
そのときだった。
――カツ。
どこかで音がした。
二人が振り返る。
何もいない。
「……今、聞こえましたよね?」
「聞こえた」
透は声を落とした。
「走る準備だけして」
「え?」
――カツ。
今度は、少し近い。
さらに――
ガリッ。
何かが金属を引っ掻く音。
三上が息を呑む。
通路の奥。
暗闇の中から、何かがゆっくり姿を現した。
人間ではない。
四つ足で、身体を低くしている。
その姿は暗闇に紛れていて、はっきりとは見えない。
だが、こちらを見ていることだけは分かった。
透の背中に冷たいものが走る。
「……走るぞ」
「はい!」
二人は一斉に走り出した。
背後から足音が迫る。
ドン、ドン、ドン。
狭い通路に音が反響する。
透は角を曲がる。
三上も続く。
「こっち!」
「でも、道が――」
「分からない! とにかく走れ!」
さらに角を曲がる。
すると、前方に扉があった。
透が勢いよく開ける。
二人が中へ飛び込んだ。
扉を閉める。
ドンッ!
直後、向こう側から何かがぶつかった。
「……!」
二人とも息を殺した。
ドン。
もう一度。
扉が揺れる。
しかし、それ以上は何も起こらなかった。
しばらくして、音が遠ざかっていく。
三上が小さく息を吐いた。
「……行った?」
「たぶん」
透は扉から離れた。
その先には、別の通路が続いていた。
透は歩きながら、苦笑した。
「前に来たときは、こんな道なかった」
「……本当に毎回違うんですね」
「ああ」
二人は先へ進んだ。
何度も角を曲がり、いくつもの扉を通り抜けた。
そしてしばらくして――
「……あれ」
透が足を止めた。
通路の先に、金属製の扉がある。
その横には、見慣れた操作盤。
「エレベーターだ」
三上が駆け寄る。
「これなら、別の場所に出られるかもしれませんね」
透はボタンを押した。
ピン。
扉が開く。
中は薄暗かった。
「……乗ろう」
二人が乗り込む。
扉が閉まる。
ゴウン……。
エレベーターが動き始めた。
透は壁にもたれながら言った。
「ここに入れば、人のいるオフィスみたいな場所に着くはずだ」
「本当に?」
「ああ。前にそういう場所に出た」
しばらくして――
チン。
エレベーターが止まった。
扉が開く。
透が顔を上げる。
そして――
言葉を失った。
目の前に広がっていたのは、オフィスではなかった。
薄暗いロビー。
高い天井。
古びた照明。
そして、壁を彩るステンドグラス。
「……嘘だろ」
三上が隣で立ち尽くす。
透は、一歩も動けなかった。
そこにあったのは――
あのホテルだった。
第七章 Terror Hotel
エレベーターの扉が開いた。
透は一歩外へ出た。
そして、足を止めた。
「…………」
目の前に広がっていたのは、見覚えのあるロビーだった。
古びた床。
高い天井。
壁に並ぶステンドグラス。
そして、あの独特な静けさ。
「……ここ」
三上が透を見る。
「知ってるんですか?」
「ああ」
透は小さく答えた。
「前に来たことがある」
透の脳裏に、以前ここで起きたことが蘇る。
佐伯。
動く彫像。
暗い廊下。
そして、ボイラー室。
「……ボイラー室を探す」
「ボイラー室?」
「そこを抜ければ、先に進めるかもしれない」
透は歩き出した。
「でも、絶対に一人にならないで」
「分かりました」
二人はロビーを抜け、長い廊下へ入った。
しばらく進んだところで、透が突然立ち止まった。
「……待って」
「どうしました?」
透は廊下の先を見つめた。
そこには、一体の彫像が立っていた。
人の形をした、古びた彫像。
「……動く」
三上が息を呑む。
「え?」
「絶対に目を離すな」
二人は彫像を見つめた。
数秒。
何も起こらない。
そして――
カタン。
彫像の足が、わずかに動いた。
「……!」
三上が息を呑む。
透はすぐに言った。
「走るぞ」
次の瞬間。
彫像がこちらを向いた。
「今!」
二人は走り出した。
背後から重い足音が響く。
ドン。
ドン。
ドン。
角を曲がり、扉を開けて中へ飛び込む。
透が扉を閉める。
ドンッ!
すぐ向こう側から何かがぶつかった。
二人は息を殺した。
やがて、足音が遠ざかっていく。
「……行った?」
「たぶん」
透は扉を開けた。
「今のうちに行こう」
二人は再び廊下を進んだ。
そのときだった。
――バサッ。
頭上から、何かが羽ばたく音がした。
透が顔を上げる。
「……何?」
天井近くの暗闇を、大きな影が横切った。
羽ばたきに合わせて、ステンドグラスから差し込むわずかな光が揺れる。
そして、廊下の奥にそれが止まった。
巨大な蛾だった。
人間の身体よりも大きい。
灰色がかった大きな羽。
細長い脚。
そして、こちらを向いた頭部。
「……蛾?」
三上が呟く。
透は答えなかった。
その蛾は、壁に張りついていた。
羽をゆっくり開閉している。
バサ……。
バサ……。
そのたびに、細かな粉のようなものが空中に舞った。
「近づかない方がいい」
透が小声で言う。
すると、蛾の頭がゆっくりこちらを向いた。
「……見られてる」
三上が一歩下がる。
巨大な蛾は突然、壁から離れた。
バサッ!
二人の頭上を通り過ぎる。
「うわっ!」
三上がしゃがむ。
蛾は廊下の奥へ飛んでいった。
だが――
すぐに戻ってきた。
「走れ!」
二人は一斉に走り出した。
背後から羽音が迫ってくる。
バサッ、バサッ、バサッ。
透は廊下の先を見る。
その奥に、重そうな鉄の扉があった。
「……あれだ!」
「何ですか!?」
「ボイラー室!」
二人は扉へ向かって走る。
背後から巨大な羽音が近づいてくる。
透が扉に手を伸ばした。
ガチャッ。
扉を開ける。
熱い空気が一気に吹きつけてきた。
「入れ!」
二人が中へ飛び込む。
透が振り返る。
暗い廊下の向こう。
巨大な蛾が、こちらを見つめていた。
そして――
扉が閉まった。
————————————
重い鉄の扉が閉まった。
その向こうから、デスモスの羽音が聞こえている。
バサ……バサ……。
「走るぞ」
三上が頷いた。
二人はボイラー室の奥へ走り始めた。
巨大な配管が壁や天井を走っている。
古い機械がいくつも並び、床には薄く水が溜まっていた。
足を踏み出すたびに、水が跳ねる。
透は周囲を見回した。
ここには、一度来たことがある。
「……こっちだったはずだ」
透は記憶を頼りに進んだ。
しかし、すぐに足を止めた。
「……違う」
目の前に、巨大な機械があった。
以前はなかったはずのボイラーが、通路を塞いでいる。
「前に来たときは、ここ通れたんだけど……」
「道が変わってるってことか?」
「たぶん……」
そのときだった。
ゴウン……。
近くの機械が低く唸った。
二人が振り向く。
「……何だ?」
大きなボイラーが一台、壁際に置かれていた。
古びた金属の表面。
錆びた配管。
その中央には――
顔があった。
「……え?」
透が息を呑む。
金属の表面に、人間の顔のような形が浮かび上がっている。
目。
鼻。
そして、大きく開いた口。
顔だけが、こちらを見ていた。
次の瞬間。
口が動いた。
「――――」
声にはならない。
ただ、金属が擦れるような音が響いた。
ギギギギ……。
「三上、逃げろ!」
透が叫んだ。
ボイラーが激しく揺れた。
ゴンッ!
配管が壁から外れ、床に叩きつけられる。
透たちは慌てて後ろへ下がった。
しかし、ボイラーは止まらない。
巨大な本体がこちらへ向かって動き始めた。
ズズズズ……。
「来るぞ!」
二人は走った。
背後から、金属を引きずる音が追ってくる。
ゴォン……。
ゴォン……。
振り返ると、あの顔がこちらを向いている。
目が、透たちを追っていた。
「こっち!」
三上が横の通路へ飛び込む。
透も続く。
直後、巨大なボイラーが通路の入口に衝突した。
ガァンッ!!
