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きみのいない星

ずっと遠いところで鐘の音が鳴った。音は繰り返し鳴り響きながら、薄い暗闇の中を近づいたり遠のいたりしている。時間はちょうど真夜中、0時を過ぎた頃。窓の外の世界は平等に言葉を失って、視覚も聴覚もみなベッドの上に置かれている。時折、車のエンジンを蒸す音、それから救急車のサイレンが離れていく音が聞こえる。黒猫が跳ねる様にジャンプをしてしたりと僕の体に近付き、「大丈夫ですか」と耳元で囁く。僕はゆっくりと瞼を開けて、意識を浮上させようとしている。まぶたがわずかに痙攣していて、手のひらで軽く撫でる。腕を顔まで持っていくことすら、ひどく億劫で体は鉛の様に重たい。それでも瞳は確かに開いて、眠りたいと願っているのにもう一度眠りにつくのは難しいのだと悟った。


デジタル時計で時間を確認する。起きている時最後に時計を確認してから、25分が経過していた。その隣には木でできたアンティーク調の時計が転がっている。「時計、プレゼントするのって、その人と生きていきたいって意味なんだって」そういってこの時計を差し出してはにかんだ君の横顔を僕はけして忘れないと思った。今、ふとその顔を思い出そうとして、ぼんやりとする暖かい記憶の中で君はもうそこにいないことを知った。時計はカチカチと秒針を刻む音が耳障りに鳴ってしまって、いつだったか僕が電池を抜いてからは時を刻むことをやめた。

ソファでうとうとしている間に、僕は眠っていたらしかった。暖房を入れようとテーブルの上リモコンを探すが見つからない。とにかく寒気から逃れようと冷え切った足の指先を使い古した柔らかい毛布にくるめて手のひらで擦りながら、窓の外をぼんやりと見つめる。薄く白い三日月、目を凝らしてようやく見える星、チカチカと点滅を繰り返している電波塔。その小さな光が眩しくて遮光のレースカーテンをそっと閉める。部屋のベッドライトすら僕には眩しく、今この部屋をなんとか認識させているのは、レースカーテンからごくわずかに入るその小さな光のみだった。部屋は簡素で古いスプリングのベッドと2人がなんとか座れるだけのソファに小さなテーブルが付随している。それ以外はほんとうに何もない。氷みたいに冷たいフローリング、ミニキッチンがあるが何も揃っていない。包丁もハサミもない。湯を沸かす古びてへこんだポットがあるくらいだ。

「さむ」

冷たい脚を折りたたんで、自分の腕の中に引き寄せる。心臓の近くは辛うじて温もりを感じられた。もう一度眠れるのではないかとまぶたを閉じると先程見ていたらしい夢が思い出された。人がいとも簡単に跳ねる。車の急ブレーキの音、どんと鈍い衝撃音と、自分じゃない誰かの悲鳴。僕は何も出来ないで、歩道橋からその一連の流れを眺めている。そんな、夢。はねた血がワンボックスカーのライトに付着していて、それを眺めているとそのタイヤの下からじんわりと赤い液体が滲み出てくる。気がつくと、それは歩道橋に立っている自分の足元まで流れ出してきていた。僕は顔をしかめ、ぬかるむ地面を靴で軽く撫でる。ただ、それだけの。それだけのゆめ。もう何百回とみたその夢。そして、僕は見るたびに何度も思い出す。一昨年の冬、彼が交通事故で死んだことを。

「あら、起きてたの?」

マグカップを両手で持ちながら、僕の顔を死んだ彼が覗き込む。一昨年の冬、彼は確かに死んだ。そして、幽霊になって僕の前に現れたのだった。

「ホットミルク、蜂蜜入れる?」

「うん」

「からだ、あっためたらよく眠れるよ。きっと」

「眠れなくて、良いよ」

ふにゃりと笑う彼が差し出した青いマグカップを受け取った瞬間ぴたりと指が微かに触れる。彼はぴくりと小さく手を震わせて、それから気付かれないようにそのまま俯いて微笑んだ。幽霊でも指は触れる。水で湿ったような冷たくてそれでいてひやりとする感触。幽霊でも食べることもできるし、お酒も飲める。もちろん、ホットミルクも。幽霊でも、指を触れる。ハグも、キスも、その先も全部。

