第152話 親子
目が覚めて、息を呑んだ。目の前に広がるのは、揺らめく虹色の光、淡い光が静かに、私の全身を照らしている。
見覚えがある。ここはさっき瓜生を助けに来た場所だ。現実とは違う精神世界なのだろう。
──パン……ッ!
小さな金属音が静かに反響する。すると、左右、後方からも同じ音が響いた。反射的に振り向いた私は、目を見開く。そこにいたのは、あの咲良だったのだ。
「咲良さん!?」
「あ、あんたはさっきの……」
咲良は混乱しているものの、私の顔に見覚えがあるようだ。
──そうだ。さっき安吾さんが私の体で戦っていたんだっけ。
私は簡単に自己紹介を済ませ、さっき咲良の前に現れたのは安吾だと伝えた。八咫烏に口寄せの術──。突拍子もない話だが、咲良は安吾の“陰の気”を間近で見たことがあるようで、納得したように頷いた。
「あれ、安吾だったんだ。見られちゃったよね。私の首が斬られるところ」
咲良は、傷を確かめるように自らの首筋をさする。
「ここ、天国?私、死んじゃったのかな」
私は慌てて彼女の肩に手を添え、早口で叫ぶ。
「咲良さんは助かりました!大丈夫。安吾さんにもちゃんと会えます」
「た、助かった?」
「はい!私の血、傷も治せるんです。嘘みたいな話ですけど、本当に」
咲良は驚いたように目を輝かせた。だが、すぐにハッと顔を強張らせる。
「ちょっと待って。私、安吾の目の前で斬られたよね?安吾のヤツ、ブチキレてなかった?」
「え、あ、えっと」
私は苦笑いで誤魔化しつつ、目を逸らす。すると、咲良の表情が途端に険しくなる。
「何?その反応?」
「え!?あ、いや」
「あの後、どうなったの?安吾とあの人は!?言って!」
グイっと詰め寄る咲良。彼女の迫力に観念した私は、ほんの少しオブラートに包みながら、ブチギレモードと化した安吾のこと、そしてそれを焔が止めたことを伝えた。
「まったく。安吾のヤツ」
咲良はそう悪態をつくが、すぐにふわりと微笑んだ。
「でも、ようやく会えたんだね、焔と」
その言葉に、私はにっこりと頷いた。咲良もずっと、安吾と焔を気にかけていたのだろう。だが、次第に咲良は押し黙り、顔を伏せる。
「咲良さん?」
「私がスタンガンを向けた時、あの人泣いてたよね。ちょっと驚いちゃった」
咲良は冷静ではあったが、母と対峙した際の抑えきれない痛みが声色に滲んでいた。私はそんな彼女の横顔を見つめながら、声をかける。
「咲良さんは、芙蓉……さんの娘なんですよね」
「そう。でも私、虐待されて逃げたの。それで、十年以上前に施設に入った。それからずっと会ってない」
「そうだったんですか……」
「そういうあんた、幸村凪でしょ?幸村藍子の孫っていう」
突然の咲良の問いに、私は驚きながらも頷く。
「お互い苦労したよね。あの二人の因縁がこんなに大事になるなんて」
咲良が呟いたその時、前方から眩い光が差し込んで来た。光の先になっていたのは、二つの人影──ヤトの親である獅童と弥子だ。弥子の腕の中では、カラスの姿となったヤトがスヤスヤと眠っていた。私は胸が高鳴るのを感じながら、思わず駆け寄る。
「ヤトパパさん!ヤトママさん!」
二人は人の姿で、穏やかな微笑みを浮かべていた。弥子はヤトを抱きしめたまま、私に語り掛ける。
「凪、ここまでよく頑張ったね。私たちの“導き”も、これでおしまい。無事に役目を果たせて良かった。私たちは、本来いるべき場所へ戻らなくては」
弥子から放たれた、“さよなら”の響き。それを感じ取った私は、一気に寂しさが込み上げる。そして、彼女がヤトを抱きしめるのを見て、ひとつの不安が胸をかすめた。
「ちょっと待って!まさか、ヤトも!?」
震える声で問いかける私。すると、獅童と弥子は目を合わせて笑った。
「ううん。ヤトはただ眠っているだけ。安心して」
弥子はそう言うと、ヤトの羽を愛おしそうに撫でた。
「ヤトが真の八咫烏になれた瞬間を、見届けられて良かった。この子は私たちの誇り。どうかこの先もたくさんの仲間に愛されて、幸せに過ごせますように」
弥子は眠るヤトの頬にそっと唇を寄せ、キスをした。そして、ヤトを私の腕に託す。
「稜馬に伝えて。ヤトをよろしくねって」
「……はい!」
私は目頭を押さえながら、力強く頷いた。すると、咲良の方に目を向けた弥子が、ふと表情を曇らせる。私もつられて咲良を見ると、彼女は苦笑いを浮かべていた。
「どうしたの?」
弥子の問いに、咲良は小さく答える。
「ううん。ちょっと羨ましいなって」
「君は、芙蓉の娘の咲良だね」
獅童の問いに咲良は静かに頷いた。場に一瞬、沈黙が落ちる。だが、咲良はあっけらかんと笑った。
「ま、ずっと会ってなかったし、今更親子っていう感じでもないしね。あの人は取り返しのつかないことをした。あの人のせいで傷付いた人たちに、どう償えばいいんだろう」
「あなたは、あなたの人生を生きればいいのよ」
間髪入れずに、弥子が言う。咲良の心を包み込むような声で。
「少なくとも、安吾はあなたを『芙蓉の娘』じゃなくて『咲良』として見てる」
その言葉に、咲良は静かに頷く。
「……うん。わかってる」
胸の奥に押し込めていた何かを吐き出すように、咲良は天を仰いで深呼吸をした。そして、無理に明るさを作るよう笑みを浮かべ、冗談めかして言った。