壁が震える。
配管から水が噴き出した。
「……まだ来る!」
二人はさらに奥へ走った。
背後から、金属音が近づいてくる。
ゴン……。
ゴン……。
やがて、その音が遠ざかった。
三上が立ち止まる。
「……撒いたか?」
透は息を整えながら振り返った。
そこには誰もいない。
ただ、暗い通路が続いている。
「……たぶん」
透はそう答えた。
だが、安心はできなかった。
ここに来てから、何度も思い知らされている。
この場所では、何が動き出してもおかしくない。
「行こう」
二人は再び歩き始めた。
しばらく進むと、前方に出口らしき扉が見えた。
「あそこだ!」
二人は扉へ向かって走った。
透がドアノブに手を伸ばす。
その瞬間だった。
――ギシッ。
足元から音がした。
「……?」
透が下を見る。
床に細い亀裂が入っていた。
「三上……」
「どうした?」
「床が……」
亀裂が広がった。
ギシギシギシ……。
「走れ!」
二人が扉へ向かおうとした瞬間。
床が、大きく沈んだ。
「うわっ!」
「透!」
透の足が床の中へ沈み込む。
まるで床そのものが、別の場所へ繋がっているようだった。
「落ちる……!」
透には分かった。
これは、以前にも経験した。
現実の床ではない。
世界そのものが、透を引きずり込もうとしている。
三上が透の腕を掴んだ。
「離すな!」
「三上!」
だが、三上の足元にも亀裂が走った。
床。
壁。
天井。
すべてが歪み始める。
ボイラー室の景色が、遠ざかっていく。
巨大な機械も。
配管も。
あの顔の付いたボイラーも。
全部が、歪んだ空間の向こうへ溶けていく。
「うわああっ!」
二人の身体が、床の下へ落ちた。
視界が暗くなる。
重力すら分からなくなった。
透は三上の腕を掴んだまま、暗闇の中へ落ちていった。
第八章 running!!!
落ちた。
そう思った次の瞬間。
透の足が、硬い床を捉えた。
「……っ!」
勢いのまま前へ転がる。
すぐに起き上がった。
「三上!」
「いる!」
少し離れた場所から声が返ってくる。
三上も床に手をつきながら立ち上がった。
透は周囲を見回した。
「……ここは?」
そこには、細長い廊下が続いていた。
左右には何もない。
壁。
床。
天井。
同じような景色が、どこまでも続いている。
遠くを見ても、出口は見えない。
「……長いな」
三上が呟いた。
透も廊下の先を見つめた。
そのときだった。
理由の分からない違和感が、身体の中を走った。
「……」
透は立ち止まった。
何かがおかしい。
音はない。
何も見えない。
それなのに――
嫌な予感がした。
背中が冷たくなる。
心臓が、さっきまでとは違う速さで動き始める。
そして、身体中が命令しているように感じた。
走れ。
今すぐ走れ。
ここにいるな。
透は無意識に一歩後ろへ下がった。
「……三上」
「ん?」
「走ろう」
「え?」
「理由は分からない。でも、ここにいたらまずい」
三上が透を見る。
透自身にも、何が起きているのか分からない。
ただ、この感覚を無視してはいけない。
これまで何度も、危険な場所を歩いてきた。
そして今まで生き残れたのは、何かがおかしいと感じたときに、立ち止まらなかったからだ。
「早く!」
透が走り出した。
「お、おい!」
三上も慌てて追いかける。
二人が走り始めてから、数秒後だった。
背後から――
ドン。
小さな音が響いた。
透は振り返らなかった。
その直後。
ドン。
ドン。
ドドドドドドッ――!
音が一気に増えた。
「……!」
三上が振り返る。
「何だよ、あれ……!」
廊下のずっと奥。
暗闇の中から、大量の何かが押し寄せてきていた。
一つではない。
二つでもない。
無数の影。
四つ足で走るもの。
人のような形をしたもの。
壁を這うもの。
それぞれ違う姿をした存在が、ひとかたまりになって迫ってくる。
「透!」
「振り返らないで!」
透が叫んだ。
「走って!」
三上は一瞬戸惑ったが、すぐに前を向いた。
二人は走った。
背後から、無数の足音が響く。
ドタドタドタドタッ。
壁を這うような音。
床を叩く音。
何かを引きずるような音。
いくつもの音が重なって、廊下全体が震えているようだった。
「何なんだよ、これ!」
「分からない!」
透は前だけを見ていた。
走っても。
走っても。
廊下の景色が変わらない。
出口が近づいている気配すらない。
肺が苦しくなる。
足が重くなる。
それでも止まれない。
透は自分の呼吸を意識的に整えた。
焦るな。
周りを見る。
何かあるはずだ。
何もない廊下に見えても、必ず何かが置かれている。
そう考えながら走っていると――
「……あれ」
透が前方を見た。
床に何かが落ちている。
小さなボトル。
そして、細長い袋。
「三上!」
「何だ?」
「あそこ!」
二人は近づいた。
三上が目を見開く。
「アーモンドウォーターだ!」
「知ってるの?」
「使える!」
三上がボトルを拾い上げる。
さらにエネルギーバーも拾った。
「飲め! 食べろ!」
「三上も!」
「俺はいい!」
「駄目だ!」
透が言った。
「二人とも走るんだ。どっちかだけ残ったら意味がない」
三上は一瞬黙った。
「……分かった!」
二人は走りながらアーモンドウォーターを飲み、エネルギーバーを口に入れた。
喉を冷たい水分が通っていく。
甘い味が広がる。
それだけで、ほんの少し身体が軽くなった。
「……まだ走れる」
三上が息を切らしながら言う。
「俺も」
透も頷いた。
背後の音は、まだ消えない。
むしろ、近づいている。
透は一度だけ後ろを見た。
大量の影が、廊下いっぱいに広がっている。
「……来てる」
「もっと速く!」
三上が叫ぶ。
「いや」
透は前を見たまま答えた。
「無理に速度を上げたら、すぐに息が切れる」
「じゃあどうするんだよ!」
「このまま走る。一定の速さで」
透の声は落ち着いていた。
「追いつかれない限り、走り続ければいい」
三上は一瞬、透の横顔を見た。
さっきまでよりも、透の方がずっと冷静だった。
「……分かった」
二人は並んで走った。
廊下はまだ続いている。
どこまで行っても終わらない。
それでも透は、前だけを見ていた。
嫌な予感は、まだ消えていない。
むしろ――
この廊下の先に、何かが待っている。
そんな気がしていた。
透はそれでも走った。
後ろから迫る大量のエンティティから逃げるために。
そして、果てのない廊下の先へ向かうために。
————————————
二人は並んで走った。
廊下はまだ続いている。
どこまで行っても終わらない。
それでも透は、前だけを見ていた。
嫌な予感は、まだ消えていない。
むしろ――
この廊下の先に、何かが待っている。
そんな気がしていた。
透はそれでも走った。
後ろから迫る大量のエンティティから逃げるために。
そして、果てのない廊下の先へ向かうために。
どれだけ走ったのか。
もう分からなかった。
腕時計もない。
スマートフォンを確認する余裕もない。
ただ、足を動かし続ける。
ドタドタドタドタッ――。
背後の音は、まだ聞こえている。
遠ざかってはいない。
それでも、すぐ後ろまで迫っているわけでもなかった。
「……まだ来てる」
三上が息を切らしながら言った。
「うん」
透は短く答えた。
呼吸を一定に保つ。
足を止めない。
焦れば、自分から転ぶ。
それだけは分かっていた。
廊下は何度走っても同じだった。
白い壁。
何もない床。
低い天井。
その景色が、どこまでも続いている。
「……終わらないな」
三上の声が震えた。
「終わる」
透は前を見たまま答えた。
「どこかには出口がある」
「……本当に?」
「分からない」
透は正直に言った。
「でも、そう思って走るしかない」
三上は何も言わなかった。
二人はまた走り続けた。
そのときだった。
透の足の裏に――
妙な感触が伝わった。
「……」
一瞬だけ、足を止めそうになる。
けれど走り続けた。
気のせいかもしれない。
そう思った。
だが。
数歩進んだところで、また感じた。
床が――
柔らかい。
「……待って」
三上が振り向く。
「どうした?」
透は走りながら、足元を見た。
床がわずかに揺れている。
