12 鳳凰暦2020年4月12日 日曜日 小鬼ダンジョン 3層 隠し部屋
ごくり、と自分の耳の奥に、自分の唾を飲み込む音が響きました。
小鬼ダンジョンへ入るのに、緊張してしまったからです。今、10時16分です。2時間半ほど前に死にかけたところ、死ぬかと思ったところです。緊張するのは当然……どうやら隣の鈴木さんは緊張しているように見えません。実際のところ、わたし――岡山広子には怪我がなく、鈴木さんは背中にひどい傷が残る怪我をしました。死にかけたのは鈴木さんの方だと思います。どうして、そんなに……楽しそうなのでしょうか。
そんな鈴木さんは気になりますが、ちらちらと鈴木さんを見ているとダンジョンのことはいつの間にか気にならなくなっていました。不思議です。
ゲートを抜けて、さらには、何か得体のしれないものを抜けて、ダンジョンの中です。鈴木さんが迷わず歩き出すので、遅れずについて行きます。
「あれ? 鈴木くんじゃない?」
「え、どこ?」
ちょうど最初の分かれ道のところで、右の道の方からこちらへと戻ってくる人たちがいて、その人たちが鈴木さんに声をかけました……というべきか……どうなのでしょう?
その鈴木さんはどう考えても聞こえているはずなのに、気にすることもなく、分かれ道を左に進んで行きます。
「あれ? 女の子が一緒じゃない?」
「ええ?」
まだ聞こえてきますし、今度はわたしにも関係があります。ですが、鈴木くんはどんどん進んでいきます。どうすれば気にせずにいられるのか、アドバイスを頂きたいです。
「そろそろ、ゴブリン、出る」
「あ、はい」
さっきまでの人たちの話題はゼロです。すごいです。こういうのをスルースキル、というのでしょうか。
「ゴブリンはひきつける。かわして背後へ。攻撃はなし」
「あ、はい」
……攻撃しないでどうするつもりでしょうか?
「攻撃しないで、どうなさるおつもりですか?」
「逃げる」
「は?」
「ゴブリンの背後を取ったら、武器の届かない位置で待機。合図をしたらその時は全力で逃げる。そこからは逃げ続ける」
「え……?」
「来た、1匹目」
「あ……」
前からゴブリンです。1体だけにお会いするのは2回目です。不思議ですね?
鈴木さんがわたしよりも前へと踏み込み、ゴブリンの真ん前に立ちます。どちらかといえば、ゴブリンの方が驚いているようにも見えますが、棍棒を振りかぶります。
私はこそこそとその脇を抜けて、ゴブリンの背後へと回り込みました。
鈴木さんはあっさりと棍棒を2回躱して、さらに、わたしとは違い、至近距離をすり抜けてわたしの前に立ちました。
「もう一歩離れる」
「あ、はい」
言われた通り、距離を取ります。その瞬間、振り返って攻撃してきたゴブリンの棍棒を鈴木さんが躱して、「スタート!」と言いました。
わたしは慌てて、走り出します。ところが、自分が思っている以上に前傾姿勢になってしまい、そのまま、低空へ飛び出すような感じで、5メートルほど跳んで、転んでしまいました。顎をこすってしまったようで、とても痛いです。などと言っている場合ではありません!
