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番外編 婚約破棄された悪役令嬢ですが、敵国で夜食を差し入れられました

 灰銀塔の図書フロアで、私は静かにため息をついた。


「……あと、この巻物を読めば今日は終わりですわね」


 テーブルの上には古文書の山。となりにはノートとペン。背後には、さっきから気配だけうるさい少年騎士が1人。


「レイチェル様。さっきからそれ、5回目ですよ」


 ぴくりと肩が動いた。


「何が、ですの」


「『これで最後』ってやつです。前の職場でもよく言ってました?」


「ルカ。前世の話をさらっと混ぜるのはやめなさいませ」


 そう言いながらも、図星だった。

 ブラック企業の残業と違って、今は自分の意思で資料を読んでいる。……はずなのだけれど、背中がこり始めた感覚はちょっと懐かしい。


「でももう夜中ですよ? ほら、窓の外、灯り消えてきてます」


 灰塔区の街並みが、窓の向こうでゆらゆらと暗く沈んでいく。工房街の煙突も、さすがに静かだ。


「殿下に『徹夜禁止』って言われてましたよね」


「私はまだ徹夜していません。していませんから、セーフですわ」


「それ、元社畜の危ない理論ですって」


 ルカが頬をふくらませた時、図書室の扉が軽くノックされた。


「入るぞ」


 低い声。聞き慣れた声。私は思わず背筋を伸ばす。


「殿下。こんな時間にどうされましたの」


「きみの徹夜予報を聞きに来た」


 ユリウスは、片手に包みを提げていた。もう片方の手には、見慣れた書類。


「研究所の見回りついでだ。レナが嘆いていたぞ。『レイチェルが本棚と一体化してる』って」


「所長の表現は毎回少々ひどいですわね」


「事実だろう?」


 彼は私のテーブルの本の山を一瞥し、それから包みを開いた。

 ふわりと、あたたかい香りが広がる。


「……これは?」


「空鷲市場の屋台のやつです! 鉱山シチューのパイだ!」


 ルカの目が輝いた。鍋ごと煮込んだ具を生地で包んだ、ヴァレンティア名物の手軽な夜食だ。


「読みかけのページにしおりを挟め。まずは腹ごしらえだ」


「殿下、私を子ども扱いしていません?」


「子どものように働きすぎているからな」


 さらっと失礼なことを言われた気がする。


 けれど、差し出されたパイは素直に受け取った。手の中からじんわりと熱が伝わってくる。


「星見テラスに行くぞ。ここで食べるとレナに『紙の上に汁こぼすな』って怒られる」


「それは確かに……」


 私は本を丁寧に重ね直し、席を立った。


 