まるで薄い水面を踏んでいるようだった。
「……まただ」
「何が?」
「床がおかしい」
三上も足元を見る。
最初は何もない。
しかし、次の瞬間。
床の表面が、波のように歪んだ。
「……嘘だろ」
三上が呟く。
透は立ち止まらなかった。
「走って!」
「え?」
「このまま行く!」
二人は前へ走った。
だが、床の歪みは追いかけてくる。
足元が波打つ。
壁まで揺れる。
遠くの景色が、水の中にあるように歪んでいく。
「透!」
「大丈夫!」
透はそう叫んだ。
けれど――
次の一歩を踏み出した瞬間。
足が、床をすり抜けた。
「……っ!」
身体が沈む。
「透!」
三上が腕を掴んだ。
「掴まって!」
透も三上の腕を掴み返す。
しかし、今度は三上の足元まで沈み始めた。
「駄目だ……!」
床が、完全に形を失っていく。
まるで二人の下だけ、床が存在しなくなったようだった。
背後から迫っていたエンティティの足音が、一瞬だけ遠くなる。
透は振り返った。
廊下の奥。
大量の影が、こちらへ向かって走っている。
だが、その姿も歪んでいた。
「……落ちる!」
三上が叫んだ。
次の瞬間。
床が完全に消えた。
二人の身体が、暗闇へ落ちていく。
「うわあああっ!」
透は三上の腕を掴んだまま、暗闇の中へ引きずり込まれた。
白い廊下が遠ざかる。
大量のエンティティも。
無限に続いていた景色も。
すべてが、闇の向こうへ消えていく。
そして――
何も見えなくなった。
第九章 The School
暗闇の中を、透と三上は落ち続けていた。
上下も分からない。
身体がどこへ向かっているのかも分からない。
「三上!」
「いる!」
声だけが、暗闇の中で返ってくる。
その直後だった。
――ドンッ。
「ぐっ……!」
透の身体が、硬い床に叩きつけられた。
少し遅れて、三上も落ちてくる。
「……痛っ」
「大丈夫?」
「ああ……なんとか」
二人はゆっくりと立ち上がった。
透は周囲を見回した。
「……ここは?」
そこには、学校があった。
廊下。
教室。
掲示板。
蛍光灯。
壁に並んだ教室の扉。
どこにでもありそうな、普通の学校だった。
「……学校?」
三上が呟いた。
「そうみたいだな」
透は廊下の先を見る。
人の気配はない。
話し声も聞こえない。
ただ、蛍光灯の小さな音だけが響いている。
透は近くの教室を覗いた。
机と椅子が並んでいる。
黒板もある。
窓もある。
どこを見ても、普通の学校だった。
「なんか……普通すぎないか?」
三上が言った。
「俺もそう思う」
二人は廊下を歩き始めた。
最初の角を曲がる。
その先にも廊下が続いていた。
さらに進む。
また角がある。
曲がる。
教室が並んでいる。
階段を見つけた。
二人は二階へ上がった。
そこにも廊下が続いていた。
「……広すぎないか?」
三上が立ち止まった。
「さっきの場所、もう見えない」
透も後ろを振り返った。
確かに、階段は見えなくなっていた。
「戻ってみる?」
「……戻ろう」
二人は来た道を戻った。
しかし。
いくら歩いても、階段が見つからない。
「……おかしい」
透が呟いた。
「学校って、こんなに広かったか?」
「普通の学校なら、こんな構造にはならないだろ」
さらに進む。
廊下。
教室。
階段。
また廊下。
どこまで行っても、学校の景色が続いている。
外へ出るための玄関も見つからない。
窓の外を見ても、校庭がどこまでも続いているように見えた。
建物の端すら見えない。
「……無限に続いてる」
三上が小さく言った。
透は返事をしなかった。
ただ、目の前に続く廊下を見つめていた。
ここも。
普通の場所ではない。
それでも、これまで通ってきた場所と比べれば、ずっと静かだった。
二人はしばらく探索を続けた。
教室の中を確認する。
階段を上る。
別の廊下を歩く。
それを何度も繰り返した。
やがて。
「……ん?」
透が足を止めた。
「どうした?」
三上も立ち止まる。
廊下の先に――
何かが立っていた。
人の形をしている。
しかし、人ではない。
青い。
身体全体が、のっぺりとした青色をしている。
顔も、普通の人間とは違う。
三本の線で簡単に書かれた笑顔。
ただ、人間と同じように二本の腕と二本の脚を持ち、廊下に立っている。
「……エンティティ?」
三上が小声で言った。
透は身構えた。
逃げるべきか。
近づくべきか。
判断できない。
その青い人型は、ゆっくりとこちらを向いた。
そして――
「こんにちは」
「……え?」
三上が固まった。
透も言葉を失った。
青い人型は、もう一度こちらを見る。
「驚かせてしまいましたか?」
普通の人間と同じ言葉だった。
透は警戒しながら答えた。
「……あなたは?」
青い人型は、少し首を傾けた。
「僕ですか?」
そして、静かに答えた。
「この学校にいる者です」
透と三上は顔を見合わせた。
敵意はない。
襲ってくる様子もない。
ただ、青い身体をした人型が、普通にそこに立っている。
「……人間じゃ、ないよな?」
三上が尋ねた。
青い人型は少し考えるように黙った。
「そうですね」
そして、穏やかな声で続けた。
「でも、あなたたちに危害を加えるつもりはありません」
透は、その言葉を聞いても警戒を解かなかった。
ただ。
これまで出会った存在とは、明らかに違っていた。
青い人型は、敵ではないようだった。
そして二人の前で、静かに立っていた。
————————————
「……一つ、聞いていいか?」
透が尋ねた。
「もちろんです」
青い人型は、三本の線で描かれた笑顔のまま答えた。
「帰還の門で、休息を選んだ人たちって……今、どこにいるんだ?」
青い人型は少し考えた。
「休息を選んだ人たち、ですか?」
「ああ」
「その人たちなら……」
青い人型は、廊下の先を見た。
「ここから先の、別の場所にいます」
「別の場所?」
三上が聞き返す。
「はい」
青い人型は頷いた。
「休息を選んだ人たちは、そこでしばらく休んだあと、新しい場所へ進むことになります」
「じゃあ、休息したら終わりじゃないのか?」
「終わりではありません」
青い人型は穏やかに答えた。
「休息できたら、また新たな場所へ進んで、そこで旅を続けるのでしょう」
透はその言葉を聞いて、少し考えた。
「……その人たちが、今どこにいるのかは分かる?」
「正確な場所までは分かりません」
青い人型は首を横に振った。
「僕でも分かりません」
「そうか……」
透は少し俯いた。
それでも、手掛かりがないわけではない。
帰還の門で休息を選んだ人たちは、ここではないどこかで、まだ旅を続けている。
透は顔を上げた。
「じゃあ、その人たちに近づくための道は?」
青い人型は、少しだけ笑った。
「それなら、案内できます」
「本当か?」
「はい」
青い人型は、廊下の奥を指差した。
「彼らに近づくための出口があります」
三上がその先を見る。
「出口って……どこに繋がってるんだ?」
「僕にも分かりません」
青い人型は答えた。
「ですが、少なくともここから出ることはできます」
透は三上を見る。
三上も頷いた。
「……行こう」
「ああ」
青い人型が歩き始める。
「こちらです」
二人はその後を追った。
無限に続いているように見える学校の廊下を、三人で進んでいく。
その先にある出口へ向かって。
――――――
青い人型が、廊下の奥を指差した。
「出口はこちらです」
透と三上は、その方向を見る。
長い廊下の先。
いくつもの教室を通り過ぎた先に、階段が見えていた。
「……その前に」
透が青い人型を呼び止めた。
「はい?」
「俺たち、4人で現実に戻りたいんだ」
青い人型は、静かに透を見る。
「できますか?」
「……」
三上も続ける。
「帰還の門って、一人しか帰れないことがあるんだろ?」
「はい」
「じゃあ、どうすれば4人で帰れる?」
青い人型は少し考えた。
「帰還の門で、休息を選んでください」
「休息……」
透が呟く。
「そして、そこで休んだあとに、先へ進まないことです」
「先へ進まない?」
「はい」
青い人型は頷いた。
「休息を選んだ人は、そのまま新しい場所へ進むことができます」
「でも、俺たちは進まない」
「そうです」
「そのあと、どうするんだ?」