あっという間にわたしを追い越した鈴木さんが、これまたあっという間に戻ってきて、あっという間にわたしを左腕で掴んで、脇に抱え込みました。
向かい合う形で抱えられたので、鈴木さんが振り返って走り出すと、わたしは後ろ向きになりました。すぐそこに棍棒を振り回して追いかけてくるゴブリンがいます。怖いです。
でも、すぐにゴブリンとの距離は棍棒が届かない距離になり、安心しました。それに、おなかを支えてくださっている鈴木さんの腕がなんだかぽかぽかと温かいのです。
「大丈夫?」
「え?」
確かに、割と揺れるので変な感じはします。後ろにゴブリンが見えるのも変な感じです。
「大丈夫? 変なとこ、触ってない?」
「え?」
わたしが触っているのか、わたしが触られているのか、いえ、触られてはいますが、嫌な気持ちにはなってはいな……あれ? どうして男性に……このような状況で嫌な気持ちにならないのは……そういえば保健の先生――お名前を教えて頂くのを忘れておりました。不覚です――に、そのようなことでダンジョンでやっていけるのか、と言われましたね。気にしていては命に関わります。
「大丈、夫です。気に、なさらないでく、ださい」
揺れて言葉が途切れます。さらにはぐるり、ぐるりと横回転で回ります。
「はわはわわわ」
変な声が出てしまいました。
そうすると後ろに――わたしから見ると前に――見えるゴブリンが2体に増えています。
そこからは横回転が加わる度にゴブリンの数が増えていきました。これはいったい?
ふと気づけば、十体以上のゴブリンに追いかけられています。これはトレインではないでしょうか? 大丈夫でしょうか? 保健室では死ぬだろうと言われたのです。
「あの、鈴、木さん?」
「何?」
「これ、は、トレ、イン、では、ないで、すか?」
「そう」
……やっぱりトレインです! そんな危険な……こともないですね? どうしてなのでしょう? 現状は、ただたくさんのゴブリンに追いかけられているだけで、特に危険は感じません……というのはまずいのではないでしようか?
そう思っていると、鈴木さんが曲がった感じがして、少しスピードが速くなります。ゴブリンは追いかけてきていますが、少しずつ離れています。より安全になるようで……と思ったら、鈴木さんが止まりました。
「下ろすよ」
「え、うひゃ」
そこそこ丁寧に、地面の上に下ろされました。結果として四つん這いです、慌てて立ち上がります。鈴木さんはいつの間にか、ロープを準備していました。
「そこよりこっちに絶対こないこと。あと、あっちを向いて警戒。もしゴブリンが来たらすぐに知らせて」
「え? そちらからゴブリンが来るのではないですか?」
「それはこっちで相手をする。言われたことを必ず守って。死にたくないなら」
ごくり、と唾を飲み込んでしまいました。言われた通りに前方を警戒します。でも、背中からゴブリンのグギャグギャという鳴き声が聞こえてきて、振り返ってしまいそうです。でも、死にたくないので前方を警戒します。
グギャグギャが大きくなってきたと思ったら、グギャーーーっと聞こえて、グシャッと聞こえました。何がどうなっているのでしょう? でも、死にたくないので前方を警戒し続けます。
グギャグギャは聞こえますが、数は減ったようです。
「気をつけて、ゆっくり回れ右」
「あ、はい」
言われた通り、回れ右をします。ゴブリンが見えますが、遠いです。なぜか近づいてきませ……いえ、わたしとゴブリンの間には、大きな穴が開いていました。近づくことなどできません。
「これは……」
「落とし穴」
「これが」
かなり深い気がします。
「残りを始末する」
「え?」
どうやってするのでしょうか?
