趣味版・鬼火の行方
ほう、ほう、と静謐な灯が揺れる。それは蝋燭の炎のようであり、祝祭の提灯のようでもあり、湖畔の蛍のようでもあった。
近づいてみれば、錦燈籠のようにまあるい泡の中に幻影が映写されている。どうやらその様子が、ちらりちらりと揺れる光の正体らしかった。
「ここは……?」
薄明りに照らされてぼんやりと霞む頭を振り、僕はあたりを見回す。
漂う光の泡以外には何もない。ここへ来るまでのことも思い出せない。迷い子とは実に心細いものだと僕は肩を落とした。
ただ、自らがもう『この世』にはいないのだという不確かな事実だけが明瞭に輪郭を帯びて体中を支配している。
不思議なものだ。何もかも忘れているというのに、最も忘れていたいことだけを覚えている。生と死の概念と、それに付随した幾つかの感覚と。
僕はそれらを光る泡に照らし合わせて追憶する。なぜ、死んでしまったのか。どうして、ここへ来たのか。けれども脆弱な信号はかちりかちりと振幅するだけである。問いかけに答えられるほど、泡のひとつひとつは質量を持ってなどいなかった。
「どうしたんだい」
やわらかな声が耳をつく。それは、今までにない新たな感触。心の奥底をざわりと揺らめき立てるような、心の内側に潜むひび割れに爪をかけられたような、妙に引力を孕んだ声だった。
開いてしまいそうになる心をきつく閉じて、僕は声の方へと振り返る。
「……誰?」
美しい人だった。とても同じ命を抱えているとは思えなかった。抱えている腑も、通っている血も、纏う膚も。何もかもが違う。それでいて、心だけは空虚で実態のない夢幻を投影したような姿だ。
「みなは、私を『鬼』と呼ぶんだ。そして、ここのことは『かくりよ』と」
「かくりよ……」
ずきんと頭が痛んだ。砂嵐に表面が擦られ荒く削り出されていくように何かが記憶を這いずり回る。剥き出しになったのは誰ともつかぬ穏やかな声が謳うように告げた御伽話で。
『この世とあの世をつなぐ、かくりよという場所があるの。良い子にしていたら、そこで生まれ変われるのよ』
だから、また会いに来てね、と誰かが言った。木漏れ日のような暖かさだった。
「僕は、生まれ変われる?」
どうしてだか、そうだと肯定して欲しかった。そうでなければ、報われなかった。
「迷い子か。……ふむ。君ならば、道は選べるだろうね。いくらでも、望むままに」
鬼と名乗ったその人は刹那に微笑を浮かべる。あまりにも整い過ぎた美は、恐ろしく形骸化されたもののように捉えられた。瞳の奥に寂寞と哀愁が同居していることには見て見ぬふりをした。
鬼は伽藍洞に振舞っているのだ。その洞に広がる無数の暗闇が余計に鬼の凶悪な美の根源であり――唯一の人間性だと僕は鬼との距離を測る。
うまくやっていけそうになかった。鬼に関わると底なし沼のように、永い時をここで過ごさねばならなくなりそうだった。
僕は、ここを早く出なければいけない。
かくりよは、死という概念から最も遠い甘美な楽園だった。
「道案内をしてあげよう。君は、過去をなくしているようだから」
僕の思慮とは裏腹に鬼は僕の手を引いた。引かれているのに、その感触がないというのはどうにも落ち着かない気分だった。
「どうやって、記憶を見つけるの」
「この泡を辿ってゆけばいいよ。そうすれば、いずれ思い出す」
「……僕の記憶なのに、君の方が詳しいなんて不思議だ」
それは少しの羨望と嫉妬。僕は、鬼のことを何ひとつとして知らないというのに、鬼は僕の全てを見透かしているようだった。僕の前世も、さらにその前のことも。僕の空白を埋める破片が鬼の手元にあるような気さえする。
「鬼とはそういうものなのさ。かくりよにきた魂を案内するのが鬼の役目だからね」
「それじゃあ、君はずっとここにいるの」
「さぁ……それはどうだろう」
