第4話 アッツ島上陸作戦
4月27日アッツ島砲撃。
ランドクラブ作戦
5月4日 戦艦3隻、護衛艦6隻、護衛空母1隻、駆逐艦19隻、輸送船5隻がアラスカコールド湾出発。
海軍機動部隊指揮官 フランシス・W・ロックウェル海軍少将、陸軍上陸部隊指揮官 A・E・ブラウン陸軍少将
5月12日 天候回復を待って上陸開始。主力は北海湾、別動隊は北部海岸に上陸。海岸に橋頭保確保。
日本軍の動き
5月10日 伊31潜水艦にて第五艦隊参謀江本弘少佐到着、海軍部隊指揮。
アッツ島守備隊からのアメリカ軍上陸の報を受けて守備隊司令部からの電文
「全力を揮つて撃摧すへし隊長以下の検討を切に祈念す海軍に対しては直ちに出動敵艦隊を撃滅する如く要求中」
12日の上陸初日はアメリカ軍艦隊からの艦砲射撃にて上陸軍を援護したが霧に遮られ効果を得られず。散発的応酬に終わる。
13日 北海湾に上陸していたアメリカ軍北部隊が移動。周囲を一望できる芝台にある日本軍陣地に接近。濃霧のため包囲に成功。一個中隊が陣地を急襲。日本軍は機関銃と小銃射撃にて撃退。
しかし陣地の正確な位置が露見し、野砲、艦砲射撃、航空機による銃爆撃などの集中砲火を浴び日本軍芝台守備隊から約100名の戦死者が出る。
よって芝台陣地を放棄、西浦南の舌形台に転進、芝台を奪われる。高地争奪で激しく争い、15日まで死闘は続いた。
旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進。平地に霧は晴れるが、高地の日本軍陣地の霧は未だ晴れず。
この時の戦闘でのアメリカ軍兵士の証言。
「戦艦ネバダの14インチ砲が火を噴くたび、日本兵の死骸、砲の破片、手や足が山の霧の中から転がってきた」
米南部隊は虎山と臥牛山などの三方を山地に囲まれ日本軍と遭遇、十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐戦死、部隊が混乱状態となった。
後にこの谷は『殺戮の谷』と称される事となる。
その後北部隊と合流すべく、臥牛山日本軍陣地に一個大隊で攻撃、日本軍は迫撃砲、機銃などで防御、アメリカ軍を海岸際まで撃退する。
15日 アメリカ軍砲撃。日本軍陣地が多大な損害を受ける。この機にアメリカ軍北部隊前進。日本軍は舌形台陣地蜂放棄、前線を熱田に定め後退。
山崎部隊長はこの時、武器弾薬の補給と一個大隊の増援を要請。
この要請は20日、大本営から増援計画の中止を通告、北方軍司令部は衝撃を受ける。
一方18日アメリカ軍は戦果の勢いに乗じて後方陣地に転進した日本軍を追撃した。
次第に追い詰められてきた日本軍は、将軍山、獅子山に拠り必死に抵抗、寡兵をもってアメリカ軍を撃退した。
「なあ稔、アメ公の奴ら、何であんなに銃弾を撃ってこれるんだ?
俺が一発一発撃つ間、あいつら20発も30発も撃ってきやがる。弾が勿体ないと思わないのかな?」
「お前、何で5発同時に装填できるのに1発づつしか装填しないんだ?」
「だって勿体ないじゃないか。」
「でも何時でもすぐに撃てないとイザという時、自分がやられるぞ。」
「俺は貧乏性だからな。弾が勿体ないだろ?