そう思っていると、鈴木さんが空中で右手を動かしています。不思議に思っていると、そこに、赤い文字のようなもの、緑の文字のようなもの、そしてまた、赤い文字のようなものが並んで浮かびます。
「何ですか、それ?」
疑問には答えてくれません。その代わり――。
「ファイアストーム」
鈴木さんのその言葉で、向こう側のゴブリンが紅蓮の炎に包み込まれ、その炎は渦を巻いて、こちらまで熱風が届きます。空中に浮かんでいた文字のようなものはいつの間にか消えていました。
「……マジックスキルが、使えるのですか?」
「使える。契約通り、秘密で」
……驚き過ぎて言葉になりません。あと、誰も信じてくれそうにありません。そもそも話す友達がいません。鈴木さんしか……そう思ってもいいのでしょうか。友達、と。
すると、今度は鈴木さんが突然、壁に向かってジャンプして、さらにはその壁を蹴ってジャンプします。そうして、魔法の紅蓮の炎が消えたあちら側に立ちます。そこで何やら、拾ってらっしゃいます。拾い終わるとまた壁を蹴って、こちらに戻ってきます。いったい、どういう身体能力をしているのでしょうか。
「何を拾っていたのです?」
「魔石」
そう言って、手の中にある拾った魔石を見せてくださいました。金曜日に実習で手にした魔石と同じです。
「まずは5つ拾った。全部持ってて」
「え?」
「パーティーで得たものはパーティーのもの」
「ええ? それはおかしいと思います。わたしは何もしておりません」
「そう? とりあえず預かってて。また後で話そう」
「はい」
「下に」
「?」
「自分で行ける?」
「……どうやって行くのでしょうか?」
「あれ」
鈴木さんが指差したのはロープです。
「無理だと、思います」
「そう。なら、ここで、しっかり首を」
「え?」
「早く。時間がもったいない」
「あ、あ、はい……」
なんということでしょう……鈴木さんに招き寄せられ、近付くと鈴木さんが膝を曲げて――わたしよりもずいぶんと背が高いので――その首に両手を回すように指示をされました。いえ、それが必要だということは理解しています……それとこれとは、少し違いますよね?
「早く」
「は、はいぃ……」
ぎゅう、と自分から抱き着く形になってしまいました。そこへまた、鈴木さんの左手が回されて腰を抱かれます。ひえぇ……。
鈴木さんはそのままとんっと後ろ跳んで、落とし穴へと身を投げました。突然の浮遊感とその直後の重力による落下で、視界が一気に滑っていきます。
「ふぅぇぇぇぇっ」
途中で、がくん、と一度、止まります。しかし、もう一度、浮遊感がきたと思うと、また視界が滑ります。
「ふぅぇぇぇっ」
それを繰り返して、落とし穴の底が見える位置に。底には3体のゴブリンがびくりびくり脈打ちながら横になったまま悶えています。
「あれ、トドメ」
「トドメですか」
「うん」
「わかりました」
そう答えるとまた視界が滑って、鈴木さんが床に足を着きます。抱えられているわたしは慣性で、抱き着いたまま、密着している部分で鈴木さんをすりおろすように滑り落ちました。それでも、足が床に着くことはなく、鈴木さんに抱きかかえられたまま、最後はそっと下ろして頂きました。足には微塵も衝撃がありません。紳士です……。
……これは、お互いに革の胸当てを付けているとはいえ、なかなか精神的に恥ずかしいものがございます。密着し過ぎです。特に、鈴木さんが全く何も気にしてらっしゃらないように見えるところがある意味では拷問です。胸当てがなければ心音がどれだけ大きく伝わったことでしょう。今、わたしは、自分のこめかみの血管が脈動しているのをはっきりと感じていますから。
おそらく、トレインから一連の何かが吊橋効果のように……いえ、認めた方がいい気がします。命の恩人です。ちょっとアレな方ですが、背も高く、学年首席で、秘密となりましたが既にマジックスキルが使えて……あれ? これ、とてつもない優良物件では?
「トドメ」
「……っ、はい!」
……いけません。わかりましたと答えておきながら、ぼうっとしておりました。
わたしは腰から外したメイスでトドメを刺すと、魔石を回収します。そのうち1体は魔石だけでなく棍棒もドロップしました。ガイダンスブックでは武器がドロップするのは珍しいと書いてあったので驚きです。ショートソードをメイスに変えたことで運の巡りが良くなったのかもしれません。
鈴木さんが拾っていた魔石とナイフを2振り、渡してくれました。はて? どういうことでしょう?