 灰銀塔の7階、星見テラスは夜風が冷たい。


 けれど、魔導灯が弱く灯る床と、遠くに見えるヴァルネアの夜景は、どこか落ち着く光景だった。


「やっぱり高い所はいいですね。夜番の兵士も見えるし、なんか安心します」


「ルカは自分の仕事を増やしたいのか?」


「いえ、その、ほどほどで……」


 彼は苦笑しながらパイにかぶりついた。私も一口、そっとかじる。


 熱々の具材と、香草の香り。それから、ほんの少しの塩気。


「……おいしいですわね」


「だろう」


 ユリウスは欄干に背中を預け、空を見上げた。


「グランベルトの王都では、夜食など出たか?」


 不意の問いかけに、私は少し考える。


「夜食と言いますか、徹夜するのは基本的に使用人でしたから。私は早く寝なさい、と言う側でしたわ」


「で、自分は書類をこっそり持ち帰るタイプだろう」


「よくご存じで」


「レイチェル様、完全に想像されてますね……」


 ルカが笑う。その顔を見て、私も苦笑した。


「前の職場でも同じでした。残業するなと言われて、素直に帰る人間は少ないものですわ」


「きみは、帰らなかった側だ」


「ええ。おかげでデスクで倒れて、気づいたらこの世界でしたから」


 さらっと口から出て、自分で少し驚いた。

 前世の話を、こんなふうに夜風の中で言葉にする日が来るとは思っていなかった。


 沈黙が落ちる。風が髪をなで、テラスの端の魔導灯が小さく揺れた。


「後悔はしていないのか」


 ユリウスの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


「前世のことですか?」


「ああ。仕事に人生を食い潰されて、それでも」


「……そうですわね」


 私は空を見上げた。

 この世界の星は、前世のものより少し色が濃い気がする。


「後悔しなかった、と言ったら嘘になります。もっと早く逃げればよかった、と何度も思いました」


 だから。


「だから今は、逃げるか残るか、自分で決めたいのです。グランベルトからも、聖女システムからも、殿下からも」


「最後のは必要か?」


「とても必要ですわ」


 ユリウスがくつ、と笑う気配がした。


「いいだろう。なら俺は、きみが逃げないように条件を整える役を買って出る」


「条件、ですの?」


「まともな給料。徹夜禁止。夜食完備。あと、戦場に行く時は必ず俺かルカをつける」


「最後だけ妙に物騒ですわ」


「きみを勝手に死なせたら、グランベルト以上に世界を敵に回すことになるからな」


「世界など、そんなに簡単に敵に回りませんわよ」


「さあ、どうだかな」


 彼は、星の少ない夜空を見ながら続けた。


「少なくとも、俺にとってはそうだ。きみを再び追い詰めるものがあるなら、それは全部まとめて敵だ」


 心臓が、ずきんと鳴った。


「殿下。さらっと人を困らせることを言うのはやめてくださいませ」


「事実を述べただけだ。困るのか?」


「……困りますわ。いろいろと」


「レイチェル様、顔赤いですよ」


「ルカ。黙りなさい」


 私は慌ててパイに視線を落とした。熱で赤くなったのだと、自分に言い訳しながら。


 でも、前世の残業とは違って。

 今、夜更けのテラスでこうしているのは、誰かに強制された結果ではない。


 自分で選んで、ここにいる。


「レイチェル」


 ユリウスが、静かに私の名を呼んだ。


「きみがまた、働きすぎで倒れそうになったら」


「はい?」


「その時は、俺の前でくらい、遠慮なく倒れていい」


「殿下。人を家具みたいに言わないでくださいませ」


「ちゃんと受け止める。約束だ」


 まっすぐな視線が、夜よりも落ち着かない。


 私は、わざと軽い声を作った。


「では、その約束を破ったら、残業代を請求しますわね。前世のぶんも合わせて」


「ずいぶん高くつきそうだ」


「もちろんですわ」


 ルカが「すごい会話してるなあ」と小声で笑う。


 私は残りのパイを食べ終え、最後に夜空を仰いだ。


 婚約破棄された悪役令嬢の第2の人生は、まったく平穏とは言いがたい。

 国も世界も、きっとこれから大変なことになる。


 それでも。


「……今度は、倒れる場所くらい、自分で選びますわ」


「最初から倒れない選択肢は?」


「それは、殿下の仕事ですわね」


「やれやれ。やっぱりきみは、俺の手を焼かせる」


 けれど、その声音はどこか楽しげだった。


 灰銀塔の上の夜風は冷たい。けれど、手のひらに残るパイの温かさと、隣にいる2人のおかげで、私は前世よりずっとましな夜を過ごしている。


 そう思ったら、もう少しだけ、この世界で頑張ってみてもいいかもしれない。

本編からここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

そして番外編まで覗いてくださったあなたは、もう立派なこの作品の共犯者です。


本編では、婚約破棄から始まったレイチェルの騒がしくて少し苦い物語を書いてきましたが、今回は「世界を救った後の、ちょっとだけ静かな夜」を切り取ってみました。

派手な魔法も政治劇もお休みして、灰銀塔の屋上で夜食をつつきながら笑い合う、そんな空気が少しでも伝わっていたらうれしいです。


もしこの作品が

「ちょっとでも続きが読みたい」

「レイチェルたちのその後をもっと覗きたい」

と感じていただけるものになっていたら、

ぜひ【ブックマーク】や【評価★】で応援していただけると、とても心強いです。


ランキングに少しでも顔を出せると、新しくこの物語を見つけてくれる読者さんが増えて、作者は「じゃあ次はこんな番外編を書いてみようかな」と、ますます調子に乗ってキーボードを叩き始めます。

あなたの一押しが、そのきっかけになります。


ここまでお付き合いくださった時間が、少しでも楽しいものであったなら幸いです。

またどこかの番外編や新作で、お会いできますように。


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― 新着の感想 ―
>紙の上に汁こぼすな 毛足の長いカーペットに数日経ったチョコレートの痕を見つけた時の絶望を思い出しますわ‥ 大切な紙ものに飲みこぼしや食べこぼしがついた時のやるせなさ‥では飲食をするな、その通りなんで…
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