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気ままなモラトリアム


「たぁぁぁっ!」


小鳥のさえずりをかき消すような、野太い裂帛の気合い。

次いで、空気を切り裂く木剣の風切り音と、バシィッという鈍い打撃音が中庭に響き渡った。


「はぁ……はぁ……っ! どうだ、ジズ! 今の踏み込み、エド兄の動きを少し取り入れてみたんだが!」


額から滝のような汗を流し、息を切らしながら俺に笑いかけてくるのは、次兄のライオネルだ。

太陽はまだ高く昇りきっていない朝の空気の中、こいつは夜明け前からずっとここで木剣を振り回しているらしい。本当に無尽蔵の体力だ。


「うん、すごいすごい。踏み込みの速度は上がった気がするよ。でも、右肩が下がる癖がそのままだから、次にどこへ打ち込んでくるか丸わかりだけどね」


俺は大きな欠伸を一つ噛み殺しながら、手にした木剣をだらんと下げた。

寝起きの緩い部屋着のまま、成り行きでライオ兄の打ち込み稽古に付き合わされているのだが、正直もう帰って二度寝したい。


「なっ……マジか! 自分じゃ全然わからなかったぞ……」


ライオネルは悔しそうに自分の右肩をさすっている。

俺からすれば、なぜ気付かないのかが不思議なくらいだ。ライオ兄が踏み込む直前、足の筋肉の収縮と同時に必ず右肩が数ミリ沈む。その予備動作を見れば、剣が上段から来るか下段から来るか、なんとなくわかってしまう。だから、俺はただ剣が来ない場所にひょいっと体をずらしているだけだ。


「よし、もう一本だ! 今度は絶対に癖を抑え込んでみせる!」

「えー……俺、もうお腹空いたんだけど。朝ごはん食べたい」

「泣き言を言うな! 男爵家の男児たるもの、朝の鍛錬は日課だぞ!」


熱血漢の次兄に腕を引っ張られ、俺は「へーい」と気の抜けた返事をしながら再び木剣を構え直した。

王都での武闘大会から帰還して数日。エドワードが不在となったロドウェル領は、以前と変わらない、良くも悪くも退屈で平和な日常を取り戻していた。


長兄という巨大な目標が王都に残ったことで、ライオネルの修練にはさらに拍車がかかっている。彼は本気で、エドワードの『第一の騎士』になるつもりなのだ。


小一時間ほどライオネルの猛特訓に付き合い(ほとんど避けていただけだが)、ようやく解放された俺は、井戸水で顔を洗ってから屋敷の食堂へ向かった。


遅めの朝食である焼きたてのパンとスープを胃に流し込み、食後の果実水を飲みながらテラスへ出ると、母・マリエルが心地よい日差しの中で本を読んでいた。


「おはよう、ジズ。今朝もライオの特訓に付き合わされていたの?」

「おはよう、母さん。付き合わされたっていうか、捕まったっていうか。あの体力お化け、どうにかしてよ」


俺が苦笑いしながら向かいの椅子に腰掛けると、母さんはふふっと上品に笑って栞を挟んだ。


「あら、良いことじゃない。ジズも少しは体を鍛えておかないと、いざという時に逃げ遅れるわよ」

「俺は逃げ足の速さには自信があるから大丈夫」


そんな軽口を叩きながら、俺もテラスのテーブルに積まれていた本の中から一冊を手に取った。隣国カスティア帝国の歴史書だ。最近、なぜかこういうきな臭い国の動向が気になって仕方ない。これも俺の嫌な勘の一つなのだろうが、今は深く考えないことにしている。


「ジズ様、奥様。お茶のお代わりはいかがですか?」


控えめな声とともに、メイドのアンナがティーポットを持って現れた。この屋敷には、男爵家とはいえ数えるほどしか使用人がいない。アンナはその一人で、領内の村から出稼ぎに来ている素朴な娘だ。