上で預かった分と合わせて、魔石16個、棍棒1本、ナイフ2振りがわたしの両手にあります。おかしいです。ギルドから移動して、わたし、ほぼ動けない瀕死状態のゴブリン3匹をメイスで殴っただけです。それなのに、ゴブリン16匹分のドロップアイテムがあります。武器のドロップは珍しいと書かれていたのですが、棍棒だけでなくナイフまで、しかも2振りも……何かの間違いでしょうか……。
「あの……?」
「これが、トレインからの落とし穴落とし」
「落とし穴、落とし? 鈴木さんはこうやって、魔石を集めていたのですか? これも、秘密ですか?」
「そう。契約。絶対に秘密で。で、さっきの話」
「さっき?」
「魔石は8個ずつ、ナイフは1本ずつ、棍棒は換金してから折半」
「いけません! それはおかしいです。わたしはその……小脇に抱えられたままでしたり、前方を警戒していただけでしたりで、戦闘はしておりませんし、瀕死のゴブリンにトドメを刺しただけで……」
「でも、それがパーティーで、ちゃんと協力、してる」
「ですが……」
「それなら、どう分ける? 月末までに15万円必要なのに」
「っ……」
……確かにそうです。魔石8個。ゴブリンのものは百円だったと思います。八百円。どこかそのへんでアルバイトをした方が余程稼げるでしょう。残念ながらヨモ大附属ダンジョン科は成績優秀者にしかアルバイトを許可しておりませんし、無許可でのアルバイトは見つかれば退学です。ダンジョンで稼げぬダンジョンアタッカーになるべからず、が科訓ですから。
落とし穴落としを1度で八百円。あと2、3回はできるとして――その場合、また、鈴木さんに荷物のように運ばれてしまう気がしますが――1日で二千四百円。授業がある平日は1度くらいでしょうか。平日八百円、休日二千四百円で週に六千四百円、残り3週間で約二万円……ナイフや棍棒が売れたとしてもショートソード3本分15万円には到底届きません……。
「半々というのは、気が引けます……ですが、その、借金のことを考えると、半々でも足りないかと……鈴木さんのご負担ばかりが増えてしまいます……」
「借金は簡単」
「え?」
「僕から借りればいい」
「そんなことはっ……」
「結局、返すんなら、同じこと。期限がちょっと長いだけ」
「それは……」
確かにその通りです。なるほど、鈴木さんはそうやって、既にわたしを助ける方法を見通してらっしゃったのですね。
「だから、パーティーとしての分配は、通例通り、半々でいい」
「それは、力の差があるので……鈴木さんが7、わたしが3……いえ、8と2でも……」
「計算が面倒」
「そうでしょうけれど、それを言われると……」
「僕が提案しても?」
わたしがどうしても遠慮する立場なので、今まで提案するのをためらってらっしゃったのでしょう。でも、なかなか決まらないので意見してくれるのでしょう。
「はい。鈴木さんのご意見に従います」
「じゃ、魔石は折半で余りは持ち越し。魔石以外は僕の総取り。僕がかなり有利だけど、それなら気は済む?」
「魔石の折半も心苦しいのですが」
「本来ならペアのパーティーは全て折半」
「ぐ……わかりました、それで鈴木さんがよろしいのでしたら」
「よし、それじゃあ、簡単なものだけど、法的には有効だから、すぐに契約書を作ろう。ちょっと待ってて、そんなに時間はかからないから」
「え、あ、はい」
……ダンジョンで戦闘中の言葉数の少ない鈴木さんが、ギルドや保健室での滑らかに口が回る鈴木さんへと変身しています。
鈴木さんは本当に契約書を作りました。この床に座り込んで。つい先程までゴブリンの死体があったところなのですが、気にならないのでしょうか?
