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対 -TSUI-  作者: あさとゆう
第九章 最終決戦編
151/156

第151話 結心

 咲良が倒れた瞬間、安吾の怒りが限界を超えた。


 怒りだけではない。


 悲しみ、無力感、そして、咲良を奪われた喪失の絶望。


 今まで味わったことがないほどの燃えるような激情が、私の心に瞬時に伝わる。安吾は芙蓉に駆け寄ると、陰の気を放ったまま芙蓉の肩を突き刺した。


「……ぐあッ!」


 安吾は刀を抜き放つと、芙蓉の胸元へと斬りかかる。十文字の太刀筋が、彼女の体に深く刻まれた。だが、安吾は止まらない。勢いそのまま、今度は芙蓉の脚を斬りつけた。


 傷を負うたび、芙蓉は人狼の力で再生を試みるが、追いつけない。安吾の斬撃が速すぎるのだ。


『芙蓉……!貴様、よくも……よくも、実の娘を!!』


 怒号とともに、安吾は斬撃を繰り出す。彼は完全に我を失っていた。今の安吾は、感情の炎だけで動いている。そしてその力は、容れ物となった私の体をも容赦なく(むしば)んでいた。


 私の腕が、肩が、手の甲が──内側から裂け、血が噴き出し始めている。器である、私の限界だ。安吾の怒りに肉体が耐え切れない。


 その時だった。


 倒れ込んだ咲良の体──彼女の指がほんの僅かに動いたのだ。


 咲良はまだ、生きている。


 だが次の瞬間、ボンッという破裂音と共に、私の意識が突如暗闇の奥に吹き飛ばされた。


「わっ!」


 上下の感覚すらないような静寂の中で、“窓”のような四角形の光が浮かんでいた。どうやら、安吾の視界と繋がっているらしい。


 私は窓に駆け寄り、思いきり叫んだ。


「安吾さん!!聞こえますか!私を出して、お願い!!」


 だが、安吾の返事はない。


 その時、低い声が私の頭に響いた。


「……大丈夫かね?」


 ──この声は!


「ヤトパパさん!?」


 私は早口で問いかける。


「どうやら、君の精神の主導権を完全に安吾が握ったようだ。咲良が死んだ怒りで、力が暴走している」


「違うんです、ヤトパパさん!」


 私は声を張り上げ、闇の中の窓へと手を伸ばす。


「咲良さんは生きてる!さっき、指が動いたんです!まだ、助けられる!私を出して、安吾さん!」


 だが、私の声は暗闇で(むな)しく響くだけ。ソルブラッドの宿主である私なら、咲良を救える。上木を救った、あの時のように。


「ヤトパパさん!どうしよう、どうしたら……!?」


 すると、闇の中でヤトパパが静かに答えた。


「私が一瞬安吾の魂を口寄せする。君が精神の主導権を取り戻せるように。だが、期待はしないでくれ。安吾は人狼族本家の末裔。魂の強さは桁外れだ。我々、八咫烏では“器”が小さすぎるのだ」


 その言葉を聞いた瞬間、私はがくりと肩を落とした。安吾の魂は、それほどまでに強いのか。早くしないと、咲良が危ない。


 ふと、窓に映る安吾──容れ物である私の手の甲が見えた。皮膚は陰の気に侵され、裂け目から赤い血が噴き出している。さらに手の甲全体があざのように赤黒く染まり、僅かに痙攣(けいれん)を起こしていた。


 私の体が壊れても、安吾はもう止まらない。声が届かない以上、止められないのだ。


 その時、安吾の手が芙蓉の首を鷲掴みにした。その手は怒りで震え、力がこもる。雷閃刀が、ゆっくりと芙蓉の喉元へ向けられる。とどめを刺すつもりだ。


 芙蓉の目が恐怖で見開かれた次の瞬間、突如別の気配を感じた。安吾も気配を感じ取ったのか、ピタリと動きを止める。


 安吾の背後。


 首元すれすれに雷閃刀が突き立てられていた。


 私は闇の中で、はっきりとその気配を感じ取った。


 静かで、揺るがない。


 それでいて燃え立つような強さを帯びたこの気は──。


 ──焔だ。


 すると、今度は安吾と芙蓉の間に、ぱん、と音を立てて赤い結界が生まれた。光の壁に弾かれるように、安吾の手が芙蓉から離れる。


 この色、この結界、間違いない。これまで何度も私を守ってくれた、八咫烏の結界だ。だが、それもほんの一瞬。光はすぐに揺らぎ、立ち消えた。


 その直後、背後から「パタリ」と乾いた音が聞こえた。私はすぐに悟った。ヤトが気を失い、倒れたのだ。たった今、赤い結界で安吾の手を芙蓉から離したのはヤトだ。口寄せの術で疲弊(ひへい)し、気を失っていたはずの彼が目を覚まし、焔をこの場所まで導いてくれたのだ。


 焔は毅然(きぜん)と雷閃刀を安吾に突きつける。その気配が宿していたのは、私とヤトがずっと憧れ続けてきた、炎のような強さだった。


「……それ以上、凪の体を傷つけることも、彼女の体で芙蓉を殺すことも許さんぞ」


 だが、安吾の手は怒りで震えたままだった。今の彼は背後にいる人間が誰なのか、気付く余裕はないのだろう。安吾は低く、言葉を絞り出した。


『SPT……邪魔をする気か。この女は私の故郷を、家族を、そして今、咲良を奪った。この怒りを、絶望を……どう堪えろと言うのだ!!』


 放たれた言葉は、安吾が過去に受けた痛みそのものだった。喪失、怒り、そして絶望に満ちた声。あまりにも哀しい響きが、私の心にこだまする。


 焔は少し黙った後、一歩安吾に歩み寄った。


「お前はまだ、すべてを失ったわけじゃない」


 焔はそのまま、兄を(さと)すように、力強く言葉をぶつけた。


「桂木咲良はまだ生きている。ソルブラッドの宿主なら、彼女を救える。凪を出せ!……(ひょう)!!」


 ──雹。


 その名が放たれた瞬間、心に広がっていた闇が、霧が晴れるように消えていった。静寂の中、私の心にふわりと温かなものが灯る。


 それは安吾の記憶だった。


 懐かしい匂い。遠くで響く笑い声。


 日が暮れるまで、夢中で木刀を打ち合ったあの時。


 何度負けても立ち上がってきた、あのひたむきな若い眼差し。


 焔と過ごした日々が波のように押し寄せ、安吾の怒りと絶望をさらっていく。残されたのは、深く静かな愛情と信頼。


 気付けば、私──安吾の頬に一筋の涙が伝っていた。彼は今、弟の存在を心で感じることができたのだ。安吾は静かに雷閃刀を下ろす。そして涙を流したまま、ゆっくりと振り返った。


『……焔、なのか?お前は……』


 次の瞬間、焔は手にしていた雷閃刀を手離し、安吾の背中を力強く抱きしめた。


 十年。


 兄弟にとってあまりにも長すぎる時間。だが──。


 かつて守られていた少年は、安吾の痛みと怒り、そして絶望を受け止めるように、彼の心ごと抱きしめた。焔のあたたかな温もりは、肌から心へ、確かに伝わっていく。


 安吾はふと、力を抜くように雷閃刀を手放した。そしてそのまま、焔に身を委ね、静かに涙を流した。


 焔と雹。


 兄弟の絆が今、十年分の時間を包み込んだのだ。

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