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『夜祓衆 ― 見ると増える呪いの記録 ―』  作者: こうた
第一部 江戸編 第一章 供物の村

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第一話 久奈志村

 山の村というものは、静かなものだと聞いていた。


 だが、久奈志村には――“無い音”があった。


 虫の声がしない。


 風の音がしない。


 鳥の鳴き声すら、山の途中で途切れていた。


 馬を引く伊吹新十郎は、ぬかるんだ山道を見下ろしながら、知らず手綱を握り直した。


 晩秋。


 日はまだ沈んでいないはずだったが、山の中は妙に暗い。


 木々が深いせいだけではない。


 空気そのものが重かった。


 湿った土の匂いに混じって、古い木が腐る匂いが鼻につく。


 その臭気の奥に、かすかに線香のような香りが混じっていた。


「……妙な山だな」


 独り言は、木々に吸われた。


 返ってくる音が無い。


 新十郎は眉をひそめた。


 ここ数年、代官所付きの下役として各地を巡ってきたが、これほど“音の無い山”は初めてだった。


 今回の役目は単純なものだ。


 久奈志村という山村で、年貢帳簿と人口記録に不自然な差異が出ている。


 さらに、前年に派遣された役人が消息を絶った。


 その確認。


 ただそれだけだった。


 もっとも。


 代官所の連中が誰もこの仕事を引き受けたがらなかった時点で、新十郎は嫌な予感を覚えていた。


『あの村には行くな』


 酒の席で年寄り役人が漏らした言葉を思い出す。


 理由を聞いても、皆、口を閉ざした。


 冗談めかして笑う者すらいなかった。


 ただ一人、古株の書役だけがこう言った。


『夜になったら、上を見るな』


 意味を聞く前に、男は黙って酒を飲み干した。


 その顔色だけが、妙に悪かった。


 新十郎は息を吐いた。


「馬鹿馬鹿しい……」


 そう呟いた瞬間だった。


 前を歩いていた馬が、突然足を止めた。


「……どうした」


 鼻を鳴らし、馬が怯えたように後ずさる。


 耳が立っていた。


 何かを警戒している。


 新十郎は周囲を見回した。


 木々。


 霧。


 濡れた岩。


 何もいない。


 だが。


 気配だけがあった。


 見られている。


 山全体に、どこか遠くから覗かれているような感覚。


 新十郎は腰の脇差に手を置いた。


 その時。


 ――コン。


 頭上で音がした。


 新十郎は反射的に顔を上げる。


 枝。


 霧。


 揺れる葉。


 何もいない。


 だが、今の音は。


 まるで。


 木の“上”を誰かが歩いたような音だった。


 馬が低く嘶いた。


「……行くぞ」


 自分に言い聞かせるように、新十郎は再び歩き出した。


 山道を抜けるまで、あと少しだった。


 やがて霧の奥に、村が見えた。


 久奈志村。


 山肌にへばりつくように建つ、小さな集落だった。


 藁葺き屋根が十数。


 畑は痩せ、柵は古い。


 村を囲うように、異様に高い木々が立っている。


 まるで外界から隠すように。


 いや。


 閉じ込めるように。


 村口には誰もいなかった。


 普通なら、よそ者が来れば子供が覗きに来る。


 犬が吠える。


 女たちが遠巻きに見る。


 だがこの村は違った。


 静かだった。


 死人の村のように。


 新十郎は村へ足を踏み入れた。


 その瞬間。


 家々の障子が、一斉に閉じられた。


 ぴしゃり。


 ぴしゃり。


 ぴしゃり。


 音だけが続く。


 姿は見えない。


 だが誰かがいる。


 見ている。


 新十郎は不快感を押し殺しながら歩いた。


 やがて、一軒の家の前で老人が待っていた。


 異様に痩せた男だった。


 頬が落ち窪み、肌が蝋のように白い。


 そして。


 男は新十郎を見ていなかった。


 もっと上を見ていた。


 新十郎の頭の少し上。


 まるでその辺りに誰か立っているように。


「……代官所の方で」


 新十郎が口を開くと、老人はゆっくり視線を下げた。


「ああ……お役人様か」


 声が掠れていた。


「村長か」


「庄屋でございます」


「伊吹新十郎だ。記録確認に来た」


「……左様で」


 庄屋は小さく頷いた。


 だがその目は、また新十郎の肩越しを見ている。


 落ち着かない。


「前任の役人について聞きたい」


 その言葉で、庄屋の顔が止まった。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ。


 恐怖の色が浮かんだ。


 だがすぐに消える。


「……山で遭難されたのでしょう」


「捜索は」


「いたしました」


「見つからなかった?」


「ええ」


 短い。


 それ以上語りたくないのが露骨だった。


 新十郎は小さく息を吐いた。


「今夜、泊まれる家を借りたい」


「用意しております」


 庄屋はゆっくり歩き出した。


 新十郎はその後を追う。


 村の中は暗かった。


 まだ夕方のはずなのに、どの家も戸を閉めている。


 妙だった。


 そして何より。


 誰も喋らない。


 子供の声が無い。


 笑い声が無い。


 生活音が無い。


 ただ。


 時折。


 ギシ、と。


 どこか高い場所で木が軋む音だけがする。


 新十郎は顔を上げかけ――やめた。


 理由は分からない。


 だが、妙に嫌な予感がした。


 庄屋が立ち止まる。


「こちらを」


 古い空き家だった。


 壁は黒ずみ、柱は湿っている。


 だが奇妙なことに、天井だけが新しかった。


 まるで最近張り替えたように。


「……ここは?」


「前任の方も、こちらへ」


 新十郎は天井を見た。


 板が妙に歪んでいる。


 いや。


 違う。


 板の上に、何かの跡がある。


 泥?


 足跡?


 しかも。


 逆向きだった。


 まるで。


 天井を歩いた人間の足跡みたいに。


 新十郎の喉が鳴った。


「……庄屋」


「はい」


「この跡は何だ」


 庄屋は答えなかった。


 いや。


 答える代わりに。


 ゆっくり。


 天井を見上げた。


 新十郎もつられて視線を上げる。


 その瞬間。


 ――ギシ。


 真上で、音がした。


 天井板が、わずかに沈んでいた。


 何かが。


 乗っているように。


 新十郎は凍りついた。


 庄屋が小さく言った。


「夜になったら」


 掠れた声。


「上を見ないでください」


 その直後。


 天井の上を。


 何かが、ゆっくり歩いた。

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