誤魔化すように目を細めた鬼は泣いているように見えた。孤独に咲き誇る花は散ることも叶わないのだと僕はこの時、初めて知った。
鬼は僕から顔を背けて、ふわりと軽い足取りで前を行く。光る泡に導かれるように。
引かれた手を握り返して、鬼と共に光を追いかけた。
泡沫に僕とよく似た人物が浮かび上がっては消えていく。
「これは、生きていた時の僕?」
「そうだね。こうして君の記憶を追体験すれば、君が君で在った日に還ることが出来るはずだよ。今はまだ思い出せないかもしれないけれど、過去にさかのぼって、生まれるところまでたどり着いたら『あの世』だ」
「あの世……」
「魂の行く先さ」
鬼の言葉は酷く優しく、突き放すように冷たかった。
「……君の記憶は、どこにあるの」
「さぁ、どこだろう」
鬼は再びゆらりと口角を上げた。美しく整った眉が下がっていて儚く見える。
光る泡の隙間を縫うたび、僕の記憶が解けていく。
なるほど、還るというのはこういうことか。
僕の中の何かがぐるぐると糸のように束ねられていく。長く張り巡らされていたそれが次第に小さな円になっていくような感覚は、自然と僕の歩調を速めた。
気づけば僕が鬼の手を引いて前を歩いている。鬼はそんな僕の後を静かについてくるばかりで、はじけた泡が光の粒となり、どこか遠くへと昇っていくたびになんともいえぬ朧げな瞳でそれらを見送っていた。
やがて、僕は何百、何千と見た光の泡の一端で足を止める。
懐かしい。内から体を焦がすような感情が溢れ出て、うまく言葉にはならなかった。
「……誰?」
名前すら知らぬ女性が、僕をやわらかに抱きしめている。何かを謳うように小さく口が動いている。その声が聞こえればどれほど良いか。彼女の腕の暖かさを知っている。彼女の清らかな心を知っている。彼女にどれほど愛されていたか――知っている。全て。全て。
「先に往けばわかるさ」
鬼の声色は長閑で、この先に別れが待っているとは思えなかった。
僕の記憶が戻るたび、鬼は孤独へと近づいていく。死の概念のない、かくりよで。
「生まれ変わるための道を、選べるんだよね」
「あぁ。君には、いくつもの道がある」
訪れる寂寞に蓋をする。彼との別離を惜しんでしまったら、僕は生まれ変わることも出来ないのだから。
代わりに、そこへ着くまでは鬼の手を離さないでおこうと思った。ぎゅう、と強く握っても、彼の手の感覚はない。
だから、鬼が手を離したことに気付かなかった。
「……母さん」
口からほろりと零れ落ちた瞬間のことだ。鬼の姿が光の散乱に揺らめいて、陽炎のように靄がかった。
光の泡に投影された母との記憶。彼女の死。追憶が終わる。僕はどうしてここへ来たのか。母とはぐれて死んだのだ。ここはかくりよで、僕は生まれ変わる。この先のあの世で。
「思い出したんだね」
鬼の声は甘美で妖艶。死から最も遠く、けれども端に最も近い。
――あぁ、だから僕は鬼が嫌いだ。
「さあ、あと少しだ。君を導く場所を見つけた」
鬼はもう手を引いてはくれなかった。僕の前を歩くこともしなかった。白磁のように滑らかな指先で光の泡に照らされた一本の道を指し示す。
「母さんのもとへお帰り。ここを進めば、君は母さんに会えるよ」
それは別離の言葉。
「……ありがとう」
「さ、お行き。ここに長くいてはいけない」
「……また、会える?」
「もう二度と、会わない方がいいのさ」
鬼が僕の背中を押す。やっぱりその感触はなくて、それでも僕の体は無情にも前へと進んだ。
「ありがとう」
僕は振り返らない。どうしてか胸がいっぱいになって、瞳から涙が零れ落ちても。僕は全速力でその道を進む。鬼の示したあの世へ向かって。
一粒の雫が頬を伝って明滅する光の中に消えていく。
それらは泡となり、やがて、かくりよの光となった。
ほう、ほう、と静謐な灯が揺れる。それは祈りのようであり、宴のようでもあって、小さな命のようでもあった。