「来た道を戻ります」
三上が聞き返した。
「帰還の門まで?」
「はい」
青い人型は答えた。
「休息を選んだあと、帰還の門まで戻ることができれば、二人で現実へ帰ることができます」
透は何度もその言葉を頭の中で繰り返した。
「つまり……」
指を折るように確認する。
「帰還の門に着く」
「はい」
「そこで休息を選ぶ」
「はい」
「休んだあと、先に進まずに戻る」
「そうです」
「そして、帰還の門から4人で現実に帰る」
「はい」
青い人型は静かに頷いた。
「それが、4人で帰る方法です」
透は息を吐いた。
ようやく。
はっきりとした方法が分かった。
「……分かった」
三上も頷く。
「今度は、4人で帰ろう」
「ああ」
透はそう答えた。
そのとき。
ふと、佐伯のことが頭に浮かんだ。
もし、この方法を知っていたら。
もし、あのとき自分に伝えてくれていたら。
それでも佐伯は、自分を先に帰したのだろうか。
「……佐伯」
透は小さく呟いた。
まだ終わっていない。
今度は、自分が探しに行く。
「じゃあ、出口まで案内してくれるんだな?」
「はい」
青い人型は廊下の奥を指差した。
「こちらです」
三人は歩き始めた。
階段を下りる。
長い廊下を進む。
何度も角を曲がる。
しばらくすると、遠くに大きな扉が見えてきた。
「……あれが出口?」
三上が尋ねる。
「はい」
青い人型は答えた。
「この先は、危険な場所に出るはずです」
透は扉を見つめた。
「どんな場所なんだ?」
「僕にも詳しくは分かりません」
青い人型は穏やかに答えた。
「ですが――」
少し間を置く。
「諦めないでください」
二人を見る。
「友人を見つけて、帰還の門まで戻ってくださいね」
透は頷いた。
「……分かった」
三上も頷く。
「行こう」
透が扉に手をかける。
青い人型が言った。
「気をつけてください」
扉が開く。
その向こうには――
黄色い壁があった。
古い蛍光灯。
長く続く廊下。
見覚えのあるような景色。
けれど。
そこには、明らかな違和感があった。
黄色い壁の途中に、金属製の扉がある。
その先には、洞窟のような空間が見えている。
さらに遠くには、ホテルのような装飾まで見えた。
三上が立ち止まる。
「……何だ、ここ」
透も、目の前の景色を見つめた。
一つの場所のはずなのに。
いくつもの場所が、重なっている。
これが――
青い人型の言っていた、危険な場所なのか。
背後で扉が静かに閉じた。
ガチャン。
透は前を向いた。
「行こう」
二人は、折り重なった世界の中へ歩き始めた。
第十章 Fold Point
扉を抜けた瞬間。
空気が変わった。
透は足を止めた。
「……ここは?」
目の前には、長い廊下が続いていた。
黄色い壁。
古びた蛍光灯。
どこまでも続いているような、同じ形の廊下。
一見すると、以前にも通ったことのある場所に見える。
しかし。
よく見ると、何かがおかしい。
廊下の途中に、見覚えのない金属製の扉がある。
その扉の向こうには、黄色い廊下ではなく、暗い洞窟が見えていた。
「……変だな」
三上が呟く。
透も頷いた。
「いろんな場所が混ざってる」
二人は慎重に歩き始めた。
数十メートル進んだところで、蛍光灯が変わった。
黄色い光が消える。
代わりに、白い照明が点滅し始めた。
パチッ。
パチッ。
パチッ。
「……さっきまで黄色だったよな?」
「ああ」
さらに進む。
壁には、いくつもの扉が並んでいた。
どれも古びている。
しかし、扉には鍵がかかっているものもあれば、少しだけ開いているものもある。
透が一つの扉に手を伸ばした。
「待って」
三上が止める。
「何か聞こえる」
二人は耳を澄ませた。
扉の向こうから――
カリ……。
カリ……。
何かが壁を引っ掻くような音。
透は手を引いた。
「開けない方がいい」
「そうだな」
二人はそのまま通り過ぎた。
すると。
後ろから。
ガンッ。
二人が振り返る。
さっきの扉が、大きく揺れていた。
ガンッ。
ガンッ。
「……何かいる」
三上が小さく言った。
透は答えなかった。
扉から離れるように歩く。
そのときだった。
廊下の先から、何かが走ってきた。
「……!」
四つ足の影。
人間よりも低い姿勢で、こちらへ向かってくる。
「走れ!」
二人は反射的に走り出した。
影は追ってくる。
足音が近づく。
ドタッ。
ドタッ。
ドタドタドタッ。
「右!」
三上が叫ぶ。
二人は横の通路へ飛び込んだ。
しかし、その先にも別の影がいた。
「……嘘だろ」
透が立ち止まる。
前方に、人のような姿が立っている。
動かない。
ただ、こちらを見ている。
その後ろの壁には、何かが這っている。
そして、頭上からも音がした。
カサ……。
カサカサ……。
透は周囲を見回した。
「……多すぎる」
三上も息を呑む。
「エンティティだらけだ」
二人は来た道を戻った。
後ろからも、前からも、何かが動いている。
透は一瞬だけ立ち止まった。
そして、別の扉を見つけた。
「こっち!」
二人は扉へ走った。
扉を開ける。
中へ飛び込む。
すぐに閉める。
ガンッ!
外から何かがぶつかった。
透と三上は息を殺した。
しばらくして。
足音が遠ざかっていく。
「……助かった」
三上が壁にもたれた。
透も息を整える。
「この場所、普通じゃない」
「うん」
三上が周囲を見る。
そこは、さっきまでの廊下とは全く違っていた。
古いホテルのような部屋。
壁には装飾があり、天井には大きな照明がある。
しかし、部屋の奥には鉄格子があり、その向こうにはまた別の廊下が見えている。
「……ホテル?」
「たぶん違う」
透は首を振った。
ホテルのように見えるだけで、どこかがおかしい。
窓の外を見る。
そこには、ぼやけた空が広がっていた。
雲なのか。
それとも、別の何かなのか。
よく分からない。
三上が窓から離れた。
「ここにいても仕方ない」
「ああ」
透は歩き出した。
「佐伯を探さないと」
三上も続く。
「俺も、友達を探す」
二人は別々の人を探している。
それでも、目的地は同じだった。
帰還の門。
そこまで戻る。
そして、それぞれ大切な人と一緒に現実へ帰る。
そのためには――
この場所を抜けなければならない。
二人は部屋の奥にある扉を開けた。
その先には、また廊下が続いていた。
今度はレンガ造りだった。
狭い。
天井も低い。
まるで下水道のような空間だ。
「……また変わった」
透が呟く。
二人は身をかがめながら進んだ。
しばらくすると。
前方から、水の音が聞こえてきた。
ポタ。
ポタ。
そして――
サアァ……。
「水?」
三上が前を見る。
暗い通路の先から、少しずつ水が流れてきていた。
透は足を止めた。
その水の向こう側に。
何かがいる。
人影のようなものが、じっと立っていた。
透は息を呑んだ。
「……三上」
「見えてる」
二人は動かなかった。
人影も動かない。
ただ。
その背後から、別の足音が聞こえた。
カツ。
カツ。
カツ。
さらに反対側からも。
ドン。
ドン。
ドン。
透は周囲を見回した。
まただ。
ここには、一つだけではない。
いくつもの気配がある。
「……囲まれる前に行こう」
「どこへ?」
透は暗い通路の先を見る。
「前へ」
二人は再び歩き始めた。
エンティティの気配が増えていく中で。
Fold Pointの奥へと。
————————————
水の音が、少しずつ大きくなっていた。
ポタ。
ポタ。
透と三上は、狭い通路を進んでいた。
レンガ造りの壁。
低い天井。
足元には薄く水が流れている。
「……本当に、いろんな場所が混ざってるな」
三上が呟く。
透は答えなかった。
前方に立っている人影から、目を離せない。
人間のように見える。
だが。
何かがおかしい。
その影は、二人が近づいても動かなかった。
「……人?」
三上が小さく声をかけた。
「やめた方がいい」
透が止める。
「でも――」
その瞬間。
人影の頭が、不自然な角度に傾いた。
「……!」
二人が同時に後ろへ下がる。
影が動いた。
一歩。
また一歩。
そして突然、四つ足になった。
「走れ!」
二人は一斉に走り出した。
直後。
背後から、激しい足音が響いた。
ドドドドドッ!