それと、なぜ小鬼ダンジョンに紙とペンを持ち込んでいるのでしょうか? ここは全マップ探査済みで、ガイダンスブックに地図が3層まで全て書かれています。マッピングは必要ありません。
鈴木さんが書いた契約書の内容は『このパーティーでは、ダンジョンアタック中に得られた全ての物品等について、以下にある通り分配する。ひとつ、魔石については甲と乙で折半とする。端数は次回のダンジョンアタックに持ち越し、そこで得られた魔石と合わせて折半する。ひとつ、魔石以外のダンジョンアタック中に得られた全て物品等は甲の物とする。ひとつ、この契約は甲と乙の協議による互いの同意を得たら新たな契約を結ぶことができる。新たな契約が結ばれたらこの契約は破棄する。ひとつ、このパーティーが解散した場合はこの契約を破棄する』です。さっき鈴木さんがおっしゃったように書かれていると思います。鈴木さんが甲のところに署名し、わたしは乙のところに署名しました。
なんでしょう。甲、とか、乙、とか、そういうのを見ただけで自分が少し大人になれた気がしました。
「さて、それじゃこの袋をダンジョンアタック用の魔石用の袋にするから、岡山さんはどれだけの魔石を得たのか、メモを残しておいて。時間がもったいないから、分配は僕が家に帰って済ませる。それを監査する意味もあるから、獲得魔石数の記録はしっかり残して。紙とペンがないなら貸す。とにかく、ダンジョンアタック中に分配の時間を取るくらいならダンジョンアタックの時間を伸ばそう」
「……あの? ガイダンスブックには、戦闘回数の制限があるので、ダンジョンアタックの時間は長くても2時間程度、と書いてありましたが? 分配の時間はいくらでも取れるのではありませんか?」
「時間がもったいないから、端的に言うけど、戦闘回数の制限なんて、ダンジョンをよく知ってる人ほど言われた通りに守ってないと思うな。そもそも、全員がその回数を守ってたら、なんで成績に差がつくの? なんで1組と4組が成績順に分けられるの?」
「それは……筆記などの座学の差なのではありませんか?」
「ヨモ大附属に入れる人の座学に差なんかほとんどないよ。全国から優秀な人がすごい倍率を抜けて集まってるのに」
「あ……」
「ああ、推薦がある高校からは座学が苦手な人もいるかも。でも、その推薦の人は、僕が知ってる人だと、剣道で全国大会3位。そういう戦闘力で人を選ぶってことは、ダンジョンで差がつくってことじゃないかな? 違う? 一般入試にもスポーツテストがあるし」
「言われてみれば、そう、かもしれません」
「僕の考えでは、まじめに言われたことを守っている方が成績は低くて、自分の戦闘回数の制限のギリギリまで攻めた人の成績が高いと思う」
……なんということでしょう。ルール違反が推奨されているように聞こえます。まるで悪魔のささやきです。
いえ、違いますね。ガイダンスブックを読む限りでは、戦闘回数の制限はダンジョンでの安全の確保のために行われていること。初心者の戦闘可能回数はおよそ十回。だから、戦闘回数の制限は5回。戦闘5回でダンジョンを進めるところまで進んだら、そこからは折り返して……あ、折り返しでゴブリンに遭ったら戦いますね。限界は十回なので、帰りも5回は戦えるはず。帰りの戦闘を偶然こなすかこなさないかで差がつくのではなく、帰りで、安全を確保しながら、いかにギリギリまで戦うか、ということでしょうか。
つまり、戦闘回数の制限というのは、あくまでも探索深度の制限、でしょうか? 6回以上、戦う必要があれば戦わざるを得ませんから。
……いえ。もうどうでもいいです。よく考えてみたら、戦闘回数1回で、戦闘回数16回分の成果を鈴木さんは生み出してしまう人でした。考えるだけ無駄ではないでしょうか。
「納得したら次、行くよ」
「はい」
納得した訳ではありませんが、そう返事をして、すぐ気づきました。また、ロープを上るのに抱きしめられてしまうことに。自分の意思とは関係なく、顔が熱くなってきます。
お、落ち着きましょう……え? 鈴木さんが、脱出用のロープを波打たせて、取り外してしまいました。あれ? たたんでウエストポーチに片付けています? なぜですか?