「ふふ、幽霊みたいに冷たい手だね、あなた。幽霊じゃないのに」

「本当に、まるで」

まるで、自分の方が死んでいるみたいだ。口の中に含んだミルクはすぐに温度を

失って、冷たくなっていく。つんと頰にあたる何かに顔をあげると彼が笑っていた。

「俺があっためて、あげよーか?」

「どういう意味よ」

「どういう意味でも、あなたの好きなようにとってくれていいよ」

茶化す様な瞳に、けたけたと笑うその笑顔につられて、僕も声を上げて笑う。そうしたら彼はそんな僕を見て、また嬉しそうに笑った。笑い声はだんだんと小さくなっていってもまだ頰に笑顔が残っていた。冷たくてでも生ぬるい温度が左手の薬指を柔く撫でる。その温度が消えない様に、今度は僕が強く握ろうとする。そうすると、彼の指は蛇の様にするりと離れていこうとするから、僕はその掴み損なった指の先に手を伸ばして、肩を引き寄せ抱き締める。「ちょっとォ」と少し怒った様なそぶりをするけれど、胸を押し返そうとする手はだんだんと抵抗する力を失って、しばらくするとぎこちなさげに僕の背中に回っていった。

「仕方ないなあ、甘えん坊なんだから」

「うるさい」

「ほーらー、こわいかお、してんよ」

「ん」

「さみしいの?」

「ん」

「かなしいの?」

「……ん」

いつになれば、あの夢を見なくなるのだろうと考える。あの夢のつづきで僕はまだ呼吸している。この呼吸が苦しくなくなるのはいつか。穏やかに夜が眠れる様になるのはいつか。彼の手が温もりを取り戻すのはいつか。ありはしない。そんなことは、わかっている。それでも、生きていくと決めた。この残酷な世界で。

「なかないで」

うう、と僕のだらしない嗚咽が漏れる。彼は優しく頬とまぶたを撫でて、それから交互にキスを落とした。

「……っ、あいしてる」

嫌になる程。どうしようもなく、恋しい。

「おれもよ」と彼は自分の目をしっかりと見て涼しい顔をしてそういった。それだけで、僕はまた涙が止まらなくなって、そんな僕を彼はまた笑った。満たされている呼吸ができなくなるほど胸がいっぱいになる。「あなたの、その心はたくさんの穴ぼこがあって、注いでも注いでも流れ出していっちゃうんだろうね」「だったら、おれはそれ以上にたくさんのものをあなたに注ぐよ。あなたのお腹や胸がぱんぱんになるまで、もういらないっていっても、ずっと。ずっとあなたにあげるよ」彼はぎゅうと僕を痛いほど抱き締めた。

幸福であればあるほど、泣きたくなるのはなぜだ。まぶたをぎゅっと閉じて思考をクリアにする。雑念を頭から払い除けて、空いた穴に優しい記憶だけを詰め込む。それだけでいい。それだけで明日も生きていける。どんな視線も、どんな場所にいたとしても、自分がどう思われても構わないと強く思う。そこに彼がいてさえすれば、この世界がたとえどんなに残酷だったとしても、眠れない夜も呼吸の出来ない職場も生きていこうと思った。

「しぬまで、一緒にいましょう」

彼がそういった。彼はもう死んでいるけれど、そんなことはもうどうでもよかった。僕らは小指をつなぎ合わせ、指切りげんまんを口ずさむ。




遠くの方でサイレンの音が鳴っている。清潔なガーゼや消毒液、漢方のような薬品の匂い、点滴の針が繰り返し刺された跡。白い天井には小さなシミが沢山あって、それはまるであの日の血が滴り落ちている様に思えた。白衣を着た黒猫が優しく微笑みながら自分に問う。「良く眠れますか?」「今は何か見えますか?」。何度も繰り返される質問に僕は笑いながら、彼の存在を黒猫に伝えようとする。しかし、舌が上手く回らず、両手を伸ばそうとするも身体はもう1ミリも動かなかった。目線の端、彼が静かに微笑んでいた。


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