第146話 共命
それからどれくらい経っただろう。金属音と風の唸りが途切れなく響く中、私と焔は重力に引き寄せられるように、時紡石の力に身を委ねていた。頭に浮かぶのは、ただひとつ。
──十二年前の六月一日。北海道のおばあちゃんの家へ。
強く念じれば、きっとヤトが導いてくれる。不思議と、そんな確信があった。私は焔の背中に腕を回す。決して離れ離れにならないように。
すると──。
──ドンッ!
一瞬で景色が反転し、眩い光の中へ放り出された。焔は反射的に受け身を取り、私を支えながら着地した。
体勢はまるでお姫様抱っこ。
ばっちり目が合う私たち。当然の如く、頬がみるみる熱を帯びる。
だが、焔は照れた様子も見せず、そっと私を下ろした。
「大丈夫か、凪」
「は、はい!」
頬を掻きながら周囲を見渡すと、朝露が漂っていた。柔らかい潮風が湿った空気を運び、懐かしい匂いが胸の奥をくすぐる。だが、おかしい。ヤトの姿が、どこにもない。
「ヤト?ヤト!」
すると、焔が微笑み、そっと空を指さした。
「心配いらない。見ろ」
見上げると、空に小さな裂け目ができており、微かに金色の光が漏れていた。どうやら、私たちはあそこから落ちてきたらしい。
「ヤトはあそこだ。確かな気配を感じる」
私はホッと胸を撫で下ろす。
そして、焔を見上げて恐る恐る尋ねた。
「あの、ヤトは真の八咫烏になったんですよね?」
「ああ。それに大きな謎も解けた」
「謎?」
焔はふふんと得意げに笑う。
「君は前に言っていたな。君の心にヤトの御父上、通称『ヤトパパ』が宿っていると」
「はい」
「ヤトパパがいるということは、ヤトママもいる……つまり、そういうことだ」
ドヤ顔で満足げに笑う焔。
数秒の沈黙の後、私は盛大にズッコケる。
どうやら焔は、ヤトの母──弥子がヤトに宿っていることを、大分前から見抜いていたらしい。
「気付いてたなら教えてくださいよ!私、さっき知ってビックリしたんですから!」
「君も気付いていたとばかり。以前君も言っていただろう。ヤトの様子がおかしかった時、『お母さんみたいだった』と」
そういえば、確かにそんなこと言ったかも。とはいえ、あれはただの例え話。
本当にヤトママがヤトに宿っているなんて誰が想像できるのか。
「さっきヤトが覚醒する前、一瞬だけ別人がヤトに憑いたように見えた。恐らくあれがヤトママだ。ずっと宿っていたんだろう。それはそうと、凪」
「はい?」
顔を上げた瞬間、焔が私の頬を両手でむぎゅっとつまみ、自らの方へ引き寄せる。
「ふ、ふおおおお……ッ!」
「暴走した陰の気に飛び込むなど、軽率なことをして。全部終わったらお望み通り、山ほどピクルスを食わせてやる」
「ふごっ!?」
私はギョッと目を見開く。焔は頬をつまんだまま、悪戯っぽく口角を上げた。
「ひひょうえてたんへすね。わたひのほんひんのはへび(聞こえてたんですね、私の渾身の叫び)」
「当たり前だ。そんな可愛く誤魔化しても許さんぞ。覚悟しろ」
手を離し、にっこり笑う焔。私はじんじんする頬をさすりながら、顔を赤らめる。
──今、「可愛い」って言った……?
