第6話 撤退作戦の時系列的経過
制海・制空権を完全にアメリカ軍に握られた戦域に孤立無援となっていたキスカ島守備隊。
退くに退けず、待つのは死か降伏かという状態になってしまっていた。
キスカ島守備隊 の陣容
陸軍北海守備隊司令官峰木十一郎少将以下2700名
陸軍北方軍司令官樋口季一郎中将 麾下
海軍五十一根拠地隊司令官 秋山勝三少将2800名
アッツ島にアメリカ軍が上陸した後に増援を送ることは、ほぼ不可能であった。
アッツ島守備隊が戦っていた5月21日、大本営は北部太平洋アリューシャン方面の放棄を決定、キスカ島の守備隊は撤退させることとした。作戦名は「ケ」号作戦であった。
第一期作戦
高速艇である駆逐艦や軽艦艇などの水上艦艇で夜陰に乗じて撤退を行うのが最も効率が良く比較的安全な方法であったが、水上艦隊による撤退作戦には消極的だった。
最前線での輸送、撤退任務に駆逐艦を投入した場合、海軍は南方作戦に於いて駆逐艦のかなりの数を失っており、これ以上駆逐艦を投入することは避けたい。 代案として潜水艦艦隊での撤退作戦を立案、実行した。
5月21日 日本海軍と日本陸軍は協定を結び、
「熱田島(アッツ島)守備部隊ハ好機潜水艦ニ依リ収容スルニ努ム」
「鳴神島(キスカ島)守備部隊ハ成ルベク速ニ主トシテ潜水艦ニ依リ逐次撤収スルニ努ム 尚海霧ノ状況、敵情等ヲ見極メタル上状況ニ依リ輸送船、駆逐艦ヲ併用スルコトアリ」と指示。
5月29日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、機動部隊の北方作戦参加をとりやめ、北方部隊と第二基地航空部隊により陸軍と協同し、「ケ」号作戦(キスカ島撤退作戦)を下令した。
この時第19潜水隊と伊155号潜水艦が北方部隊の指揮下に編入された。
5月30日、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は「ケ」号作戦実施要領を発令。 参加兵力は第一潜水戦隊(司令官古宇田武郎少将)の潜水艦15隻。
そのうち沈没と損傷のため、実際に参加した潜水艦は13隻であった。
アッツ島玉砕2日前の5月27日、伊7潜水艦がキスカ港に入港60名を収容、帰途につく。
6月10日 キスカ島所在人員は、陸軍2429名、海軍3210名、合計5639名である。
当初、潜水艦の撤退作戦は苦労しつつ行われていた。
次第にレーダーに捕捉され砲撃され撃沈されるようになる。
6月15日、伊9が撃沈。
6月17日、古宇田司令官はキスカ周辺で行動中の潜水艦に一時待機を命じる。
6月18日 潜水部隊指揮官は伊7・伊169・伊36・伊34にキスカ突入を命令。
6月21日、第7潜水隊司令玉木留次郎大佐座乗の伊7潜は米駆逐艦捕捉されて損傷。司令、潜水艦長戦死、キスカ島南水道二子岩に擱座して放棄爆破処理される。
6月22日 潜水部隊指揮官は伊34・伊169・伊171と伊36の幌筵帰投を命じる。
6月23日 北方部隊指揮官は潜水艦輸送作戦の中止を発令、第一期作戦成果 撤収人員 海軍308名、陸軍58名、軍属506名、計872名。
しかし潜水艦は次々に損傷し、また3隻を喪失目的を貫徹できず、第一期「ケ」号作戦は失敗に終わった。
第二期作戦
潜水艦による撤退作戦が不調に終わったため、セオリー通り当初想定された水雷戦隊による撤退作戦が立案された。
しかし正面から堂々と作戦を行っていたのではキスカ島周辺のアメリカ艦隊に発見されるのは不可避である。
そこでこの地方特有の濃霧を利用、霧に紛れて高速でキスカ湾に突入素早く守備隊収容、離脱を図るという計画を実行する事とした。
6月24日 北方部隊指揮官は、「ケ」号作戦第二期作戦の実施を下令、6月28日、軍隊区分等を発令した。
作戦を成功させるにはふたつの絶対条件があった。
1視界ゼロに近い濃霧の発生。
2電探及び逆探を装備した艦艇の配備。
1は濃霧が発生していれば空襲を受けずに済み、キスカ島東側のアムチトカ島アメリカ軍の航空基地爆撃機の空襲を受ければ全滅もあり得る。
このキスカ島の天候状況は、撤収部隊の死命を制する絶対条件である。
また電探及び逆探は自軍の艦の濃霧の中での事故防止と哨戒の重要な用途を担っていた。
第一次作戦に参加した潜水艦の中から数隻を抽出、撤収部隊に先行しキスカ島近海に配備、地域の気象情報の探索周知の任務を負う事とした。
第二の条件として当時日本艦隊には巡洋艦・駆逐艦クラスで電探を装備した艦はほとんどなかった。
敵艦レーダーで発見され、撃沈されるのを避けるため濃霧は敵の空襲から日本艦隊を守ってはくれるが、同時に日本軍肉眼による見張り能力を低下させる。
これを補うためには絶対条件として逆探と電探が必須アイテムとなった。
これには実行部隊の第一水雷戦隊司令官に着任したばかりの木村昌福少将から強い要望が出され、連合艦隊は就役したばかりの新鋭高速駆逐艦島風を配備する。
島風は就役当時から二二号電探と三式超短波受信機(逆探)を搭載していた。
仮に肉眼でアメリカ軍に発見されても、アメリカ艦と誤認するよう阿武隈、木曾の3本煙突の1本を白く塗りつぶして二本煙突に見えるよう偽装工作を施し、駆逐艦にも偽装煙突を装着、各艦とも用意万端、さらに第10駆逐隊などが掻き集められての出撃となった。
1943年6月28日キスカ島守備隊撤退作戦「ケ」号作戦が発動された。
敵情偵察・気象通報に北方部隊潜水艦部隊が幌筵を出撃、水上部隊は7月7日幌筵を出撃した。
この部隊の目的は味方守備隊の撤退を隠密裏に行う事であり、成功の成否の鍵はアメリカ軍部隊との接触を避ける事にあった。
しかし、万が一に備えて夜戦の用意も怠らなかった。
7月10日 アムチトカ島500海里圏外で撤収部隊が集結。一路キスカ島へ向かう。
Xデーは12日。しかしキスカ島に近づくにつれ、霧が晴れてきたため突入を断念。その翌日も翌々日も霧が晴れ、突入を断念。
この慎重を期した行動は木村少将自身の経験から来ていた。
上空援護のない状態での空襲は水雷戦隊にとって致命的であり、木村少将は嫌というほど知っていた。
燃料の残量も少なくなってきたことから15日 一旦突入を諦め、幌筵へ帰投命令を発した。
木村少将の「帰れば、また来られるからな」と言い残しての命令だった。
つづく