「来てる!」
「分かってる!」
狭い通路を走る。
しかし、前方にも何かがいた。
壁際に立っている。
こちらを見ている。
「……前にもいる!」
透は急停止した。
前。
後ろ。
逃げ道がない。
三上が周囲を見る。
「どうする!?」
透は壁を見た。
レンガ。
配管。
小さな扉。
そして、その横に――
細い隙間があった。
「三上!」
「あれか!」
「入れる!」
二人は隙間へ向かって走った。
背後からエンティティが迫る。
手が伸びる。
透は身体を横にして、隙間へ滑り込んだ。
「三上!」
「今行く!」
三上も飛び込む。
直後。
ドンッ!!
エンティティが壁にぶつかった。
二人は狭い空間の中で息を殺した。
外から、爪が壁を擦る音が聞こえる。
ガリ……。
ガリ……。
透は口元を押さえた。
三上も動かない。
しばらくして。
足音が離れていった。
「……行った?」
三上が小さく呟く。
「分からない」
透は前を向いた。
隙間の先には、さらに細い通路が続いていた。
「ここから出よう」
二人は這うように進んだ。
しかし。
数メートル進んだところで、前方から光が見えた。
「出口?」
「たぶん!」
二人は急いだ。
光が近づいてくる。
その瞬間。
後ろから――
ドンッ!!
「……!」
壁が揺れた。
エンティティが追ってきている。
「急げ!」
二人は必死に進んだ。
前方の光へ手を伸ばす。
透が先に抜けた。
三上も続く。
そして二人が外へ出た瞬間――
背後の壁が大きく歪んだ。
ガンッ!!
エンティティが隙間から飛び出そうとする。
「走れ!」
二人は振り返らずに走った。
走って。
走って。
とにかく離れる。
すると。
突然、周囲の景色が変わった。
黄色い壁が消えた。
レンガも消えた。
暗い廊下も消えた。
代わりに――
明るい光が広がった。
「……え?」
三上が足を止めた。
透も立ち止まる。
目の前に、巨大なゲームセンターが広がっていた。
色とりどりの筐体。
音楽ゲーム。
レースゲーム。
クレーンゲーム。
壁際には大量のゲーム機が並んでいる。
天井からは明るい照明が降り注いでいた。
さっきまでの緊張が嘘のようだった。
「……ゲーセン?」
三上が呟く。
透は周囲を見回した。
「ここ……」
ゲーム機の画面が、一斉に光る。
ピコーン。
ピコーン。
ピコーン。
まるで二人を歓迎しているようだった。
しかし。
透は気を抜かなかった。
「……ここも、普通じゃない」
その言葉に反応するように。
遠くのゲーム機から、突然音声が流れた。
『PLAYER――』
途中で音が途切れる。
ジジッ。
画面が一瞬だけ真っ暗になる。
そして。
また何事もなかったかのようにゲーム画面が戻った。
三上が苦笑する。
「……ゲーセンなら、少しくらい休ませてくれてもいいだろ」
透も小さく笑った。
「そうだな」
二人はゲームセンターの奥を見る。
そこには、さらに長い通路が続いていた。
Fold Pointから脱出できたのか。
それとも――
また別の場所へ来ただけなのか。
透はゆっくりと歩き出した。
「行こう」
三上も後に続く。
二人は、巨大なゲームセンター――
The Quarter Hubへ足を踏み入れた。
第十一章 The Quarter Hub
ゲームセンターの中を、透と三上はゆっくり歩いていた。
さっきまでいた場所とは、あまりにも雰囲気が違う。
明るい照明。
並んだゲーム機。
画面から流れる電子音。
時々、どこかの筐体から歓声のような音まで聞こえてくる。
「……本当にゲームセンターだな」
三上が辺りを見回す。
「うん」
透も周囲を確認した。
エンティティの気配はない。
少なくとも、今すぐ襲われるような様子はなかった。
二人はゲームセンターの奥へ進んでいく。
クレーンゲーム。
レースゲーム。
音楽ゲーム。
古いゲームから、新しいものまで様々な筐体が並んでいる。
「ここ、誰かが使ってるのか?」
三上が呟いた。
その時だった。
少し離れた場所から、ゲームの音が聞こえた。
ピコーン。
ピコーン。
何かを操作している音。
透が足を止めた。
「……誰かいる」
三上も音の方向を見る。
ゲームセンターの奥。
一台のゲーム機の前に、人が座っていた。
背中を向けている。
「人……?」
三上が小さく言う。
透はゆっくり近づいた。
一歩。
また一歩。
その人の姿が、少しずつはっきりしていく。
黒っぽい服。
少し伸びた髪。
見覚えのある背中。
「……」
透の足が止まった。
まさか。
そんなはずはない。
透は、もう一歩近づいた。
「……佐伯?」
その男の手が止まった。
ゲームの音だけが残る。
数秒の沈黙。
やがて。
男がゆっくり振り返った。
「……透?」
透は言葉を失った。
「佐伯……」
間違いなかった。
そこにいたのは、あの佐伯だった。
「……お前」
佐伯が立ち上がる。
透に近づいてくる。
そして。
「何戻ってきてんだよ!」
佐伯が怒鳴った。
「え……」
「何で戻ってきたんだ!」
透が言葉を返せない。
佐伯は怒ったような顔で続ける。
「せっかく帰したのに!」
「でも……!」
「俺はお前を帰すために残ったんだぞ!」
「分かってる!」
透も声を上げた。
「でも、俺は佐伯を置いて帰りたかったわけじゃない!」
「だったら帰ってこなきゃよかっただろ!」
佐伯はそう言って、拳を握った。
「家族が待ってるんだろ!」
透は黙った。
妻。
娘。
家に帰ったときの光景が頭に浮かぶ。
「……分かってる」
透は静かに答えた。
「俺だって、帰りたかった」
「じゃあ、なんで……」
「俺が戻ってきたのは、わざとじゃない」
透は首を振った。
「一度は本当に帰ったんだ」
「……何?」
「家に帰った。妻にも、娘にも会った」
佐伯の表情が変わる。
「でも、そのあと……気づいたら、またここにいた」
「……」
「俺だって、どうして戻ってきたのか分からない」
佐伯はしばらく黙っていた。
やがて。
「……そういうことか」
怒りが、少しずつ消えていく。
「お前が自分から戻ってきたわけじゃないんだな」
「うん」
佐伯は大きく息を吐いた。
「……悪かった」
「いや」
「俺も……お前がわざと戻ってきたのかと思った」
透は苦笑した。
「俺だって戻りたくて戻ったわけじゃないよ」
二人の間に、少しだけ静かな時間が流れた。
透は佐伯の顔を見る。
ずっと探していた。
もう会えないと思っていた。
それなのに。
今、目の前にいる。
「……佐伯」
「ん?」
「今度は、一緒に帰ろう」
佐伯は少し驚いた顔をした。
「……帰れるのか?」
「方法を知った」
「本当に?」
透は頷いた。
「帰還の門で休息を選ぶ」
「……」
「そのあと、先へ進まずに帰還の門まで戻るんだ」
佐伯が黙って聞いている。
「そうすれば、二人で現実に戻れる」
「……二人で?」
「ああ」
佐伯はしばらく透を見つめた。
そして。
「……そうか」
小さく笑った。
「それなら、最初からそうすればよかったな」
「俺たち、知らなかったから」
「だな」
佐伯はゲーム機を見る。
「じゃあ、ここで遊んでる場合じゃないな」
三上が少し離れたところから声をかけた。
「俺も友達を探してるんです」
佐伯が三上を見る。
「お前も?」
「はい」
「じゃあ、二人とも探してる人がいるってことか」
「そうです」
透は頷いた。
「俺は佐伯と帰る」
三上も言った。
「俺は大学の友達と」
佐伯は二人を見て、少し笑った。
「なら、探さないとな」
透は頷いた。
「うん」
