寝藁は腕の見せ所
目の前のムラタ調教師は、僕を不思議そうに見詰める。
単純に頭が悪いという言い方もあるが、僕は憶せず働きたい旨を必要最低限の言葉で伝える。
「アンちゃん、そんな甘くねえぞ。朝は早いし、相手は生きもんだ。休みもねえし、体もキツいぞ。毎日同じことの繰り返しだ。ん?アンちゃんは馬乗れんのか?」
ムラタ調教師は再び僕を覗き込み、今度は全身を下から上へ舐めるように品定めをした。
身長162cm、体重46kg。
数字だけ見れば騎手の様だが、ただのガリガリ君だ。
夏には必ずバテて体重をさらに減らす。
勿論少食だ。
中流階級でハタチまで大切に育てていただき、折角入学させていただいたG ランクの大学を、ほとんど通わずに、見事に中退してみせた親不孝者だ。
つまるところ、ただのボンボンなのだ。
話は唐突に進む。
「なんだ、馬に触ったこともねえのか。話にならねえな。」
普通ならここで門前払いだろう。
しかし、ムラタ調教師は独り身なのだ。
気紛れにひとこと。
「じゃあアンちゃん、ネワラやってみるか?」
ネワラ?ネワラってなんだ?
僕は華やかな中央競馬の表舞台しか知らない。
普段の馬の暮らしぶりに思いを馳せたこともない。
ボーっとしている僕にムラタ調教師が掘っ立て小屋の中に入る様促す。
臭い。
四畳半くらいの空間に、馬糞、乾いた藁、濡れた藁が雑然と放置してある。
「こうやるんだ。」
ムラタ調教師は先端が半円形の細い棒2本を両手に持ち、大きいザルの様なものを足で手繰り寄せた。
2本の棒を器用に使い、ザルに馬糞を入れていく。結構な量だ。
今度は濡れた藁と乾いた藁を仕分ける。
濡れた藁をこれまた2本の棒で器用にまとめて、空間の窓から外へ放り投げる。乾いた藁を空間の四隅に寄せると、中心付近を竹箒で履き、細かいゴミを先程の馬糞の入ったザルに入れた。
最後に空間横に積まれていた乾いた藁、仕分けた乾いた藁を空間にフカフカになるよう敷き詰めていく。
これで作業終了らしい。
寝藁と書いてネワラ。簡単に言うと、馬の敷布団みたいなものだ。
後々これを10分もかからず完璧にこなす僕も、初めては1時間以上を要した。
寝藁は厩務員の腕の見せ所の1つなのだ。
業界用語で2本の棒を寝藁カギ、ザルをボロミと言う。
ボロ。ボロとは馬糞のことだ。
馬がボロをするといえば、馬がウンチをするということ。
藁が濡れているのは馬のオシッコを吸収してのものだ。ボロもそれなりに臭いがオシッコもなかなか刺激的だ。
第一章の入れ墨のお方がやっていたのは、この濡れた藁を天日と風で干して乾かし、寝藁として再利用するという作業だ。
今でいうサステナブル。
もちろんこの頃にそんな単語は誰も使わない。