「まあ、あの女もこれでSPTに捕まるだろうし。最後に平手打ちくらい、してやりたい。今まで散々傷つけられてきたんだし、それくらいいいよね」
咲良はそう言って私に微笑みかける。だが、その笑顔はどこかぎこちない。笑おうとしているのに、心が追いついていないのだ。私は思わず、咲良に言葉をかけようとした。
──その時だった。
「……君はもう、桂木芙蓉には会えないよ」
低く、静かに獅童の声が響いた。咲良と私は、同時に息を呑む。
もう会えない?まさか、まさか──。
「彼女はさっき息を引き取った。魂がそう告げている」
獅童の声が響いた瞬間、咲良の表情から笑みが消えた。目は泳ぎ唇が僅かに震えている。
「まさか安吾が?」
不安げに尋ねる咲良に、弥子はゆっくりと首を振る。
「いいえ。芙蓉の体がもたなかったのよ。何度も再生を繰り返した代償は彼女にとっても大きすぎた」
咲良は黙って頷いた。ひとつ、ふたつ。何度も何度も、現実を受け止めるように。気付くと、彼女の瞳はうっすらと涙が滲んでいた。
「ばっかみたい。散々人を傷付けて、最期は呆気なく死ぬなんて。みんなの気持ち考えろよ。謝れよ、今までのこと。全部、謝ってからにしろよ。こっちはどれだけ、傷付いてきたと思ってんだよ」
咲良の目から、涙がこぼれ落ちる。淡々と、それでも堰を切ったように、止まらなかった。弥子はそんな咲良を見て、静かに口を開いた。
「……最期に、話してみない?」
唐突な弥子の言葉に、咲良は顔を上げる。
「え?」
「私たち、八咫烏は魂を憑依させることができる。芙蓉の魂も、呼び寄せられるわ」
──芙蓉と……話す?
「もしかしたら、傷付いて終わるだけかもしれない。話さなければ良かったと思うかもしれない。それでも後悔したくないなら、これから先、真っ直ぐ生きていくために、あなたにとって、一番いい選択をしなさい」
弥子の言葉に、咲良は黙り込んだ。やがて、ぽつりと呟く。
「今更、話なんて……」
咲良は落ち着かない様子で、何度も瞬きを繰り返していた。
その姿から感じるのは、彼女の迷いと不安。
私は少し躊躇った後で咲良のそばへ寄り、その手に触れる。
「咲良さん。私さっき、過去に行っておばあちゃんに会ってきたんです」
咲良がゆっくりと顔を上げ、私を見つめる。
「私が知っているおばあちゃんは、いつも毅然としていて、優しくて、強くて。でも、さっき会ったおばあちゃんは涙を流して、辛そうだった。私、知らなかったんです。おばあちゃんが何年もずっとずっとひとりで、あんなに深く苦しんできたこと」
私は話しながら、さっきのおばあちゃんとのやり取りを思い返していた。おばあちゃんの苦悩をすべて理解することはできない。その痛みを消すことも、過去を変えることもできない。それでも──。
「それでも、さっき自分なりの言葉を、おばあちゃんに伝えることができました。何かを変えたわけじゃないけど、伝えられたことに意味があるって思えたんです」
私は少しだけ声を落とし、問いかけるように続ける。
「咲良さんも、お母さんに会って確かめたいこと、伝えたいことがあるんじゃないですか?もしそうなら、きっと今がそれができる最後のチャンスです」
僅かな静寂。
淡い光が揺らめく中、咲良は私に向き直り、大きく息を吸った。
そして……。
──パチン!
「あいた!」
不意な咲良のデコピン。彼女の予想外の行動に、私は額を押さえて顔を上げる。すると、咲良はどこか吹っ切れたように、にっこりと笑っていた。
「ありがとね、凪」
その笑顔は少し涙ぐんでいたが、凛としたあたたかさを纏っていた。咲良は弥子へ向き直り、毅然と伝えた。
「話をさせて。お願い」
咲良の決意に、弥子はゆっくり目を閉じた。そして、天に向かって口笛を吹く。澄んだ音色が空間に静かに染みわたった時、弥子の体が淡く輝き始めた。やがて光の中から、ひとりの女性が姿を現す。
さらりと揺れた黒髪。透き通るような漆黒の瞳。その姿に、見覚えのある面影を見た。
──咲良と、似ている。
芙蓉は、咲良を見るなり肩を震わせた。次の瞬間、顔を歪めて崩れるように膝をつく。声にならない嗚咽。両手で顔を覆いながら、ただただ涙を流し続けていた。
咲良は躊躇いながらも、一歩、また一歩と芙蓉に近づく。そして静かに芙蓉の前で膝をつき、彼女を真っ直ぐ見つめた。それに気付いたのか、芙蓉も恐る恐る顔を上げる。震える手を咲良に伸ばしかけた──だが、その指先が咲良に触れることはなかった。
芙蓉が伸ばした手は途中で止まり、やがて胸元へと引き戻される。その姿から彼女の心情が伝わる。
──触れる資格なんてない。
「ごめんなさい……あなたをたくさん傷付けて。私は最期まで、良い母親にはなれなかった」
かすれた声が、空間に落ちる。その時、咲良の頬に一筋の涙が伝った。咲良は手を伸ばし、ぎこちなくも確かに芙蓉の体を抱き寄せた。
「やっと謝ってくれたね、お母さん」
次の瞬間、芙蓉は体を震わせ、咲良の肩に静かにもたれかかった。
二人はその後、ひと言も言葉を交わすことはなかった。やがて、芙蓉の輪郭は柔らかな光となり、そっと咲良の腕の中で溶けていった。