その時、焔が唐突に手を差し出した。困惑して首を傾げる私に、彼は穏やかな視線を向ける。
「……何があっても、はぐれないように」
私は少し頬を赤らめ、小さな微笑みを返した。そしてぎゅっと彼の手を引き、そのまま歩き出す。
「こっちです!」
小鳥が囀り、柔らかな朝風が舞う。
向かう先は、おばあちゃんの家だ。
お母さんやおばあちゃんと手を繋いで歩いた坂道。
近所のスーパーでお菓子を買ってもらった帰り道。
妹の真子が転んで泣いた日、おんぶして歩いた道。
帰りがけによく立ち寄った公園。
ブランコに揺られながら、たわいもない話をした午後。
そんな思い出が詰まった道を歩き、ようやく辿り着いた。
目的地である、「聖所」に。
「ここなんですけど……どうしましょうか。家族は今ごろ、おじいちゃんのお葬式に行っているはずです」
「幸村藍子は日時を敢えて指定した。つまり……」
焔は窓に近づき、手を添えて引いた。鍵は開いていた。きっとおばあちゃんが開けておいてくれたのだろう。
私と焔は、音を立てぬよう窓からそっと入る。懐かしい香りがふわりと鼻をくすぐって、思わず顔がほころぶ。
だが、思い出に浸ってばかりもいられない。急がなければ、皆が帰ってきてしまう。
私はおばあちゃんの部屋の扉へ手をかけた。軋むような音を立てて開いた扉の先──机の上には、かつて見た光景が広がっていた。
両腕で抱きかかえられるほどの、大きな木箱。私たちは目を合わせ、ゆっくりとその箱へと歩を進めた。手を伸ばし、木箱に触れた瞬間、私は息を呑んだ。
木箱が、脈打っている。
ごく微かだが「生きている」ような感覚が指先に伝わってくる。まるで中に眠る「何か」が、目覚めの時を今か今かと待ち続けているように。
「この木箱。恐らく幸村藍子の実験の産物だ。磁場エネルギーを限界ギリギリのところで制御しているのだろう」
焔が静かに呟く。だが、その横顔は強張り、額にはじんわりと汗が滲んでいた。
「焔さん?」
「もしこの木箱がなかったら、ぞっとする。まるで爆発寸前の時限装置だ。幸村藍子がこれほど強大な力を隠し持っていたとは。わかってはいたが、実物を前にすると、やはり……とてつもなく恐ろしい」
彼の顔に浮かんだ緊張の色が、この木箱の力の凄まじさを雄弁に物語っていた。私は焔の手に触れ、彼に向き直る。
「行きましょう、焔さん」
私は木箱に両腕を回し、そっと抱きかかえる。それから、私たちは家を後にした。向かった先は──海辺。
おばあちゃんの実家から、歩いてニ十分足らずの場所だ。
今日はとりわけ風が穏やかだ。頬を撫でる潮風は優しく、波の音だけが静かに寄せては返している。誰もいないここなら、磁場エネルギーを破壊できる。そう思って来たのだが、私はひとつの疑問に突き当たっていた。
──これ、どう壊せばいいんだろう。
考えてみたら、探すのに必死で「どう壊すか」までは考えてなかった。だが、焔はそんな私の思考を見透かしたかのように微笑む。
「凪、私たちは“対なる者”。だからこそ、ここに導かれたのだよ」
「え?」
「さっき、君が瓜生を助けるためにしたことと同じだ。陽の気と陰の気。二つの力は拮抗し、相殺される。空間ごと、無へ還すことができる」
私はゆっくりと頷き、木箱を持つ手にぎゅっと力を込めた。
──トクン、トクン。
胸の奥まで伝わる鼓動のような音。
この力は、かつておばあちゃんを長く苦しめてきた「禁断の力」。この静かな脅威を巡って、焔の世界──対の世界は混乱の渦に呑まれた。これがある以上、桂木芙蓉の陰謀は終わらない。
それを今、対なる者──私と焔が終わらせる。
「凪」
顔を上げると、焔が真っ直ぐ私を見つめていた。
迷いも恐れもない眼差し。私はその視線を正面から受け止め、力強く頷いた。
そして次の瞬間、私と焔は一斉に陽の気と陰の気を放出した。
一閃。黄金の光が水平線を裂き、波間を貫く。光は一瞬で消え、木箱もまた、跡形もなく消滅した。
一拍の静寂。
その後、今後は突風が吹き荒れた。耳元で金属が擦れたような大きな音が響く。私と焔の間に、強大なエネルギーの渦が今まさに現れていた。手のひらを伝う力は、恐ろしいほど不安定だ。
一瞬の瞬き、ひとつの息遣い。
たったそれだけのことが力の均衡を壊してしまいそうで──。
しっかり、しっかり……。
私は息を殺しながら、慎重にその力を抑えるように手のひらを掲げた。そうして、崩れそうな均衡をどうにか繋ぎとめる。
すると、徐々に力は薄れていき、耳元で鳴り響いていた金属音も、風も波も、静けさを取り戻した。気付けば、手のひらには何もなかった。ただ、煌めく太陽が、私と焔の間の澄んだ空気を照らしていた。
私はそっと息を吐いて、焔を見る。彼はまるですべてを包み込むように、柔らかく微笑んだ。それを見て胸を撫で下ろす。成功した。磁場エネルギーは今、完全に消えたのだ。
──良かった。
そう言いかけた時、彼の視線がふと私の背後へと移った。視線に導かれるように、私はゆっくり振り返る。
数メートル先、波打ち際にひとりの女性が佇んでいた。
黒髪をきちんと結い、着物の喪服に身を包んだその女性は、私たちをただじっと見つめていた。凛とした、温かさを纏って。
それが誰かなんて、考えるまでもなかった。
幸村藍子。
大好きなおばあちゃんが、そこにいた。