ゲームセンターの奥には、まだ長い通路が続いている。
その先に何があるのかは分からない。
それでも。
今度は一人じゃない。
透は佐伯の隣に立った。
「行こう」
「ああ」
四人で現実に帰る。
そのために。
透たちは、The Quarter Hubのさらに奥へ進んでいった。
————————————
The Quarter Hubの中を、透、佐伯、三上の三人は歩いていた。
さっきまでいたFold Pointとは、まるで別の場所だった。
明るい照明。
並んだゲーム機。
どこからともなく聞こえてくる電子音。
クレーンゲームの景品。
古いアーケードゲーム。
音楽ゲームの派手な効果音。
それらが、広い空間の中に混ざっている。
「……本当にゲームセンターだな」
三上が辺りを見回した。
「でも、人がいない」
佐伯が言った。
確かに。
これだけのゲーム機が並んでいるのに、誰も遊んでいない。
ゲーム機だけが動いている。
ピコーン。
ピコーン。
時々、誰も触っていないはずの筐体から音が鳴る。
透は少しだけ不気味に感じた。
「……ここも普通じゃないな」
「まあ、今さらだけどな」
佐伯が苦笑する。
三人はさらに奥へ進んだ。
途中には、休憩スペースのような場所もあった。
ベンチ。
自動販売機。
小さなテーブル。
しかし、飲み物は何も入っていない。
「誰かがここを使ってたのかな」
三上が自動販売機を覗き込む。
「分からない」
透は周囲を見た。
人の気配はない。
エンティティの気配もない。
今までに比べれば、ずっと静かだった。
「……少し休む?」
三上が言った。
「いや」
透は首を振った。
「早く出口を探そう」
佐伯も頷いた。
「そうだな」
三人は歩き続けた。
ゲームセンターの奥へ進むにつれて、ゲーム機の数が減っていく。
明るかった照明も、少しずつ暗くなっていった。
やがて。
「……あれ」
三上が前を指差した。
壁に、大きな案内板があった。
矢印。
その先には、EXITと書かれている。
「出口?」
「行ってみよう」
三人は案内に従って進んだ。
ゲーム機の並ぶエリアを抜ける。
細い通路に入る。
そこにはゲームセンターの雰囲気が残っていなかった。
壁は無機質。
照明も少ない。
足音だけが響く。
カツ。
カツ。
カツ。
「……静かになったな」
佐伯が呟く。
透は後ろを振り返った。
誰もいない。
ゲームセンターの明かりが、遠くに見えている。
さらに進む。
すると、前方に大きな鉄製の扉が現れた。
「……あれだ」
三上が近づく。
扉の上には、小さな文字でEXITと書かれている。
透が扉の前に立った。
ドアノブに手をかける。
「この先が、次の場所か」
「たぶんな」
佐伯が答える。
三上は一度だけ後ろを振り返った。
「……俺の友達、まだ見つからないな」
透が三上を見る。
「見つけるまで、俺たちも一緒に探す」
「ありがとう」
三上が頷く。
「じゃあ、行こう」
透がドアノブを回した。
カチャン。
扉が開く。
その向こうから――
冷たい風が吹いてきた。
三人は顔を見合わせた。
まだ、次に何が待っているのか分からない。
透は一歩、扉の外へ踏み出した。
佐伯と三上も続く。
そして。
三人が外へ出た瞬間――
背後で、鉄の扉がゆっくりと閉まった。
ガチャン。
明かりが、完全に見えなくなった。
第十二章 The Cave
The Quarter Hubの扉が閉まった。
ガチャン。
透は振り返った。
さっきまで見えていたゲームセンターの明かりは、もうない。
目の前には、暗闇が広がっていた。
「……何も見えない」
三上が呟く。
透はスマートフォンを取り出し、ライトを点けた。
白い光が前方を照らす。
そこで、三人は同時に気づいた。
「……洞窟?」
目の前には、巨大な岩壁があった。
天井はライトを向けても見えない。
左右には、自然にできたような岩の壁が続いている。
足元は濡れていた。
水が薄く流れている。
ポタ。
ポタ。
遠くから、水滴が落ちる音が響いていた。
「……さっきまでゲーセンだったのに」
三上が呟く。
「この場所も、普通じゃないな」
佐伯が答えた。
三人は慎重に歩き始めた。
洞窟の中は広かった。
ところどころに巨大な鍾乳石が垂れ下がっている。
床には水たまりがいくつもある。
ライトを向けても、その水の底が見えない場所もあった。
「足元、気をつけろ」
透が言った。
「ああ」
三人はゆっくり進んだ。
しばらくすると、通路が二つに分かれていた。
「どっちだ?」
三上が立ち止まる。
透は左右を見る。
どちらも同じように暗い。
「分からない」
「じゃあ右――」
佐伯が言いかけた。
そのとき。
左の通路から。
カサ……。
小さな音がした。
三人がそちらを見る。
何もいない。
「……風かな」
三上が言う。
透は答えなかった。
ライトを向ける。
岩壁しか見えない。
「右へ行こう」
三人は右の通路へ進んだ。
数十メートル歩いたところで。
また音がした。
今度は頭上。
カリ……。
カリカリ……。
三人が同時に上を見る。
ライトが照らしたのは、鍾乳石だけだった。
「……何かいる」
佐伯が小さく言った。
「俺もそう思う」
透はライトを動かした。
壁。
天井。
床。
何もいない。
しかし。
音だけが続いている。
カリ。
カリ。
カリ。
そして突然。
ライトの端を、黒いものが横切った。
「……!」
透がライトを向ける。
何もいない。
「今の見た?」
三上が聞く。
「ああ」
佐伯も答えた。
「何だった?」
「分からない」
透はライトを前へ向けた。
「でも、ここに何かいる」
三人は歩く速度を上げた。
その直後。
背後から、大きな音がした。
ドンッ!
三人が振り返る。
何かが岩壁に飛び降りたような音。
「走るぞ!」
佐伯が叫んだ。
三人は走り始めた。
足元の水が跳ねる。
後ろから、何かが追ってくる音がする。
ドタッ。
ドタッ。
ドタドタドタッ。
「来てる!」
三上が叫ぶ。
透は振り返らない。
「前だけ見ろ!」
洞窟の先に、わずかな光が見えた。
「あそこ!」
三人は光へ向かって走った。
しかし。
光の前に、何かが立っていた。
人間のような形。
動かない。
透が足を止める。
「……待て」
三上と佐伯も止まった。
人影は、こちらを向いていた。
顔は見えない。
ただ。
その背後から、別の音が聞こえる。
カサ。
カサカサ。
さらに上から。
ドン。
ドン。
ドン。
三人は周囲を見回した。
前にもいる。
後ろにもいる。
そして、頭上にも。
「……囲まれてる」
三上が呟いた。
透はライトを握り直した。
「……走るしかない」
「どこへ?」
「前だ」
透は人影を見つめた。
その瞬間。
人影が、一歩前へ出た。
そして。
暗闇の奥から、無数の足音が響いた。
ドドドドドドッ――。
「走れ!」
三人は一斉に走り出した。
洞窟の奥へ。
何が待っているのかも分からないまま。
ただ、後ろから迫ってくる何かから逃げるために。
そして透は、走りながら思った。
この洞窟は――
これまでの場所より、明らかに危険だ。
まだ、入口を出たばかりなのに。
————————————
走る。
ただ、それだけだった。
背後から聞こえる足音が、どんどん近づいてくる。
ドドドドドッ。
透は何度も振り返りそうになった。
しかし、振り返る余裕はなかった。
「右!」
三上が叫んだ。
前方に通路が二つに分かれている。
「こっちだ!」
三上が右へ曲がる。
透と佐伯も続いた。
その瞬間。
左側の通路から、大きな音が響いた。
ドンッ!
