第5話 グランベルトのきしみ始めた日常
レイチェルを断罪し、国外追放にしてから、どれくらい時間が経っただろう。
机の上に積み上がった書類の山を見下ろしながら、僕は心の中で小さくため息をついた。
「殿下、こちらが今年度の税収報告にございます」
宰相代理の男が、さらに一束、書類を置いていく。紙束の重みで机がきしんだ気さえした。
「……昨年より、また減っているな」
「はっ。ですが、いずれ聖女様の加護が強まれば、豊穣も戻りましょう」
便利な言葉だ、と僕は思う。
何かと言えば「聖女の加護」。それにすがって、目の前の数字から目を逸らしている。
かつては、ここにレイチェルがいた。
「まず支出を整理なさいませ、殿下。不要な宴と無駄な行幸の削減からですわ」
きっぱりと言い切る彼女の横顔を、ふと思い出す。
書類の並べ方から予備費の積み方まで、彼女は嫌になるほど手際がよかった。
……もういない。僕の判断で、彼女を切り捨てたのだ。
「殿下?」
「ああ、いや。続きの説明を」
数字の列が視界の中で滲む。
農村からの報告、都市からの苦情、治安悪化の噂。どれも少しずつ、確実に悪い方向へ傾いていた。
それでも僕は、口ではこう言うしかない。
「大丈夫だ。聖女エリスがいる。僕たちは、女神の加護を受けているのだから」
◇
大聖堂の礼拝堂は、いつも通り眩しいほど白かった。
ステンドグラスから差し込む光の中、エリスは主祭壇の前で祈りを捧げている。
細い肩が、僅かに震えているように見えた。
「殿下」
祈りを終えたエリスが、そっと振り向く。
栗色の髪が揺れて、涙で潤んだ瞳が僕を見る。
「今日もお疲れさまです。……顔色、あまり良くありません」
「君こそ。加護の儀式が続いているだろう? 無理をしていないか」
僕がそう言うと、エリスはかすかに唇を噛んだ。
「……無理なんて、していません。ただ、思うように光が届かないだけで」
「届かない?」
彼女は一歩、僕に近づいた。
「魔物の被害が増えていると、あちこちから報告が来ます。わたし、こんなに祈っているのに……。みんな『聖女様の光が足りないからだ』って、そう言うんです」
かすれた声には、不安と苛立ちが混ざっていた。
「そんなことはない。君はよくやっている」
僕が言うと、エリスは一瞬だけ、ほっとしたような顔をする。
けれど次の瞬間、その瞳の奥に暗い影がよぎった。
「……レイチェル様がいた頃は、こんなこと、なかったのでしょうね」
胸の奥がちくりと痛む。
「彼女の名前を出す必要はない」
「だって、皆そう言うんです。『公爵令嬢様がいなくなってから運が悪くなった』とか、『税も集まらない』とか……。
全部、わたしのせいみたいに」
それは違う、と言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。
本当に違うと言い切れる自信が、なかったからだ。
エリスはぐっと拳を握りしめる。
「悪いのは、あの人でしょう?わたしをいじめて、殿下との婚約を邪魔して、挙げ句に国を裏切って敵国に行った……全部、レイチェル様のせいなんです」
その叫びには、涙と怒りと、そしてどこか子どものような幼さが混ざっていた。
僕は、彼女の肩にそっと手を置く。
「もういい。君は聖女だ。誰も君を責めることはできない」
「……本当に?」
「もちろんだ。僕が守る」
その言葉に、エリスはかろうじて笑みを取り戻した。
しかし僕の胸の奥の違和感は、消えないままだった。
◇
「ヴァレンティアが怪しい動きを見せております」
軍務会議の席で、将軍のひとりが声を張り上げた。
「最近、国境沿いの砦に兵を集めている様子。情報によれば、あの国、第2王子ユリウス殿下が主導しているとか」
ユリウス。
例の卒業パーティーの場で、観客席の奥からこちらを見ていた黒髪の青年の姿が脳裏をよぎる。
「彼らは、我が国の混乱を好機と見ているのでしょう。聖女様を得た我が国に嫉妬し、揺さぶりをかけているに違いありません」
将軍の言葉に、数人の貴族がうなずいた。
「それもこれも、あの公爵令嬢が情報を持って逃げたからだ」
「そうですとも。アルノー家が握っていた財務と軍事の機密が、今や敵国の手にある。
聖女様の加護が届きにくいのも、あの女が呪詛でも掛けているからでは?」
言いたい放題だ、と内心で眉をひそめる。
だが、彼らの言葉は国王や一部の重臣にとって、耳触りの良い「原因」に違いない。
「殿下」
耳元で、老伯爵が囁いた。
「あとは、簡単なことでございます。ヴァレンティアに対し、元王太子妃候補レイチェル・アルノーの身柄引き渡しを正式に要求なさればよろしい」
「身柄引き渡し……?」
「ええ。あの女を処罰し、『聖女と王太子の前にひざまずかせる』。それこそが、女神と民衆に対する何よりの示威となりましょう。もし敵国が拒めば、その時こそ、剣を抜く大義名分が立つのです」
会議室の空気がざわめく。
戦争を望む者の目が、一斉に輝きを増した。
戦う理由が欲しいだけだ。
本当の問題から目を逸らし、わかりやすい仮想敵に怒りを向けたいだけ。
頭では分かっている。
だが、国境の不穏、増える魔物、削れていく税収。
それらすべてが、僕の決断を急かしていた。
「エドワード」
玉座の上から、父王が僕の名を呼ぶ。
いつもより少し疲れた声だった。
「お前はどう考える。王太子としての意見を述べよ」
部屋の視線が、一斉に僕へと集まる。
レイチェルを追放したときと同じ、あの重たい視線。
あのとき、僕は「正義」を信じていた。
今、僕が信じているのは何だろう。
唇が自然と動いていた。
「……ヴァレンティアに対し、正式に通告を。元婚約者レイチェル・アルノーの身柄の引き渡しを要求します」
その瞬間、戦場に続く扉が軋みながら開いていく音が、確かに聞こえた気がした。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます、第5話でした。
今回はエドワード視点で、王宮側の日常のほころびと、レイチェル奪還要求という物騒な一手まで描いてみました。
追放したはずの元婚約者の名が、ここにきて「戦争の大義」になってしまうあたり、彼らがどれだけ追い詰められているか、少しでも伝わっていたらうれしいです。
少しでも
「続きどうなるの」
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次回からはまたレイチェル側も絡めつつ、国と恋と戦争準備が一気に動き出します。
これからもお付き合いいただけたらうれしいです。




