第151話 結心
咲良が倒れた瞬間、安吾の怒りが限界を超えた。
怒りだけではない。
悲しみ、無力感、そして、咲良を奪われた喪失の絶望。
今まで味わったことがないほどの燃えるような激情が、私の心に瞬時に伝わる。安吾は芙蓉に駆け寄ると、陰の気を放ったまま芙蓉の肩を突き刺した。
「……ぐあッ!」
安吾は刀を抜き放つと、芙蓉の胸元へと斬りかかる。十文字の太刀筋が、彼女の体に深く刻まれた。だが、安吾は止まらない。勢いそのまま、今度は芙蓉の脚を斬りつけた。
傷を負うたび、芙蓉は人狼の力で再生を試みるが、追いつけない。安吾の斬撃が速すぎるのだ。
『芙蓉……!貴様、よくも……よくも、実の娘を!!』
怒号とともに、安吾は斬撃を繰り出す。彼は完全に我を失っていた。今の安吾は、感情の炎だけで動いている。そしてその力は、容れ物となった私の体をも容赦なく蝕んでいた。
私の腕が、肩が、手の甲が──内側から裂け、血が噴き出し始めている。器である、私の限界だ。安吾の怒りに肉体が耐え切れない。
その時だった。
倒れ込んだ咲良の体──彼女の指がほんの僅かに動いたのだ。
咲良はまだ、生きている。
だが次の瞬間、ボンッという破裂音と共に、私の意識が突如暗闇の奥に吹き飛ばされた。
「わっ!」
上下の感覚すらないような静寂の中で、“窓”のような四角形の光が浮かんでいた。どうやら、安吾の視界と繋がっているらしい。
私は窓に駆け寄り、思いきり叫んだ。
「安吾さん!!聞こえますか!私を出して、お願い!!」
だが、安吾の返事はない。
その時、低い声が私の頭に響いた。
「……大丈夫かね?」
──この声は!
「ヤトパパさん!?」
私は早口で問いかける。
「どうやら、君の精神の主導権を完全に安吾が握ったようだ。咲良が死んだ怒りで、力が暴走している」
「違うんです、ヤトパパさん!」
私は声を張り上げ、闇の中の窓へと手を伸ばす。
「咲良さんは生きてる!さっき、指が動いたんです!まだ、助けられる!私を出して、安吾さん!」
だが、私の声は暗闇で虚しく響くだけ。ソルブラッドの宿主である私なら、咲良を救える。上木を救った、あの時のように。
「ヤトパパさん!どうしよう、どうしたら……!?」
すると、闇の中でヤトパパが静かに答えた。
「私が一瞬安吾の魂を口寄せする。君が精神の主導権を取り戻せるように。だが、期待はしないでくれ。安吾は人狼族本家の末裔。魂の強さは桁外れだ。我々、八咫烏では“器”が小さすぎるのだ」
その言葉を聞いた瞬間、私はがくりと肩を落とした。安吾の魂は、それほどまでに強いのか。早くしないと、咲良が危ない。
ふと、窓に映る安吾──容れ物である私の手の甲が見えた。皮膚は陰の気に侵され、裂け目から赤い血が噴き出している。さらに手の甲全体があざのように赤黒く染まり、僅かに痙攣を起こしていた。
私の体が壊れても、安吾はもう止まらない。声が届かない以上、止められないのだ。
その時、安吾の手が芙蓉の首を鷲掴みにした。その手は怒りで震え、力がこもる。雷閃刀が、ゆっくりと芙蓉の喉元へ向けられる。とどめを刺すつもりだ。
芙蓉の目が恐怖で見開かれた次の瞬間、突如別の気配を感じた。安吾も気配を感じ取ったのか、ピタリと動きを止める。
安吾の背後。
首元すれすれに雷閃刀が突き立てられていた。
私は闇の中で、はっきりとその気配を感じ取った。
静かで、揺るがない。
それでいて燃え立つような強さを帯びたこの気は──。
──焔だ。
すると、今度は安吾と芙蓉の間に、ぱん、と音を立てて赤い結界が生まれた。光の壁に弾かれるように、安吾の手が芙蓉から離れる。
この色、この結界、間違いない。これまで何度も私を守ってくれた、八咫烏の結界だ。だが、それもほんの一瞬。光はすぐに揺らぎ、立ち消えた。
その直後、背後から「パタリ」と乾いた音が聞こえた。私はすぐに悟った。ヤトが気を失い、倒れたのだ。たった今、赤い結界で安吾の手を芙蓉から離したのはヤトだ。口寄せの術で疲弊し、気を失っていたはずの彼が目を覚まし、焔をこの場所まで導いてくれたのだ。
焔は毅然と雷閃刀を安吾に突きつける。その気配が宿していたのは、私とヤトがずっと憧れ続けてきた、炎のような強さだった。
「……それ以上、凪の体を傷つけることも、彼女の体で芙蓉を殺すことも許さんぞ」
だが、安吾の手は怒りで震えたままだった。今の彼は背後にいる人間が誰なのか、気付く余裕はないのだろう。安吾は低く、言葉を絞り出した。
『SPT……邪魔をする気か。この女は私の故郷を、家族を、そして今、咲良を奪った。この怒りを、絶望を……どう堪えろと言うのだ!!』
放たれた言葉は、安吾が過去に受けた痛みそのものだった。喪失、怒り、そして絶望に満ちた声。あまりにも哀しい響きが、私の心にこだまする。
焔は少し黙った後、一歩安吾に歩み寄った。
「お前はまだ、すべてを失ったわけじゃない」
焔はそのまま、兄を諭すように、力強く言葉をぶつけた。
「桂木咲良はまだ生きている。ソルブラッドの宿主なら、彼女を救える。凪を出せ!……雹!!」
──雹。
その名が放たれた瞬間、心に広がっていた闇が、霧が晴れるように消えていった。静寂の中、私の心にふわりと温かなものが灯る。
それは安吾の記憶だった。
懐かしい匂い。遠くで響く笑い声。
日が暮れるまで、夢中で木刀を打ち合ったあの時。
何度負けても立ち上がってきた、あのひたむきな若い眼差し。
焔と過ごした日々が波のように押し寄せ、安吾の怒りと絶望をさらっていく。残されたのは、深く静かな愛情と信頼。
気付けば、私──安吾の頬に一筋の涙が伝っていた。彼は今、弟の存在を心で感じることができたのだ。安吾は静かに雷閃刀を下ろす。そして涙を流したまま、ゆっくりと振り返った。
『……焔、なのか?お前は……』
次の瞬間、焔は手にしていた雷閃刀を手離し、安吾の背中を力強く抱きしめた。
十年。
兄弟にとってあまりにも長すぎる時間。だが──。
かつて守られていた少年は、安吾の痛みと怒り、そして絶望を受け止めるように、彼の心ごと抱きしめた。焔のあたたかな温もりは、肌から心へ、確かに伝わっていく。
安吾はふと、力を抜くように雷閃刀を手放した。そしてそのまま、焔に身を委ね、静かに涙を流した。
焔と雹。
兄弟の絆が今、十年分の時間を包み込んだのだ。