「……!」
何かが岩壁にぶつかった。
追ってきている。
三人はさらに速度を上げた。
しばらく走ると、通路が急に広くなった。
巨大な空間だった。
天井は高く、中央には大きな岩がいくつも積み重なっている。
「ここなら……」
三上が息を整える。
しかし。
透がライトを動かした。
「……待って」
岩陰に何かがある。
三人は足を止めた。
「人……?」
佐伯が呟く。
透がゆっくり近づく。
岩の陰に、一人の男性が座り込んでいた。
服は汚れている。
顔も疲れ切っている。
けれど、生きている。
三上の顔が変わった。
「……そんな」
透を見る。
それから、その男性を見る。
「……宮本」
三上が走り出した。
男性が顔を上げる。
「……三上?」
二人はしばらく見つめ合った。
宮本はゆっくり立ち上がった。
「……お前」
三上が近づく。
「生きてたのか」
「ああ」
宮本は答えた。
そして。
少し間を置いてから、三上を睨んだ。
「……なんで戻ってきたんだよ」
三上の足が止まった。
「……分からない」
「分からない?」
宮本の声が強くなる。
「お前、一回帰れたんだろ?」
「うん」
「だったら、なんでまたここにいるんだよ」
三上は俯いた。
「俺も……戻るつもりはなかった」
「だったら、なおさらだろ」
宮本は拳を握った。
「せっかく帰れたのに」
「……」
「俺は、お前が現実で普通に暮らしてると思ってた」
三上は何も言えなかった。
「それなのに、またこんなところに戻ってきて……」
宮本は周囲を見回した。
暗い洞窟。
聞こえてくる足音。
どこに何がいるかも分からない場所。
「……馬鹿だろ」
三上が顔を上げる。
「……ごめん」
「謝ってる場合じゃない」
宮本はため息をついた。
「俺たちが帰還の門に行った時、一人しか帰れないって分かってた」
「ああ」
「だから、お前が帰ったことは分かってた」
「うん」
「俺も残った」
三上が頷く。
「……俺だけ帰った」
「そうだ」
宮本は少し黙った。
「だから、俺はお前が戻ってくるなんて思ってなかった」
三上は小さく言った。
「……俺だって、戻ってきたくなかった」
「分かってる」
宮本が答えた。
「お前がわざと戻ってきたんじゃないことくらい」
その言葉に、三上が顔を上げた。
「でも……」
宮本は三上の肩を掴んだ。
「二度と戻ってくるなって思ってた」
「……」
「お前には、帰ってほしかったんだよ」
三上は黙っていた。
宮本はゆっくり手を離す。
「……それなのに、また会えた」
「うん」
「嬉しいけど」
宮本は苦笑した。
「やっぱり、怒ってる」
三上も少しだけ笑った。
「……ごめん」
「だから謝るなって」
その時。
洞窟の奥から。
ゴォ……。
低い音が響いた。
四人が一斉に振り返る。
暗闇の奥で、何かが動いた。
「……話は後だ」
佐伯が言った。
「ここから出るぞ」
透も頷く。
「帰還の門まで戻ろう」
三上と宮本も頷いた。
四人になった。
透と佐伯。
三上と宮本。
それぞれ、一緒に帰るために。
「行こう」
三上が言った。
四人は洞窟の奥へ向かって走り始めた。
しかし。
その頭上。
暗闇の中に。
何かが張り付いていた。
それは四人を見下ろしながら。
ゆっくりと動き始めた。
————————————
四人は洞窟の中を走っていた。
足元の水が跳ねる。
後ろから、何かが追ってきている。
ドドドドドッ。
「まだ来てる!」
宮本が振り返る。
「振り返るな!」
三上が叫んだ。
透は前を見た。
その時。
洞窟の先に、明るい光が見えた。
「……あれ!」
透が叫ぶ。
遠くに、はっきりとした出口がある。
白い光が、洞窟の中へ差し込んでいた。
「出口だ!」
宮本が叫んだ。
四人の走る速度が上がる。
「もう少し!」
佐伯が叫ぶ。
出口まで、あと数十メートル。
しかし。
その瞬間だった。
頭上から何かが落ちてきた。
ドンッ!
「うわっ!」
四人が散った。
巨大な影が、四人の間に着地した。
「……!」
透は足を止めた。
人間に近い形。
しかし、腕も脚も異様に長い。
身体を低くしたまま、四人を見回している。
「エンティティ……!」
三上が叫んだ。
その背後からも、別の足音が聞こえた。
ドドドドッ。
「一体じゃない!」
宮本が叫ぶ。
「出口まで走れ!」
佐伯が叫んだ。
透は出口を見る。
光はすぐそこだった。
「三上! 宮本!」
「分かってる!」
四人は左右に分かれて走った。
透と佐伯は左側。
三上と宮本は右側。
しかし。
目の前に別の影が現れた。
「……!」
透が急停止する。
その瞬間、後ろから何かが迫ってきた。
「透!」
佐伯が透の腕を掴む。
「こっちだ!」
二人は横の細い通路へ飛び込んだ。
「三上!」
透が叫ぶ。
「先に行け!」
三上の声が返ってきた。
「俺たちは俺たちで出口を見つける!」
「でも――」
「いいから行け!」
宮本も叫んだ。
「ここで止まったら全員やられる!」
透は一瞬だけ立ち止まった。
向こう側に三上と宮本の姿が見える。
しかし。
その間を、巨大な影が横切った。
ドンッ!
「三上!」
「透!」
岩のような壁が崩れ、通路が塞がった。
透は慌てて近づく。
「三上!」
返事がない。
「三上!」
向こう側から、かすかに声が聞こえた。
「透!」
「大丈夫か!」
「ああ!」
三上の声だった。
「宮本もいる!」
透は息を吐いた。
「よかった……」
「お前たちは?」
「俺と佐伯も大丈夫だ!」
その時。
向こう側から大きな音が響いた。
ドンッ!