「メイスの準備。それと、そこに立って、壁に背中を合わせるようにして。でも、体重はかけない。いい? 気をつけて?」
「え、あ、はい」
わたしにそう言った鈴木さんは、ショートソードはまだ抜いていませんが、メイスは左手に握って……あれ? 契約書は右手で書いていましたね? はて? そういえばメイスを持っていてなぜショートソード?
「今、背中を合わせてる壁は実は隠し扉。もちろん秘匿情報だから秘密。回転扉だからこの体勢。中は隠し部屋で入ったらすぐ戦闘になるからそのつもりで」
「は、はいっ……」
ついに戦闘です。あれ? もうダンジョンに入ってそれなりの時間になりますね? どうしてここにきてようやくついに? わたしの頭は大丈夫なのですかね?
いえ、それも気になりますが、体が半分ほど重なって……あの、鈴木さんの背中には防具がないので体温が直接……くうぅぅ……こ、これは、今日、保健室でもこのダンジョンでも何度も思いましたけれど、これが、これこそがリアルな『ドキ☆ラブ ダンジョン学園 ~ラブ・クエスト・モーニング・キッス~』全十二巻の世界なのではないでしょうか。小説版も好きですが、コミックで視覚化された紙面から伝わるあのドキドキが、今、ここに実際に生身の温度をもって3Dで存在しているのでは……。
はっ! いけません! 今から戦闘だと言われましたのに!
「じゃ、行くよ」
「はいっ!」
ぐるり、と壁が回転して、視界がこれまで見ていたところとは別のものになっていきます。忍者村で回転扉を経験しておいて良かったです。
中には、中央に大きいゴブリンがいます……いえ、それでも、まだ、わたしの方が大きいですよ? わたし、一応、身長百五十センチと言い張っておりますから!
と、既に鈴木くんは駆け出して、あれ? ショートソードを右手で抜き……。
「グゥギャオオオオオゥゥッッ!!」
あ……あ、れ、か、らだ、が、ふる、えて、メ、メイ、ス、お、とし、て、こ、これ、ひろ、わな、いと……あ、むり……た、てな、い……。
「バスタードソード、ドロップしたから、約束通り……っと、フィアーか」
「ふぃ、あー? そ、れは何ですか? あれ震えがおさまってます?」
「……意外と早いな」
「え?」
「いや。ゴブリンソードウォリアーの雄叫びはフィアー、恐怖状態に陥れるスキルで、それを喰らったんだよ」
「え? 恐怖状態? あ、あれ? あの大きなゴブリンは?」
「もう倒した。バスタードソードもらうよ」
そう言った鈴木くんは一本のショートソードよりも長い剣を壁に立てかけました。確かに大きいゴブリンはいなくなっています。え? 早過ぎませんか?
「立てるなら、あっちに行こうか。椅子があるし」
「椅子?」
そう言われてわたしは立ち上がり、鈴木さんが示した方向を見ました。
「たっ! 宝箱っっ! えっ!」
「あれは椅子。宝箱に見える椅子だから」
「そ、そうなのですか?」
その言葉通り、鈴木さんは宝箱の右側に座って、わたしを左側へと促します。あれ? 宝箱の上にキッチンタイマーですか? なぜこのようなところに?
