第8話 聖女エリスの暴走
国境会談から、まだ数日しか経っていない。
なのに、世界は前よりきしんでいる気がした。
大聖堂奥の聖女控え室。レース飾りの鏡に映る自分の顔だけが、強張っている。
「……また、レイチェル様の話」
聖女回廊を掃除する侍女たちの声が、窓の外からかすかに届く。
「魔物が増えたのも税が重いのも、公爵令嬢様がいなくなったせいだってさ。国境会談でも敵国で堂々としてたとか……」
「違う……」
つぶやくと、心臓が早鐘を打った。
会談の光景が、頭から離れない。
ヴァレンティアの紋章入りのマントを翻して現れたレイチェル様。少しも怯えず、王族みたいに静かに微笑んでいた。
『本当に……戻る気はないのか?』
あのときの殿下の声は、わたしが知っているどの声とも違っていた。苦しそうで必死で、優しかった。
「殿下は、わたしの味方のはずなのに」
「殿下を奪ったのは、あの人なのに……悪者にしたのも、全部レイチェル様なのに」
全部が全部あの人のせいじゃないと分かっていても、そう思っていないと壊れてしまいそうだった。
控えめなノックの音がした。
「聖女エリス様、よろしいですかな」
大司教グレゴールの低い声だ。
「どうぞ」
彼は重いローブを翻して入ってくると、わたしの顔色を見て眉を寄せた。
「お疲れのようだ。国境会談は、それほど堪えましたか」
「……少し、考え事をしていただけです」
「あなたは、よく頑張っておられる。だが世界の傷は、まだ深い」
「世界の……傷」
「十年前の戦の爪痕も、魔物の増加も。あなたがどれだけ祈っても、今のやり方では追いつかぬ。世界が求めるものが、それ以上に重いのです」
「では……どうすれば」
「簡単なことです」
グレゴールは、慈父めいた笑みで手を差し出す。
「女神と我らは、新たな儀式を用意しました。聖女の加護を増幅し、この国と世界を救う儀式を」
「増幅……?」
「ええ。あなたの光をもっと遠くへ、もっと強く。成功すれば、魔物は退き、民は救われ、王太子殿下も、あなたを真の聖女として讃えるでしょう」
殿下がわたしだけを見て微笑む光景が浮かぶ。隣に立つのはレイチェル様ではなく、わたし。
「そんなことが、本当にできるんですか」
「できますとも。女神があなたを選ばれた。それが証です」
その目の奥に、冷たい光が走った気がした。けれど、見なかったふりをする。
「……わたしが、その儀式を受ければ、皆が救われるんですね」
「はい。あなたさえ決意してくだされば」
胸の中の何かがカチリと音を立てた。
「分かりました。やります。その儀式」
口にした瞬間、喉の奥にひやりとしたものが絡みつく。
でも、大司教たちの満足そうな笑みを見てしまったら、もう引き返せなかった。
◇
地下へ向かう階段は、ひんやりと湿っていた。
蝋燭と魔導灯の明かりだけが、石壁をぼんやりと照らしている。
禁域・地下聖堂。床いっぱいに刻まれた巨大な魔法陣が、淡く光を帯びていた。
中央の白い台座に立たされ、私は特別製の礼拝衣とローブを身にまとう。
周囲には魔力増幅用の柱。その外側を、大司教と高位神官たちが囲んでいた。
「本当に、この規模で……?」
若い司祭ヨアヒムが、不安げに眉をひそめる。
「準備期間が短すぎます。世界にかかる負荷の再計算を――」
「ヨアヒム。女神の意志を疑うのかね」
グレゴールの声が、一瞬で温度を失う。
「わ、私はただ、聖女様のお体が心配で……」
「大丈夫ですよ、ヨアヒムさん」
自分でも驚くほど明るい声が出た。
「わたしなら大丈夫です。だって、聖女ですから」
自分に言い聞かせるように笑うと、ヨアヒムは悲しそうに目を伏せた。
「……どうか、ご無事で」
その小さな祈りは、儀式開始の鐘にかき消される。
◇
「これより、聖女加護増幅の儀を始める」
グレゴールの詠唱が響いた瞬間、魔法陣の線が一斉に輝き出した。
増幅柱が唸りを上げ、光の輪が足元からせり上がる。
両手を掲げると、体の中心から何かが無理やり引きずり出された。
「っ……!」
痛い。心臓を掴まれて引き裂かれるみたいに痛い。
「もっとです、聖女様。女神の光を解き放ちなさい」
増幅柱から、さらに強い魔力が流れ込んでくる。熱くて、苦しい。
「ま、待って……こんなに、一度に……!」
「あなたならできる。あなたしかできない」
甘い声が、鎖のように絡みつく。
視界が白く塗りつぶされた。
足元の魔法陣がきしみ、ひび割れる。光が床から噴き上がり、頭の中に知らない景色が雪崩れ込む。
暗い森。裂けた空。どこかの村が黒い霧に飲まれていく。
「やだ、やめて……こんなの、望んでない……!」
これが本当に世界を救う力なのか。
返事の代わりに、耳の奥でパキンと何かが割れる音がした。
次の瞬間、光は浄化ではなく破壊になった。
魔法陣の外周が爆ぜ、増幅柱が折れ曲がる。天井を突き破った光の柱が、地上へと噴き上がった。
「……殿下……」
呼ぼうとした名前は、喉で溶ける。
世界が反転し、境界が溶けていく。
裂け目の向こうで、角と牙を持つ巨大な影がこちらを振り返った。それがいくつも、亀裂から溢れ出している。
ああ、間違えたのだろうか。
それでも、殿下はきっと言ってくれる。
聖女であるあなたは悪くない、と。
そんな都合のいい期待を、最後まで捨てられないまま、わたしの意識は砕けた光の底へ沈んでいった。
地上ではその頃、グランベルト全土から魔物被害の報告が雪崩れ込み、エドワードが蒼白な顔で命じていた。
「……ヴァレンティアへの救援要請を、検討せよ」
レイチェルのいる国の名が出た瞬間、エリスの暴走は一国では手に負えない災厄なのだと、誰もが悟った。
第8話まで読んでくださってありがとうございます!
今回はレイチェル視点から離れて、聖女エリス側の「転落の第一歩」回でした。
「殿下はわたしの味方のはずなのに」から始まって、
グレゴール大司教の甘い言葉、危うすぎる増幅の儀式、
そして――救いのはずの光が、一気に災厄へ反転するところまで一気に駆け抜けました。
この一件で、
グランベルト単独ではもう手に負えないレベルの大惨事発生
それでも「自分は悪くない」と信じていたいエリス
ついにエドワードの口から出る「ヴァレンティア」の名
と、物語は一段階ギアを上げていきます。
ここから先は、
「国ごと救う羽目」に正式に巻き込まれていくレイチェル&ユリウス陣営 vs 聖女システムの闇が、本格的にぶつかっていく予定です。
もし少しでも
「エリス、やらかしたな……」
「ここでレイチェル呼ばなきゃ詰んでない?」
「続き早く見せて!!」
と思っていただけましたら、
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「レイチェルの本気」「ユリウスとの距離感の変化」「エドワード&エリス陣営の行く末」
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よければ、レイチェルが本当に「国ごと救う」その瞬間まで、
これからもお付き合いいただけると嬉しいです!