「三上!」
「大丈夫!」
少し間を置いて、三上が叫ぶ。
「俺たちは俺たちで出口を見つけるから!」
透は黙った。
「お前たちは先に行け!」
「……でも」
「ここで一緒にいたら、全員が逃げられなくなる!」
三上の声が響く。
「帰還の門まで行け!」
透は壁を見つめた。
その向こうに、三上と宮本がいる。
すぐそこなのに。
もう一緒には進めない。
佐伯が透の肩に手を置いた。
「行くぞ」
「……佐伯」
「三上たちは大丈夫だ」
透は拳を握った。
「……分かった」
壁の向こうへ向かって叫ぶ。
「三上!」
「何だ!」
「絶対に帰れよ!」
少しの沈黙。
そして。
「ああ!」
三上の声が返ってきた。
「お前もな!」
その瞬間。
背後から足音が響いた。
ドドドドドッ。
透は振り返る。
暗闇の中から、何かが近づいてくる。
「……行くぞ」
佐伯が言った。
透は頷いた。
二人は出口へ向かって走り出した。
背後から迫る足音を聞きながら。
そして。
別の通路では。
三上と宮本もまた、出口を目指して走っていた。
二つに分かれた道の先で。
四人はそれぞれの帰還を目指していた。
そして、透と佐伯は出口に辿り着いた。
第十三章 The Threshold
「……出口だ」
透が呟いた。
洞窟の先に、白い光が見えている。
佐伯もそれを見た。
「本当だ」
二人は走った。
もう後ろを振り返らなかった。
光が少しずつ大きくなる。
そして。
二人は、その中へ飛び込んだ。
――その瞬間。
音が消えた。
透は足を止めた。
「……」
何も見えない。
そこには、完全な暗闇が広がっていた。
壁もない。
天井も見えない。
ただ、どこまでも続く暗闇。
「……ここは?」
佐伯が周囲を見る。
透は答えなかった。
代わりに、暗闇の中を見つめた。
すると。
少し離れた場所に、淡い光が浮かんでいる。
「……あれ」
二人はゆっくり近づいた。
暗闇の中に。
一つの大きな門が立っていた。
青白く光る、アーチ状の門。
「……帰還の門」
透が呟いた。
その瞬間。
以前ここへ来た時のことを思い出した。
あの時も。
この暗闇の中に、同じ門があった。
自分は何も知らなかった。
佐伯が隠していたことにも気づかず。
ただ、帰りたいという気持ちだけで、この門をくぐった。
そして。
自分だけが現実へ戻った。
「……」
透は門から目を離した。
「……まず、待とう」
佐伯が透を見る。
「三上たちを?」
「ああ」
透は頷いた。
「まだ来てないだけかもしれない」
「そうだな」
二人は門の近くに座った。
暗闇の中で。
何もせず、ただ待った。
しばらくして。
透が入口の方を見る。
誰も来ない。
さらに時間が経つ。
それでも。
三上も。
宮本も。
現れなかった。
「……来ないな」
透が呟く。
「うん」
佐伯も暗闇を見る。
「もう少し待とう」
「そうだな」
二人はさらに待った。
けれど。
足音は聞こえない。
人影も現れない。
透は俯いた。
「……大丈夫かな」
「大丈夫だ」
佐伯が答える。
「三上たちは、まだ別の道を進んでるんだろ」
「……うん」
「きっと、いつか二人も帰れるさ」
透はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり立ち上がった。
「……俺たちは、どうする?」
佐伯も立ち上がる。
二人は帰還の門を見る。
すると。
門の近くに、淡い文字が浮かび上がった。
――休息。
透はその文字を見つめた。
前に来た時のことを思い出す。
あの時も。
この選択肢があった。
けれど。
あの時の自分は、それが何を意味するのか知らなかった。
佐伯も黙っている。
透は考えた。
ここで休むか。
それとも、まだ先へ進むか。
もし先へ進めば。
また、どこか知らない場所へ行くことになる。
もう一度、三上たちを探すこともできる。
けれど。
自分には帰る場所がある。
妻がいる。
娘がいる。
帰りを待っている家族がいる。
透は目を閉じた。
そして。
心の中で答えを決めた。
――休息する。
それが今の自分の選択だった。
隣を見る。
佐伯は黙って門を見ている。
透は何も言わなかった。
佐伯も何も言わない。
それぞれが、自分の中で答えを選んでいる。
しばらくして。
佐伯が小さく息を吐いた。
「……決めたか?」
透は頷いた。
「ああ」
「俺もだ」
二人は顔を見合わせた。
「……休もう」
「うん」
二人はそれぞれ、休息を選んだ。
すると。
暗闇の景色がゆっくりと変わった。
静かな空間が現れる。
何もない。
ただ、二人が休むためだけの場所。
透はその場に座った。
佐伯も隣に座る。
二人はしばらく何も話さなかった。
長い旅だった。
ここまで来るまでに。
何度も逃げた。
何度も迷った。
そして。
何度も、帰ることを諦めそうになった。
透は目を閉じた。
今だけは。
何も考えなくていい。
そう思った。
どれくらい休んだのか分からない。
目を開ける。
身体が少し軽くなっていた。
佐伯も目を覚ます。
「……戻るか」
佐伯が言った。
「ああ」
二人は立ち上がった。
休息を終えた二人は。
来た道を戻るように、暗闇の中を歩いていく。
やがて。
前方に青白い光が見えた。
帰還の門だった。
二人は門の前で立ち止まった。
透は一度だけ振り返った。
暗闇の向こうには、三上と宮本がいる。
「……きっと、あの二人も帰れるよな」
佐伯が答える。
「ああ」
少し間を置いて。
「きっとな」
透は頷いた。
「じゃあ……帰ろう」
「ああ」
二人は並んで、帰還の門をくぐった。
青白い光が身体を包む。
暗闇が遠ざかっていく。
透は目を閉じた。
妻の顔。
娘の顔。
帰りたかった場所。
そして。
隣にいる佐伯。
今度は。
二人一緒に。
帰る。
光が強くなった。
そして――
二人の姿は、暗闇の中から消えた。
終章 The My Home
1年後。
夜の街に、居酒屋の明かりが並んでいた。
その一軒の店の奥。
透と佐伯は、向かい合って座っていた。
「いやあ……久しぶりだな」
佐伯がグラスを持ち上げる。
「そうだな」
透もグラスを合わせた。
カンッ。
二人は酒を飲んだ。
あの頃とは違う。
明るい店内。
人の話し声。
料理の匂い。
当たり前の日常。
透は店内を見回した。
「……こういう場所に普通に来られるって、なんか不思議だな」
「何が?」
「いや」
透は笑った。
「昔は、こんな普通のことができなくなるなんて思ってなかったからさ」
佐伯も笑う。
「確かにな」
「覚えてるか?」
「何を?」
「最初の黄色い部屋」
「ああ」
佐伯は笑った。
「お前、あそこでずっと出口探してただろ」
「だって、出られると思ってたんだよ」
「俺なんか最初から無理だと思ってた」
「嘘つけ」
二人は笑った。
「そのあと電気の施設に行って」
「オフィスにも行ったな」
「ホテルも」
「ボイラー室も」
佐伯が少し黙った。
「……あそこは、もう二度と行きたくないな」
「俺も」
二人は顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
「深海もあったな」
「あったあった」
「水の中なのに息できたの、今考えても意味分からないよな」
「それ言ったら全部意味分からないだろ」
「確かに」
二人はまた酒を飲んだ。
しばらくして。
店の壁に置かれていたテレビから、ニュースの音が聞こえてきた。
『続いてのニュースです』
二人は何気なくテレビを見る。
『本日、大学の研究チームが――』
画面に、二人の男性が映った。
透が箸を止める。
「……ん?」
佐伯もテレビを見る。
「おい」
「……三上じゃん」
画面には、スーツ姿の三上と宮本が並んでいた。
その隣には、大学関係者らしき人物が立っている。
『長年にわたる研究成果が高く評価され、今回、国から表彰されました』
画面の下に、二人の名前が表示される。
透はしばらくテレビを見つめた。
「……またかよ」
佐伯が笑う。
「まただな」
「こいつら、何回賞もらってんだよ」
「大学の時からずっと研究してるらしいぞ」
「真面目すぎるだろ」
二人は笑った。
テレビの中では、三上が何か話している。
宮本も隣で笑っている。
透はその姿を見ながら、少しだけ安心した。
「……元気そうだな」
「ああ」
「ちゃんと帰ってきたんだな」
佐伯が頷く。
「俺たちもだけどな」
透はグラスを持ち上げた。
「じゃあ」
佐伯もグラスを持つ。
「乾杯するか」
「何に?」
透は少し考えた。
そして。
「……生還に」
「それ、今さらだろ」
「それに乾杯の時毎回それ」
「いいじゃん」
「まあな」
二人のグラスが、もう一度ぶつかった。
カンッ。
テレビからは、まだニュースの声が聞こえている。
あの場所で過ごした時間は。
今では、遠い昔の出来事になっていた。
黄色い部屋。
暗い通路。
ホテル。
深い海。
無数の場所。
帰還の門。
そして。
そこを一緒に歩いた仲間たち。
すべてが、夢だったようにも思える。
けれど。
向かいに座る佐伯がいる。
それだけで。
あの旅が、本当にあったことだと分かる。
「……なあ、透」
「ん?」
「またいつか、あの頃の話しようぜ」
透は笑った。
「今してるだろ」
「ああ」
佐伯も笑った。
「じゃあ、もう一杯だけ」
「飲みすぎんなよ」
「お前もな」
二人は笑いながら、グラスを傾けた。
テレビでは。
また三上と宮本のニュースが流れている。
店の中には。
いつもの夜が流れていた。
もう、何も起こらない。
ただ。
あの日々を知っている二人だけが。




