落ちる
Nさんには嫌いなものがあった。それは眠るときに襲ってくるあの嫌な感覚だ。
もうすぐ眠りに入るという時に起こる、どこか下へと落ちていく感覚。その感覚に反応して全身がびくっと震えるあの瞬間が耐えられないのだ。その後心臓の鼓動が早くなり、かえって目が覚め眠れなくなるのも嫌だった。
特にここ数週間、布団に入ってから何時間も眠れないという日が続いている。仕事のストレスか、はたまた彼女と別れてしまったことが原因なのかはわからないが、眠いのに眠ることができない。
一度眠ってしまえば朝までぐっすり眠れるのだが、眠るまでの時間が長い。早く寝ようと思ってもすぐには眠れず、結局寝たのは夜中の2時頃だ。寝つきが悪いだけなのかもしれないが、心地いい眠りに誘われているときに入るあの横槍は確実にストレスを与えていた。
ついにNさんは友人の一人、Mに寝つきの悪さについて相談することにした。よく眠れる方法はないものかと聞いてみると、友人は一つの薬瓶を取り出して言った。
「これを寝る一時間前に一錠飲んでみろ。そうすれば一時間後、一度でも横になればすぐに眠ることができる。」
「怪しい薬じゃないだろうな。」
「大丈夫だ。ネットで買ったやつではあるが、俺も眠れない日に飲んで効果は確かめている。俺はまた買うから遠慮せずもらってくれ。」
その夜、訝しみながらもNさんは薬を飲んだ。
一時間後、テレビを観ていたNさんは軽い眠気を感じ始めた。そのまま布団に入るとNさんの意識はなくなり、気がついたときには朝になっていた。これはすばらしい、と久しぶりの快眠に喜んだNさんはそれから毎晩薬を飲み続けた。
そんなある夜のこと。Nさんはいつものように薬を一錠飲み、特にやることもなかったので一時間経つまで横になって待つことにした。もうすぐ一時間というところで、身体が傾き下に落ちるような感覚が襲ってくる。いつもなら身体が反応して目が覚めるところだが、今日は違った。そのまま身体は抵抗することなく意識が薄れていく。ああ、今落ちているなと思いながらもNさんは眠ったのだった。
目が覚めるとそこはNさんの家ではなかった。どこを見ても真っ白な空間が広がっていて、床に座っている人が十数人程度確認できる。Nさんは混乱したがこれは夢かもしれないと思い、近くにいた人に話しかけた。
「すみません。ここはどこなのですか。」
「……ああ、あなたも落ちてこられたのですね。私にもここがどこだかさっぱりわかりません。ただ一つだけ言えるのは、ここからは出られないということなのですよ。」
「なんだって!」
Nさんは出口を探したが、どこまで歩いても壁はみつからずただ座ってこちらを見る人々を見かけるだけだった。Nさんが嫌っていたあの感覚は、ここに落ちないよう抵抗した身体の防衛機能だったのかもしれない。歩き疲れたNさんはそのまま床に座り込んでしまった。
寝るという行為は昔から少し恐怖を感じてしまいます。その恐怖を少しでも表わせていたらいいなと思います。