それに5発も装填していたら沢山撃っちゃって直ぐに無くなりそうだし。」
「お前残りあと何発だ?」
「20発。お前は?」
「25発。」
「さすが貧乏性!物持ちがいいなぁ。」
「褒めたらあかん。照れるがな。」
「何で関西弁?褒めとらんし。」
*彼ら守備隊の持つ銃は『九九式短小銃』で5発同時に装填できる簡易カートリッジ式であった。
特筆すべきは荒井山の林中隊は一個小隊でアメリカ軍二個中隊を撃退した。
三日で攻略する予定だった制圧作戦の16日 思わぬ苦戦からブラウン少将解任、ユージーン・ランドラム少将が後任に就く。
21日 北方軍司令官は
「中央統帥部の決定にて、「本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれり。」との結論に達せり。本官の力のおよばざること、まことに遺憾にたえず、深く陳謝す」と打電。
山崎隊長は
「戦闘方針を持久より決戦に転換し、なし得る限りの損害を与える」
ここで注目すべきはこの言葉。
『成し得る限りの損害を与える』との意思は、その後思わぬ形で大いに発揮した。
「報告は戦況より敵の戦法および対策に重点をおく」
「期いたらば将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」と返電した。
23日 札幌の北方軍司令官はアッツ島守備隊へ次のような電文を打った
「軍は海軍と協同し、万策を尽くして人員の救出に務むるも、地区隊長以下凡百の手段を講じて敵兵員の燼滅を図り最後に至らは潔く玉砕し、皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」
命令電中、はじめて玉砕の言葉を使用、事実上の玉砕命令であった。
21日 アメリカ軍の砲爆撃により南部の戦線も突破される。
主力は北東のかた熱田に追い詰められる。日本軍は大半の砲を失い食料はつきかける。
兵力は1000名前後までに減り、日本軍は各地でアメリカ軍の攻撃に対し激しく抵抗、白兵戦となり奮闘したがとうとう力尽き、28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅した。
29日 戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎部隊長の命令で生存者が熱田の本部前に集った。
山崎部隊長各将兵の労をねぎらう。そして最後に東京にある大本営へ宛て最後の打電をする。
「一 二十五日以来敵陸海空の猛攻を受け第一線両大隊は殆んと壊滅(残存兵力約150名)の為、要点の大部分を奪取せられ辛して本一日を支ふるに至れり。
二 地区隊は海正面防備兵力を撤し之を以て本二十九日攻撃の重点を大沼谷地方面より後藤平敵集団地点に向け敵に最後の鉄槌を下し之を殲滅。 皇軍の真価を発揮せんとす。
三 野戦病院に収容中の傷病者は其の場に於て軽傷者は自身自ら処理せしめ、重傷者は軍医をして処理せしむ。非戦闘員たる軍属は、各自兵器を採り陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。 共に生きて捕虜の辱しめを受けさる様覚悟せしめたり。
四 攻撃前進後無線電信機を破壊暗号書を焼却す。
五 状況の細部は江本参謀及び沼田陸軍大尉をして報告せしむる為残存せしむ。
「五月二十九日決行する当地区隊夜襲の効果を成るへく速かに偵察せられ度 特に後藤平 雀ヶ丘附近」
突撃前夜木村と三戸部は、野営地で寒さと空腹と無数の傷に耐えながら最後の休息をとっていた。
「なあ三戸部、俺たち死んだら、魂は何処に行くんだろうなぁ?」
「そんな事知るか!坊さんじゃないからな。」
「お前は恐くないんか?」
「何も考えんようにしとる。」
「少し震えとらんか?」
「寒いからだよ!」
「俺も魂がぬけそうなくらい寒いよ。」
「お前の魂は何処にあるん?」
「ここさ!」
そう言って股間を指した。
「プッ!(笑)ちんちんか?
そうか、お前ならそうかもしれんな。」
「お前、弾丸はあと何発残ってる?」
「あと一発さ。」
「捕虜にならないよう、自決用に1発残しておかんとな。」
「お前は?」
「俺も同じさ。」
「腹減った・・・。」
熱田島守備隊は無線機を破壊。日本軍残存部隊は夜陰に乗じ米軍の拠点を討つべく台地に移動、山崎部隊長を陣頭にして最後の突撃を行う。弾薬は尽き、銃剣による突撃であった。
意表を突かれた突撃によりアメリカ軍は混乱に陥る。
日本軍は大沼谷地より、アメリカ軍陣地を次々突破、この時の様子をアメリカ軍は「生物はもちろん無生物までも破壊した」と伝えた。
まさに鬼神の様相であった。日本軍の進撃は止まらず、遂には第7師団本部付近にまで肉薄したが、雀ヶ丘でアメリカ軍の猛反撃を受け全滅。最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。
米軍のある中尉は「右手に軍刀、左手に国旗を持っていた」という証言を残している。
「自分は自動小銃をかかえて島の一角に立った。霧がたれこめ100m以上は見えない。ふと異様な物音がひびく。
すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると300~400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。
どの兵隊もどの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握っている。
最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう。足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。
わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れる。しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。
また起きあがり一尺、一寸と、はうように米軍に迫ってくる。
また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、左腕はだらりとぶら下がり、右手に刀と国旗とをともに握りしめた。
こちらは大きな拡声器で“降参せい、降参せい”と叫んだが日本兵は耳をかそうともしない。遂にわが砲火が集中された…」
稔は右足を撃ち抜かれ、銃を杖替わりに震える身体を支え、前に進もうとする。
10m後方の三戸部は、既に左肩と腹部に致命傷を負い立ち上がることはできない。
かすれる声で
「おい・・・ミノル・・・。」
意識が薄れていった。
その時稔の胸に弾が命中。だが辛うじて倒れない。
また命中。とうとう仰向けに崩れ落ちた。
「かあちゃん・・・。」
これが最後の言葉だった。
日本軍の損害は戦死2638名、捕虜29名、アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1200名であった。
つづく