「キッチンタイマーがどうしてここに?」
「持ってきた」
「へ?」
「さっきの、ボスモンスターが5分でリポップするから。ゆっくり休憩できる時間を測るため。休憩し過ぎて油断するとさっきの岡山さんみたいにフィアーを喰らうし」
「油断してない場合、鈴木さんは恐怖状態にならないということですか? あ、いえ、そうですね。そのまま倒してしまわれたのですから」
鈴木さんの戦闘、見たかったですね。それどころではありませんでしたが。
「ここはボス部屋なのですか?」
「いや、隠し部屋」
「それでは、ボスモンスターではないのでは?」
「ボス部屋に、あいつと全く同じモンスターがいるから。まあ、厳密に言えば岡山さんの言う通り、ボスモンスターではないかな。でも、魔石も、ドロップする武器も、同じ。別にボスだろうがそうでなかろうが関係ないかな。次は、広島さんも一撃入れてみよう。背中側からどこでもいいから殴る」
「岡山です。背中側から? あの、恐怖状態になったら……」
「大丈夫。リポップしてから5秒間は動かない。その隙に1発だけ殴って逃げる」
「動かないのですか?」
「さっきと同じで、僕たちが入ってきた隠し扉から見て、宝箱を守るように立つから、こっち側で立って待てばいい。で、殴ったら、バックステップで宝箱の真ん前に」
「宝箱?」
「あ、椅子だった」
「本当は宝箱なのですね?」
「……あははははは」
「笑いがわざとらしいです」
「まあ、実は、この宝箱を開けるとこの部屋でボスがリポップしなくなるから、椅子だと思って開けないようにしないとダメなんだ」
「そうなのですか? どうしてそのようなことが鈴木さんにはわかるのですか?」
「今から時間はたっぷりあるから、ゆっくり話すのは後で」
「ゆっくり? 時間がある?」
「寮の門限は原則19時だったよな?」
「はい」
「なら、ここのラストは18時、っと15分にしようか。それで間に合うはず」
わたしは腕時計を見ました。今、10時54分です。
「……ここでリポップを待ちつつ、18時15分までのおよそ7時間ずっと、戦い続けるということでしょうか?」
「だな」
「滅茶苦茶です……」
「でも、それくらいやらないと、借金を返せないと思う。実際、僕はそうして、さっきの魔石を稼いだんだから」
「……鈴木さんは、この部屋の秘密を知っていたから、わたしの退学を防げると考えたのですね?」
「うん」
「それなら、わたしは鈴木さんに従うだけです」
ピピピっ、ピピピっ、と鳴ったキッチンタイマーを鈴木さんが止めました。
「準備するから。さっき言われた位置でメイスの素振りを」
「はい」
「合図したら攻撃してバックステップ」
「はい」
それで話は終わって、鈴木さんは私の右側前方に位置します。
メイスの素振りをします。ショートソードと比べると、ずいぶん軽い気がします。……どう考えてもメイスの方が構造的に重いはずなのですが?
わたしが不思議に思って首を傾げていると、目の前の足元に魔法陣が現れ、黒いもやのようなものが噴出して、渦を巻き、竜巻のように上昇していきます。そのもやの中に、さっき見た大きなゴブリンがうっすらと姿を見せ、それが少しずつ色を増していきました。
ぶるり、と一度、震えがきました。コレの叫びに、さっきはまともに動けなくなったのです。怖さはあります。その怖さを受け止めなければなりません。
今からわたしがするのは、ごくごく簡単なことです。鈴木さんに言われた、1発殴ってバックステップ。それだけです。できます。できるはずです。
「スタートっ!」
わたしはメイスをボスの背中に振り下ろしました。びっくりするほどいい感触、というのも変ですが、しっかりダメージが入った気がしました。そしてバックステップ――。
「うっ……ひゃあっっ」
バックステップが思っていた以上に大きくなり、そのせいでかかとやふくらはぎが宝箱の側面に当たってしまい、そのまま背中から宝箱の上にいわゆるブリッジの姿勢になるように転倒して、さらには宝箱の向こう側へと後転しつつ落ちてしまいました。
……もちろん、わざとではありません。