「あ、ありがとうアンナ。……あれ、ちゃんと寝てる?」


俺が何気なく尋ねると、アンナはビクッと肩を揺らし、慌てて目元を隠した。


「えっ!? あ、いえ、その……昨晩、少し妹から手紙が届きまして、つい夜更かしを……」

「ふーん。妹さん、風邪でも引いた? 心配なら、休み取れば?」

「っ……! な、なぜそれを……!?」


アンナは目を丸くして驚いている。

なぜって言われても、アンナの爪には緑色の付着物が少し付いており、掌にはインクが少し染みついて、焦燥感からくる微かな汗の匂いを感じたからだ。「妹の手紙」というキーワードと組み合わせれば、誰でも病気や怪我の看報を連想するだろう。


「別に、なんとなく。母さん、アンナに三日ほど休みあげたら?」

「ええ、もちろんよ。アンナ、家のことは私とマーサでやっておくから、妹さんを看病してあげなさい」

「お、奥様……ジズ様……っ。ありがとうございます……!」


アンナは深く頭を下げ、足早に去っていった。

それを見送った母さんは、再び本を開きながらポツリとこぼした。


「ジズは、本当に周りがよく見えているわね」

「そう? ただお節介焼いただけだよ」


俺は歴史書のページをめくりながら、曖昧に濁した。


「……ジズは、将来どうしたいの?」


不意に、母さんが静かなトーンで尋ねてきた。


男爵家の三男。

それは、貴族社会において最も宙に浮いた存在だ。長男が家を継ぎ、次男が武官や文官として家を支えるのが通例。三男以降は、どこかの家に婿養子に入るか、あるいは僅かな仕送りをもらって家を出て、騎士や商人、学者として独立しなければならない。エドワードが正式に家督を継げば、俺はこの居心地の良いロドウェル家を出ていく運命にある。


「うーん……そうだなぁ。色んな街を見るのは嫌いじゃないから、商人かなぁ。母さんの実家のベンサム商会にでも潜り込もうかな」

「それも良いわね。あなたなら、きっと優秀な商人になるわ」

「でも、商人は馬車の移動が多いからなぁ……俺、お尻痛くなるの嫌いだし」


俺がぼやくと、母さんはクスクスと声を出して笑った。


「焦ることはないわ。まだ時間はあるのだから、ゆっくり色々なことを見て、自分の進む道を探しなさい」


母さんの優しい声に、俺は「うん」とだけ短く返事をした。


明確な目標に向かって一直線に突き進む兄たちに比べて、俺はなんて空っぽなんだろうと思う時はある。でも、この何にでもなれるような、何者でもないモラトリアムの時間は、嫌いじゃなかった。

しばらく読書を楽しんでいると、屋敷の奥からドタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。


「ジズ! ジズはおらんか!!」


血相を変えてテラスに飛び込んできたのは、父・バルトロだった。その後ろには、いつも通り涼しい顔をした事務官のクルードが、山のような書類を抱えてピタリと張り付いている。


「うわっ、父さん。どうしたの、そんなに慌てて」

「た、頼むジズ! 助けてくれぇぇ!」


父上は俺の足元に縋り付かんばかりの勢いで泣きついてきた。領主の威厳など欠片もない。


「旦那様。泣き言を仰っていないで、早くこちらの『秋の収穫予測に基づいた隣領への塩の輸出交渉に関する書類』と、『来年度の領軍の武具修繕費の予算案』の決裁をお願いいたします。明日までに返書を出さねばなりません」

「わ、わかっとる! わかっとるが……数字がいっぱい並んでいて、頭が痛いのだ! ジズ! お前、こういうの得意だろう!? 頼む、少しでいいから手伝ってくれ!」


俺は深い、深いため息をついた。

父上は実直で領民想いの素晴らしい領主だが、いかんせん事務仕事、特に数字が絡む計算や複雑な交渉事には絶望的に向いていない。


「……はぁ。わかったよ、見せて」


俺は本を置き、クルードから書類の一部を受け取った。

ざっと目を通す。塩の輸出量、隣領の市場価格の推移、運送費、そして天候予測。


「父さん、これ数字間違ってるよ。隣の領地、先月大きな雨が降って街道の一部がぬかるんでるはずでしょ? 馬車の車輪が傷むから運送費の経費は二割増しで見積もらないと。それに、あっちの領主はケチだから、最初は高めの値段を吹っかけておいて、後から『関税分をこちらで負担する』って形で恩を売った方が、結果的に高く売れるよ」


俺がスラスラと書類に赤字を入れていくと、父上はポカーンと口を開けた。

傍らに立つクルードの瞳が、またしても「このお方こそ次期領主に……」という危険な光を帯びてキラリと光ったのを、俺は気づかないフリをした。


「お、おお……! そういうことか! さすがジズだ、助かったぞ!」

「ただの算数と、ちょっとした勘だよ。あとはクルードと頑張ってね。俺、散歩行ってくるから」


これ以上仕事を押し付けられてはたまらない。俺は赤字を入れた書類を父上に押し付け、逃げるようにテラスから立ち上がった。


「あ! こら待てジズ! まだ予算案の計算が……!」という父上の悲鳴と、「旦那様、現実逃避はそこまでです」というクルードの冷酷な声が背後から聞こえたが、俺は足早に屋敷を出た。


 * * *


屋敷の門を抜け、領都(といっても大きめの街くらいの規模だが)の通りを歩く。

王都のようなどこか冷たい喧騒とは違い、ロドウェル領の街並みには土の匂いと人々の生活の温もりが満ちている。


「あ! ジズ様だ! こんにちは!」


路地裏から駆け出してきた子供たちが、俺を見つけて元気に手を振ってきた。


「おう、お前、あんまり走るとそこの石で転ぶぞ」


俺が指をさした直後、先頭を走っていた少年が「わっ!」と見事にその石につまずき、ド派手に転んだ。


「ほら言わんこっちゃない。大丈夫か?」

「へへっ、平気だよ! ジズ様、すげーな! なんで転ぶってわかったの?」

「そりゃ、お前が前見ないで走ってるからだよ。怪我ないなら遊んで来い」


子供たちの頭を適当に撫でてやりながら、俺はさらに通りを進む。

男爵家の人間が護衛もつけずに一人でフラフラ歩いているというのに、領民たちは誰も驚かない。むしろ、すれ違うたびに親しげに声をかけてくる。


「おう、ジズ様! こないだは世話になったな! おかげでカミさんに大目玉食らわずに済んだよ!」


香ばしい匂いを漂わせるパン屋の前を通りかかると、大柄な親父――エドワードの優勝祝いの夜、ドブに突っ込みそうになっていた酔っ払いのおっさんが、顔を真っ赤にして焼きたてのパンを差し出してきた。


「ほんとだよ。……お、これ新作? もらうわ」

「へへっ、干し肉とチーズを包んでみたんだ。兄貴の優勝祝いの残りの肉でな! 遠慮なく食ってくれ!」


ほかほかのパンを受け取り、一口かじる。肉の塩気とチーズのコクが絶妙で、なかなかに美味い。


「美味しいね。これ、もう少し胡椒効かせたら、酒のつまみとして男連中にもっと売れるかもよ」

「おおっ! なるほど、そりゃいいな! さすがジズ様だ、勘が鋭い!」


親父の豪快な笑い声を聞きながら、俺はパンを片手にさらに街を練り歩く。

肉屋の若旦那と狩りの話をし、八百屋の婆さんの愚痴を聞き、時折、屋台の食べ物をひょいっとつまむ。


俺は、この何気ない時間が好きだった。

剣を振るう責任もなく、領地を治める責任もない。ただフラフラと歩き回り、色々な人の日常の欠片に触れる。誰かに少しだけアドバイスをして、また歩き出す。


「……平和だなぁ」


街のはずれ、領地全体を見渡せる小高い丘に登り、俺は一つ伸びをした。

眼下には、オレンジ色に染まり始めた夕陽に照らされるロドウェル領の街並みと、その向こうに広がる豊かな農地が見える。


エドワードが継ぎ、ライオネルが守るべき、この美しい領地。

いつか俺は、ここを出ていかなければならない。

商人になるのか、学者になるのか、それともどこかの家の婿になるのか。自分の将来はまだ、霧がかかったように何も見えない。


(……まあ、いっか。今はまだ、この平和な時間を楽しめばいい)


俺は残りのパンを口に放り込み、ゆっくりと屋敷への帰路についた。

この穏やかな日常が、いつまでも続くことを信じて疑わずに。

――あるいは、自分の『勘』が時折告げる不穏な警鐘から、ただ目を逸らしたままで。






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