駆け付けてくれた鈴木さんが、何かを拾いつつ、わたしの手を取って引き寄せ、立たせてくれました。ああ、こんなシーンが『ドキ☆ラブ』にもあった気がします。でも、さすがに後転はしてなかったかと思います。ダンジョンの神様はほんの少しいじわるなのでしょう。
「はい、眼鏡」
「あ、ありがとうございます」
わたしは受け取った眼鏡を慌ててかけました。素顔を見られてしまいました。恥ずかし過ぎます。
でも、もう認めてしまっても、いいのかもしれません。たとえそれが勘違いだったとしても、これはもうきっと、恋なのでしょうから。
「また、鈴木さんの戦闘を見逃しました」
「次は気をつけてれば?」
「そうします」
この日は、本当に、夕方まで、この部屋でボスを狩り続けました。最後の3回は、わたしの単独戦闘というとんでもない地獄の特訓が待ち受けているとは、教えてくれなかったダンジョンの神様を恨みたいと思います。神様は恨んだとしても、鈴木さんのこの厳しさはきっとわたしへの愛なので受け止めます。
そして、鈴木さんが話してくれた、この3日間の真実。偶然とはいえ、わたしの不幸の原因が鈴木さんにあるかもしれないこと。そして、今朝、助けてくださった後のこの部屋での出来事と、わたしを鍵呼ばわりした理由。衝撃的でしたが、自身の不利になることを正直に話してくださった姿にわたしはますます……。
他にも、実は戦闘中に寝ていても同じ場所にいるだけでその人が強化されてしまうこと、それをさっきまでのわたしの、何もない通路で転んだり、思ったよりもフィアーからの回復が早かったり、宝箱で後転したりしたことから確信したそうです。
暇になるボス戦の合間の時間に岡山ブートキャンプとか鈴木さんが言い出してしまい、素振りやダッシュ、反復横跳びなど、トレーニング的な動きをわたしにさせることで、強化された運動能力と、わたしがわたし自身に対して持っている運動能力のイメージを修正するなど、鈴木さんは本当にすごい人です。だって、わたし、ボス、倒してしまいましたから。
もちろん、いいところばかりではありません。
何度目かの戦闘をこなすと、呼吸が荒く、動きが辛くなる瞬間がありました。その時には「これ、飲んで」と渡されて、言われた通りに飲むと体が楽になっていくのです。
わたしがすごいです、すごいですと喜んで、その後も体調がおかしくなる度に飲ませてくださいました。時々、鈴木さんも飲んでいましたので、特に疑問には思いませんでした。
ところが、これでこの部屋を出る、という時に、「ああ、あれ、スタポ。1本1万円だから。今日は6本飲んだよな? だから6万円の貸し」と言ったのです!
もしも鈴木さんのことを好きになってしまっていなかったら、きっと「詐欺です」と叫んだことでしょう。でも、今は、その借金さえも、鈴木さんとの繋がりのようで、嬉しく思ってしまう自分がいて、しかもそんな自分が自分で好きなのですから、どうしようもありません。
ダンジョンは、ナチュラルな吊橋効果を発揮しているのではないでしょうか。夏休みの課題研究のテーマにしてみるのもおもしろいかもしれません。その時は参考資料として『ドキ☆ラブ』を堂々と学校に持ち込みましょう。
その前に、退学の危機を回避しなければなりません。退学すると鈴木さんとは離れ離れです。そんなことには絶対になりたくありません。なんとかしたいと思いつつもどこかあきらめていた、今朝までのわたしはもういません。
でも、隠し部屋を出たら実は3層だと教えられ、無駄に装飾された最奥のボス部屋に入り、さっきまで何度も倒していたボスを改めて別の部屋で倒して、転移陣で入口へと戻りました。
わたし、小鬼ダンジョンをクリアしてしまいました。
それなら、たかが15万円の借金なんて、どうとでもなるような気がしませんか?
わたしは鈴木さんに送られて女子寮へと歩きながら、鈴木さんとの出会いに、心から、心から感謝を致しました。
明日も朝7時45分から、小鬼ダンジョン前広場に集合です。朝から鈴木さんと! 朝練だそうです。もう、今夜は眠れるのでしょうか? 今から明日が楽しみでなりません。そんなことを思ったのは、この高校に入って、初めてのことでした。